表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨埋み  作者: 大正ふにに
9/18

9.掴めぬ青

 ホイッスルの高く澄んだ音が、耳に届いた。

ようやく乾いてきたグラウンドで、運動部が活動を始めたのかもしれない。

トウヤは、静かに目を開いた。

視界の端の橙が、風の動きに合わせて軽そうに揺れている。

少年は目を閉じて、ピクリとも動かない。

寝ているのかもしれない。

 しばらくぼんやりと少年の様子を眺めていたトウヤは、ふいに、軽い衝動を覚えた。

その目を、開いて欲しい。

そして、昨日の、あの強さと激しさを秘めた瞳を、もう一度見てみたい。

できるなら、雨に立ち向かうその姿を、もう一度。

「――なあ」

 顔を向けながら、声を掛けてみる。

当然のように、少年からの返答はなく、ただ風だけがその明るい色の髪を揺らした。

お構いなく、トウヤの静かな声が続ける。

「寝てるんか…?」

 返事は、ない。

「なあ」

「…」

「なあて、ヤジマ」

 僅かに、少年の目が薄く開いてトウヤへと向けられた。

「…何で知ってんねん」

 不機嫌そうに眉が寄せられる。

その下の瞳が、陽射しの下で淡い色のまま探るようにトウヤを見ている。

そこには、激しさも、強い光も見当たらない。

僅かな落胆を感じながらも、トウヤは背後のフェンスへと凭れなおした。

「自分、今日から有名人やからな」

「…」

「その頭」

 トウヤの視線だけが動いて、ゆっくりと橙色の髪を捉えるのに、少年の手が軽く自分の髪に触れる。

小さく息を吐き出すと、口の端がほんの少し上がって、笑みを刻む。

楽しそうでも、嬉しそうでもない、苦笑に近いその表情。

「あんた、1年ちゃうやろ。そっちにまで話いってんの」

「罰ゲームやとか、校則に対する反乱やとか聞いたな」

「…あほらし」

 鼻先で笑って、少年は言葉を切った。

そのまま、ちらりとトウヤを見遣る。

「あんたは、どっちやと思う?」

 どこか楽しんでいるような少年の視線に、トウヤは軽く首を傾げて少年を見返した。

「どっちもちゃうやろ」

「ご名答や」 

 トウヤの答えに、少年はまた、鼻で笑った。

そうして、つんつんと自分の髪の一房を指で引っ張って肩を竦める。

「正解記念に教えたるわ。これはな、俺の、無言の抵抗。で、ちょっとした嫌がらせや」

 言いながら、少年の眼差しは正面のフェンスを通り越して、どこか遠くを見ている。

返すべき適当な言葉が見当たらなくて、トウヤも視線を遠くへと投げた。

「昨日染めたんか?」

「――そや」

「昨日、欠席やったって聞いた」

 言いながら、トウヤの視線が少年の上へと戻ってくる。

「そやのに、なんで放課後、学校におったんや」

 遠くを見たままの少年の瞳が、ほんの僅か狭められる。

そのまましばらく、互いに口を開かない。

返事を諦めかけた頃、少年がふいに上空を見上げた。

つられて空を仰ぐトウヤの隣で、少年の身体がずるずると縮んで屋上に寝転がる。

コンクリートの上、仰向けに空に向かい合いながら、少年の手が青空を掴むように差し伸べられた。

「雨降ってきたやろ」

 返答らしき言葉は、しかし、トウヤの中で質問の答えにはならない。

続く言葉を待つトウヤの耳に、透明な響きで風に溶け込んだ少年の声が届いた。

「雨、降ってきたから、洗い流してもらお思て。…空に一番近い場所考えたら、ここしか思い浮かばんかった」

 空を掴もうと握りこまれた少年の指の間を、青い色は擦り抜けて、ただ拳だけが残る。

その拳が、力なく少年の胸の上へと落ち着いた。

ゆっくりと、トウヤの聴覚に、雨の音が押し寄せる。

不思議と不快感の伴わないその中で、甦るのは雨に濡れる少年の姿だ。

「…なあ」

 トウヤの、深い色の瞳が少年を見下ろす。

「何を洗い流してもろたんや。…汚いモンって、何?」

 昨日の少年の言葉を思い出しながら、静かに尋ねる。

何を思って、あんな風に雨の中、強い瞳で空を睨んでいたのか。

少年の瞳の中、答えを見つけようと覗き込むトウヤの視線を、しばらく無言で見返していた少年は、しかしふいにその視線を空へと逃した。

ひらひらと両手を空に向かって揺らしながら、口を開く。

「あかんわ。出血大サービスや。正解記念にしては、喋りすぎや、俺」

「ヤジマ」

「…あんたが近所のオバちゃんよろしく根掘り葉掘り聞いてくるから、つい色々言うてしもたやん」

 早口に紡がれる言葉に、責めるような響きは含まれない。

はたはたと揺れていた掌を止めて、少年の瞳が再びトウヤに戻ってきた。

「なんや、俺だけズルイ。フェアやない」

 そやろ、と同意を求めてくる少年の瞳の中、青い空と困惑気味な表情を浮かべた自分の姿が写っている。

「あんたは、何でや。あんたは、何で、雨から逃げてくんねん」

 真っ直ぐに向けられた少年の瞳と言葉に、トウヤの目がほんの僅かに細くなる。

「俺は…」

 言いかけた自分の声は、風が攫って掻き消していく。

「俺が逃げとるのは――」

 雨が連れてくる白い腕と、記憶と。

じわり、身体の奥で雨が冷たく滲んで、それ以上は言葉にならずに、喉の奥に消えていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ