穏やかな日々
全てを捨てて出て来たその日、維月は炎嘉の封じられた場所へ行った。
神世に別れを告げたことは、知らせておこうと思ったからだ。
そこは、十六夜の力で封じられ、ほんのりと光り輝いていた。きっと、人にはこの光は見えないのだろう。
維月は思い切って話し掛けた。
「…炎嘉様。」
相手は、おそらく真っ暗な中にいるのだろう。ためらいがちに答えた。
《維月か…?我は何も見えぬし、何も感じぬ…。本当に封じられたのか…?》
維月は頷いた。
「はい。十六夜が封じました。でも、きっとしばらくしたら出してもらえまする。安心してくださいませ。」としばらく黙った。「炎嘉様。お別れに参りました。」
炎嘉は驚いたような声で言った。
《わざわざ別れを言いに来てくれたのか…?主にあんなことをしたというのに。》
維月は思い出して少し身震いした。確かに、あれはつらかった。
「私は人の世に帰りまする。いつか十六夜から封を解かれても、もうお会いすることはありませぬ。気も隠し、姿も変えます。誰にも私を追うことは出来ません。」
炎嘉は少し黙った。そして言った。
《何があったのかは聞かぬ。しかし、神の世は主に合わなんだのだな。なんとのう分かる気がする…。》
維月は相手に見えないのを知っていて、頭を下げた。
「それでは、炎嘉様…。早く十六夜が封を解いてくれることを、お祈りいたしております。」
相手は、頷いたように感じた。
《達者での、維月…。》
そして、維月は、人の世へ帰った。
「お疲れ様です。」
維月は頭を下げた。相手は軽く手を上げた。
「お疲れ~明日もよろしく!」
同じパート仲間の女性が答えた。維月は愛想良く笑った。
「はい。」
そうやって仕事を終えて同僚と別れ、維月は一人海岸線沿いを歩いてアパートへ向かった。力を極力使わないようにしていたが、アパートを借りる時とか、職を決める時とかには、少し使わせてもらった。今の自分は、この世に居ないはずの人だからだ。
最近ではスーパーのパートも板に付いて来た。なるべく目立たないように、普通の人に見えるように、大勢に紛れることが出来るスーパーマーケットを選んだのだ。
お金は、人であった時のものを埋めてあったのだが、それを掘り出して実はかなり持っていた。
だが、人の世で何十年何百年と過ごすことになるかもしれない。そのために、あまり使わずに居た。
とりあえず、自分は食べる必要がない。なので、月に僅かな収入だけでも確保出来れば、それでやって行けるのだ。
起動に乗った人の世の生活に、維月はホッとしていた。
ここでは、大切な人が殺されてしまうというような恐ろしさはない。さらわれるという焦燥感もない。悩みと言えばお客様のクレーム、人間関係の軋轢…これは、幸い良い人達に恵まれて無かったが、そんなことぐらいだった。
維月はふと立ち止まって、海を見た。
久しぶりに聞く、忘れかけていた維心様の声…。
もう一年近く経つのに、まだ、私を探していらっしゃるのか。維月は、もうとっくに呆れられて無かったことになっているのでないかと思っていた。そしてまた、皆が私を忘れた頃に、それが何百年後であろうと、ひっそりと月の宮へ戻って、その端の方で暮らそうかと思ってもいた。
いくら神世が耐えられないと言っても、不死の息子のことは気になるからだ。
維月は、そっと左手の薬指に触れた。もう、会うことはないだろうと思っても、どうしても外せなかった、あの日維心様に着けてもらった指輪…。
維月はそれを、外そうと力を込めた。
でも、やっぱり外せなかった。
自分の未練に呆れながらも、一つぐらい思い出を残しておいてもいいか…と維月は思った。
皆が私を忘れても、私は覚えていようと思っているんだから。
維心は、人の姿をして街中を歩いていた。
普段の姿だとなぜかどうしても皆が見るので、維心は少しばかり小さ目な体に姿を変えて、気を探りながら何気ないふりで居た。
目の色は変え辛く、意識を集中しなければならないので、そのままにした。この国では、そのほうが外国人だと思われて、少し突飛な行動をしてしまっても変な目で見られることがないので、神としては助かっていたのだ。
確かに、この町の中だった。
維心はそう思って、手に陰の月の力の玉を握り締め、一生懸命気を探った。その玉は、既に光は無くなっていたが、しかし維月が残した、たった一つの気。何かを教えてくれるかもしれないと、維心は思っていた。
ショッピングモールや、地元の商店街など、一通り歩き回ってみるものの、維月の気は感じられなかった。気が感じ取れないのは分かっていたが、近くへ寄れば、きっと何か分かると思っていたのに。
維心は、行く所も無くなり、堤防の上に腰掛けて、沈んで行く夕日を眺めていた。
ふと、人の男女が仲良く手をつないで砂浜を歩いて行くのが見える。前に見た時は、何も思わなかったその光景が、今は羨ましくて仕方がない。自分は未練がましいのだろうか…。維心は思った。維月は、我を捨てて行ったのに。神世を嫌って出て行ったのに。見つけて無理矢理連れ戻して、自分のために傍に置こうとするなんて、炎嘉と同じなのではないか。
維心は、立ち上がった。左手の指輪が夕日に光っている。永久に共にと、誓ったではないか。死しても付いて来てくれると、言ったではないか。なのになぜ、我を捨てて行ってしまったのだ。行方すらわからなくなるようにして、決して後を追わせないようにして…。
維心は、涙がこみ上げて来るのを感じた。維月は我を案じていた。いつも。この命が無くなるかもと知れた時、深く悲しんでいた。我は責務のために、すがる維月を残して地に会いに行き、命を落とし掛けた。戦場へ行くなと言っていたのに、それは責務だからと無理に説き伏せた。花見の時も、供も連れずに飛び立った我を、維月は呼んでいたのにそのまま残して行った。その度に、維月は我を案じて、待っていた。そんな毎日が耐えられなくなったのだ…。きっと、愛してくれていたから、尚更に。
夕日が沈み、月が上り始めた。十六夜の気配がする。ずっと月から降りて来ることがない十六夜は、きっとずっと維月を念で呼んでいるのだろう。その声は、維月に届いているのだろうか…。
維心は、無意識の内に海岸を歩き、気が付けば炎嘉に捕えられた維月を見つけた場所に足を運んでいた。
今は、炎嘉が封じられている場所。どちらにしても、維心にはこの封印は解くことが出来なかった。十六夜が封じたからだ。
「炎嘉…」
維心は無意識に名を呼んでいた。今なら、炎嘉の気持ちがわかる。思っていても、思ってもらえない。そして、さらって閉じ込めて、自分だけのものにしようとした。
相手がそれを望んでいないのは分かっていたが、それでもその気持ちをどうにも出来なかった。今の維心には、炎嘉のその気持ちが、痛いほどわかった。
《…維心か…?》
思いも掛けず、炎嘉の声がした。維心は、驚いた。
「炎嘉、封じられておるのに、聞こえるのか。」
炎嘉は笑ったようだった。
《維月が別れを言いに参った。おそらく、その時少し封が緩んだのであろうな。あれは気付いておらんようだが、あれも月であるゆえ。だが、これ以上は何も出来ぬ。》
維心は、必死に言った。
「維月が来たのか…?!なんと言っていた?」
炎嘉は答えた。
《人の世へ戻ると。それで別れを言い、去って行った。それだけよ。》
維心は砂浜に膝をついた。
「維月は我を捨てて出て行った。なのに我は、まだ諦められぬ。探して回っても、見付からぬ…見付けて連れ戻すなど、我のワガママなのはわかっておるのだ。主と同じ…我は主の気持ちが、今わかるのだ。」
炎嘉に嘲笑されるかと思ったが、炎嘉は穏やかに言った。
《そうよのう、我らはそっくりよ。だがな維心、違う所があるぞ。維月は我を愛しておらなんだが、主は愛していた。あれが出て行ったのは、主を愛するあまり、神世が耐えられなかったゆえよ。主が容赦なく敵を斬り捨てて行くのを見た維月は、主を心配するのみで恐怖も嫌悪もなかった。維心…維月は王妃は無理かもしらぬが、主の妻であるのは良いのではないか?ただの神の主ならば、そうそう命の危機にさらされることもあるまいに…。》
維心はハッとして顔を上げた。維月は我を捨てたのでなく、王妃である自分を捨てて行ったのか。耐えるのが王妃なら、それは無理だと…。
「…元より王座など我には要らぬ。だが、将維が育たぬと、地が降りることを許してくれぬ。我は…そんなに長い間、維月と離れて生きては行けぬ…。」
炎嘉は頷いたように思った。
《維心…ならば、維月にそう言ってみよ。後わずかで良いから耐えてくれと。まだ愛しておるなら首を縦に振るであろうぞ。だが、主の言うように既に捨てておるつもりなら…我のように成り果てるか、諦めて遠くから見ておるかよ。》
維心は下を向いた。
「炎嘉…だが、見付からぬ。維月の気配、確かにこの近くに感じたのに。己の気を封じ、姿を変えておって、一日歩き回ったのに見付ける事が出来なんだ。」
炎嘉は言った。
《諦めるのか?維心。主の気持ちとはその程度か。心が繋がっておれば、どんな姿になっていようとも、わかるものよ。》
維心は立ち上がった。
「炎嘉…すまぬ。我は我を忘れておった。必ず、月を説得して主をここから出すゆえの。」
炎嘉は笑った。
《もう良いのに。最近、何も煩わしさのない、この状態を楽しんでおったのよ。ま、期待はせずにおるよ。》




