父と子
将維が庭を見ていると、その庭の隅に維月が走って来て池の傍の岩に腰掛け、じっと下を向いた。
将維はそれを見て思った…多分、父と言い争いをして、飛び出して来たのだ。その場合南側の庭だと父の居間と繋がっているので、母は中庭かこの北側の庭へ出る。言い争いといっても、大概は母が勝手に怒って、父がそれを抑えられない時にこうなるので、おそらく父は怒ってはいまい。
将維は庭へと足を進めた。
母の傍に近付くと、母は下を向いてまだじっとしていた。将維は声を掛けた。
「母上?どうなさったのですか。」
維月はくるりとこちらを向いた。目にいっぱい涙を溜めている。将維は戸惑った…これは結構根が深い言い争いかもしれない。
「将維…維心様がわかってくださらないの。」
将維はため息をついた。やはりそうか。将維は母の横に並んで腰掛けた。
「何をでございますか?何か頼み事をされたのですか。」
維月は首を振った。
「いいえ。頼み事ではないわ。私は当然のことを言っただけ。でも、神の世では違うのだと言うの。そればかりなの…。それで、話しも終わらないのに、無理に奥の間へ連れて行こうとしたから、維心様の手を引っぱたいて出て来ちゃった。」
将維は両眉を上げた。
「ええ?!…母上、そんな王妃は聞いたこともございませぬ。」
維月は頷いた。少しばつが悪そうな顔をしている。
「確かに引っぱたいたのは悪かったと思っているけど…維心様ったらああやって無理に言うことを聞かせようとなさるんだもの。腹が立っちゃって、つい…。」
将維はため息をついた。
「それで…いったい何を父上はおっしゃったのですか?」
維月は言った。
「将維のことよ。」と維月は将維を見上げた。「あなたが私を望んでいると言うの。でも、父上が健在で、将維は優等生だから今は逆らうことはないけど、譲位したら全権が将維に移るから、何を言い出すかわからない。だから、今のうちに、それは無理なのだとわからせなければって。私が将維をかわいがり過ぎるって。」維月の目にはみるみる涙がいっぱいになり、零れ落ちた。「あなただって、母だから大事にしてくれるのでしょう。維心様はきっと、考え過ぎなのよ。」
将維は母の涙を自分の袖で拭いながら、考えた。自分はそんなふうに意識したことはなかったのに。あまりに父がそんなふうに言うので、そういうことも出来るのかと思ってしまう自分が居る…だが、やはり将維は母に対する子の感情と、妻に対する夫の感情の違いがわからなかった。
「…それが母上、我は最近わからぬのです。」将維の言葉に、維月はきょとんとした。「我は母上が好きです。これは昔からかわりませぬ。父上にあのように言われるようになって、そういうことも可能なのかと知るに至りました。ですが、我の感情が子の母に対する愛情か、夫の妻に対する愛情かなど、我には判断する術がないのです。これが普通の親子なら母は息子より、神の世であっても年上の外見になって参りますが、母上は全く変わらない。月であられるからです。ですので最近では母というより手のかかる兄弟のような…もしくは妃のような、そんな感覚であるのも確かです。」
維月は首を傾げた。
「…手のかかる?」
将維は苦笑した。
「ああ…まあ、それは今に始まったことではないので。小さな頃より我は母のお世話しなければと思っておりましたし。」
維月はため息をついた。
「そうね…でも、きっと子が母を慕っているのだと思うわよ?」
将維は維月に向き直った。
「では、試してみましょう」と維月の腕を両手でそっと掴んだ。「もしかして異性に対する気持ちなら、わかるはずでしょう。」
維月はあっさり頷いて、将維の頬にキスしようとした。小さな頃からそうして来たので、母から息子への愛情表現でしかない。将維は首を振った。
「そうではありません。それではいつもと変わらぬでしょう。」と維月に顔を近付けた。「我がします。」
間近に迫った将維の顔は、維心にとても似ていた。維月は思わず目を閉じて、その唇が自分に触れた時、ハッとした。どうしよう、これは将維なのに。将維の唇は、不器用に維月の口内を一瞬深く通り過ぎると、すぐに身を退いた。将維は驚いたような顔で、ためらいがちに維月から目を逸らすと、立ち上がった。
「その…母上、我は戯れが過ぎたようでございまする。部屋へ戻ります。」緊張した表情だ。「母上もお早くお戻りになるように。」
歩き出した将維に、維月は言った。
「将維…?大丈夫?どうしたの?」
将維は目を合わさずに首を振った。
「なんでもありませぬ。では、また明日。」
維月はそれ以上何も言わずに将維を見送った。
一方将維は、自分の部屋へと自分の対の中を歩き抜けた。なぜ、我はあんなことをしたのか。確かにどういう気持ちであるのか知りたいと、好奇心に駆られたゆえのことだった。いったいどんな感覚なのだろうと、軽い気持ちだった…しかし、子供の頃からのように軽く唇を触れさせるのではなく、深く口付けた瞬間、体の奥から何かがカッと燃えるような感覚がした。咄嗟にいけない!と思って身を退いたが、自分は母相手に、いったい何をしようと思ったのだ。
将維は自分の部屋へ駆け込んで、首を振った。今日のことは忘れよう。あれは母なのだ。父と取り合うつもりなどない。
将維は立ち上がって、明後日の準備が忙しい明日のために早く寝ようと湯殿へ急いだ。
湯殿の前には、侍女が二人立っていた。将維に頭を下げるが、それが維心の侍女であることは将維は知っていた。中に、父が居る。他の臣下が入らぬように、そこに立っているのだ。
将維は時間を改めたかったが、いつもなら将維なら中へ入れるので、普通に入っていた。今さら引き返すのはおかしかろうと、仕方なく中へ入り、脱衣所で着物を脱ぐと湯殿へ入って行った。
父は、ひとり露天風呂で月を見上げていた。思えばあれも、父の悩みの種であるはず。将維がそう思っていると、維心はこちらに振り向いた。
「将維」父は驚いたように見た。「…今日は主も早いの。」
将維は頭を下げた。
「はい。明後日の準備に備えようと思いまして。」
そして、傍の蛇口へ向かい、体を洗い出した。父はずっと黙っている。
将維が全て洗い終わり、湯船に向かうまで、それは続いた。
将維が遠慮がちに湯船に入ると、維心は唐突に言った。
「…どうであった?」
将維は驚いて父を見た。父は険しい顔でこちらを見ている。
「我が我が宮の中で起こっておることを知らぬと思うてか。」将維が黙っているので、維心は続けた。「母ではないであろうが。」
将維は、父に嘘はつくまいと思った。
「はい。」将維は頷いた。「まさかと思うておりました。ですが父上に言われるまで、そのように考えていなかったことも事実です。我は母上を父上と取り合うつもりなどございません。元より母も我の事は子としか思うておりませんので。なかった事と思うつもりでおります。我も早よう正妃を見付けなくては。」
維心はじっと将維を見ていたが、頷いた。
「そうしてもらえると我も安堵する。維月と無用な諍いをせずに済むゆえな。あれにはわからぬのだ…人であったゆえの。」
将維は母を思い浮かべた。
「…母上に悪気はございませぬ。」
維心は眉を寄せた。
「わかっておる。主、今気が跳ね上がったぞ。」
将維はハッとした…母を思ったからか。
「…申し訳ございませぬ。」
維心はため息をついて息子を見た。驚くほどに自分にそっくりに育った。望んで維月に生ませた、一番最初の子…これが出来た時には、このような事は考えもせなんだのに。
「主が我から維月を手に入れる方法は3つある。」維心は言った。「一つは母の気持ちを主に向けること、一つは譲位した際に維月をそのまま王妃の位置に置くと王として命じること。そしてもう1つは」と、維心は自分の胸を指した。「我に維月の命を切り離すいとまを与えず、我を殺すことだ。」
将維は驚いて父を見た。体が震えて来る。維心はその様子を見て、言った。
「どれも今の主には出来まい。我もそんな理由なら我が父を殺したりしなかった。それに、維月は不死の身を捨てて我について参ると言ったほど、我を想うてくれておる。気持ちを変える事は出来ぬぞ。」
将維は、元よりわかっていた。この父を殺したところで、母は心変わりなどしない。そんなぐらいなら、月へ帰るだろう。
「わかっております。」将維は答えた。「我は母の、子に対する愛情を無くしたくはありませぬので。母を望んだりは致しませぬ。ご安心くださいませ。」
維心が頷いた時、脱衣所の方から侍女の声がした。
「王、おくつろぎのところ申し訳ございませんが、王妃様が先ほど湯殿へ来られ、王がおられるのを知ると、王より先に急ぎ出て来られて…お待ちでございまする。」
維心はすぐに立ち上がった。維月とは、さっきケンカ別れしたきりだ。
「すぐに参る」と将維を見た。「ではな。さっきの事は我も忘れようぞ。」
将維は、急いで出て行く維心の後ろ姿を見送った。我も、元より母は母と思うのみにせねば。それにしても、我はどこまで父に似ておるのだろう…。
維心は急いで着物を着、脱衣所より出て維月の姿を探した。侍女が頭を下げた。
「…せっかく寛ろいでいらっしゃるのに、とおっしゃって」と申し訳なさそうに侍女は言った。「先にお部屋へ帰っておりますと伝えて欲しいと。」
維心は、何を急いているのかわからなかったが、心が急いた。さっき、維月に手を振り払われた時は、本当はとても心に重く響いたのだ…もしかして、愛想を尽かされたかもしれぬと、不安になって、心を落ち着かせようと湯殿へ来た。そこで維月の気を探っていたら、将維との事も見えた…将維にはあんな風に言ったが、実は不安であった。維心は、維月の気持ちとなると、いつも不安でならなかったのだ。元は人であった維月の反応は、結婚50年を過ぎた今でも、時として維心を驚かせる。そして人特有の心変わりを憂いるのだ。
維心は、自分がどれほどに維月ばかりを想うのか、身に染みて分かっていた。もう自分の体の一部のように、無くては命の気の補充もままならない…。
居間に戻る足を速めながら、維月から何を言われるのかと、戸惑う自分がいた。だが、わざわざ自分に合わせて湯殿から早く出て来るほどなのだから、きっと悪いことではないはず。
維心は居間へと足を踏み入れた。
維月は、居間の中には居なかった。
気を探りながら視線を向けると、維月は庭に出て月を見上げていた。…十六夜と話しているのか…。 維心は思った。また、今回の事で月の宮へ帰るなどと言われたら…。
維心は、居ても立ってもいられず、庭への入口に立ち、維月を呼んだ。
「維月。」
維月は振り返った。そしてあっ、という顔をすると、また月を見て、そしてこちらへ向かって駆けて来た。維心は慌てて手を構えて言った。
「そのように急がずともよい。我は急いでおらぬ…」
思った通り、長い裾が足に絡んで、踏みはしなかったものの、よろけて維心の構えていた手につかまった。維月は言った。
「ありがとうございます、維心様。」
維心はいつものことなので、驚きもせずにそのまま維月の手を取って、居間の中へといざなった。
そして、いつもの定位置の広い寝椅子に腰掛けると、言った。
「我に話があったのではないのか。」
維月は一瞬ためらったように目を見開いたが、俯いて頷いた。
「はい。」と自分の手を握っている、維心の手を見た。「…先程は、失礼を致しました。私、とても理解が出来なくて。それなのに維心様が奥の間へ連れて行こうとなさるから…。つい、あのようなことを…。」
維心は頷いた。
「もうよい。」と顔を上げさせた。「…もう怒っておらぬな?」
維月は頷いて、維心の目をじっと見上げた。維心はそれすら愛おしく思えて、その唇を塞いだ。唇が離れると、維月は言った。
「…維心様、将維とこのようなことがありました。」維心が眉を寄せるのを見て、付け足した。「愛情がある無しではなく、私への愛情が母ゆえであるか何であるか見極めるためです。でも、将維は何も言わずに戻ってしまったので、わからなかったのですけれど。でも、きっと母親となんて気持ち悪くなったんだと思うのですけど。」
維心はフッと笑った。
「では、主はどうであったのだ。」
維月は少し考えて、眉を寄せた。
「…私は、あまりに維心様にそっくりなので、思わず目をつぶったのですわ。あれはもう、条件反射のようなものです。でも、よく考えたら将維だったと思って、焦りましたの。あんな時に付き飛ばしたりしたら、将維が傷つくかもと思って、そのままでいましたけれど。」と、思い出したように付け足した。「今、十六夜と話してたんですけど、やっぱり私、将維のことはかわいがり過ぎてるように思いますわ。よく考えると、蒼にそこまでべったりしていなかったなあって。人だったから、余裕がなかったのもあるのでしょうけど。それに将維は、いつまで経っても維心様にそっくりでとてもかわいくて…思わず維心様を重ねてしまうんですの。小さな頃の維心様と私が一緒なら、きっとこんな風にかわいがって育てたなあって。維心様が寂しくお育ちだった分、そのお子は絶対に愛情いっぱいに育てようって思って、育てたから…。」
維月はため息をついた。維心は、維月がそんな気持ちで居るなどとは知らなかった。そして、そんなことも聞かずに一方的に禁じたことを後悔した。
「…知らなんだ。我は主が将維をただかわいがっているだけであると思うて…すまぬ。」
維月は維心を見上げて頭を振った。
「いいえ。私が悪いのですわ。もう将維はいい大人なのですから。私もいつまでも息子にべったりではいけませぬ。あとは妃のかたに任せておくのが一番なのですわ。」と口を押えた。「あ、まだ将維は妃を迎えておらぬのでしたわね。でも、もう良いのではないのかしら。あの子も、維心様並に禁欲的であるから…。」
維月は心配げだ。維心は苦笑して維月の肩を抱き寄せた。
「…そうよのう…」と考え深げに庭の方へ視線を向けた。「我もついさっきまではそのように思っておったが、今は、妃はそのように早く娶らせんでよいと思うぞ。」
維月はびっくりして維心をじっと見た。
「まあ維心様。どうなさいましたの?」
維心は笑った。
「我のことを考えてみよ。あれほどまでに女に興味がなかったものを。主にはこのように頭も上がらぬのよ。」維月がまあ!と反論し始めるのを抑えて、維心は続けた。「400年前の我でさえ、一目で主を想うようになった。運命というのは本当にあると我は思っておる。だがの、闇雲に無理に妃を娶らせて、運命の相手に出逢うた時に、主のように複数妃が居る者には嫁がぬとか申したらどうする?将維は他の妃を殺すかもしれぬぞ…もし我ならやったであろうしの。」
維月は身を震わせた。まさか?
「維、維心様…ご冗談ですわよね?」
維心は真面目な顔で言った。
「何がだ?我には他に妃は一人も居らなんだぞ。記憶を見て知っておろうが。」
維月は首を振った。
「そこではありませぬ。もし維心様に以前からの妃が何人か居られたとして、それでは私がこちらに参らぬと言った時に殺すとかってことですわ。」
維心は驚いたように維月を見た。
「何を言う、冗談ではない。特に正妃が居ったりしたら、里へ帰すことも出来ぬしの。愛してもおらぬのに妃として遇しておったのなら、それだけで立派に我はそやつらに対して責務は果たしておる。我に手に入らぬものなどない。そして、奪えぬ命などない。主を手に入れるためなら、我は何人でも殺しておるわ。」
維月は驚いて身を固くした。確かに、維心様は龍…非情だと言われた王だったけど…本当はお優しいと思っていたのに。では、私にも飽きたら殺すのかしら。
維月が身を固くして黙ったので、維心は不安になった。
「…どうした?我に他に妃は居らなんだと申すに。今更そのような心配はせんでよいだろうが。」
維月は首を振った。
「私にも飽きたら…殺すんですの?」
維心は驚いた顔をした。
「主を?我はそのようなことはせぬ。我が死ぬ時共に連れて参るが…。」
「でも、正妃とされていたかたがいらしても、私を迎えたければそのかたを殺してしまわれるんでしょう…もし、私以上に愛する方が出来たら、私はお邪魔になってしまうもの。」
維心はため息をついた。
「なぜに主はそのように考えるのかの。我が主を殺すなどと、どうすれば考えられるのだ。これまで我が主に対してして来たことは、皆偽りだったと申すのか。」と維月の肩から手を離した。「そう思うと、何やら虚しいの。主は未だ我を信じておらぬのだな。」
維月はそれを聞いて、横を向いた。そういう意味ではないのに。だって、正妃にしていたってことは、正妃にするほど情を掛けていたってことで、それでもその人を、殺すって簡単に言えるわけでしょう…。そんなことを聞かされて、正気でいられる妃っているのかしら。現に今、私が正妃だし。他にどうしても欲しいひとが出来たら、私を殺すってことじゃないの…。
維月は立ち上がった。
「では…もう休みまする。十六夜とも、話が途中でございましたので。」と頭を下げた。「お先に失礼いたします。」
維心はちらりと目を上げたが、頷いた。維月は自分の部屋へ帰って行った。




