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雨埋み  作者: 大正ふにに
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8.屋上

 終業のホームルームが終わると同時、トウヤは鞄を引っつかんで逃げ出すように教室を出た。

息苦しかった。

弾けて消える赤血球の映像が、目を瞑っても何度も何度もリフレインする。

たどり着いた階段を、下りることはせずに上に向かう。

すれ違う生徒達の顔すら、見ている余裕はなかった。

駆け足になりそうな歩調で、階段を登る。

3階を越えて、目指すのはその上だ。

 踊り場ではなく、屋上に行きたかった。

橙色の頭が、脳裏を過ぎる。

心が急いた。

あの少年が、再びそこにいる保障はない。

だけど、どこかで、トウヤは期待をしていた。

 放課後の生徒達の喧騒がざわめきに変わる階段頂上の踊り場。

半ば駆け上がるようにやってきたその場所で、トウヤは軽く乱れた息のままに立ち止まる。

「…閉まっとるんか」

 落胆に、トーンの落ちた声が、かすかな反響を伴って響いた。

思わず、その場にしゃがみこみそうになる。

相変わらずぐるぐる巻きにされたチェーンと南京錠が、厳重に屋上への扉を閉ざしていた。

見遣れば、床には昨日少年が作った水溜りの跡が、かすかに残っている。

 トウヤは、小さく息を吐き出した。

何を自分勝手に期待していたんだろうと、恨めしい気持ちが押し寄せてくる。

今日は快晴だ。

昨日の少年の言動を考えれば、今日、あの少年が屋上に居る可能性は低い。

どころか、雨の日にしても毎回ああしているとは、考え難い。

 チェーンに触れた指先に、ざらりとした錆の感触が伝わって、慌てて手を引っ込める。

指についた鉄が、鼻先にまでツンとした匂いを運んでくるような気がした。

血の匂いだ。

思ったとたん、みぞおちを強く押されたような感覚に視界が揺らいで――、

「今日は、雨降ってへんやん」

 唐突に背後からかけられた声に、歪んだドアの枠は直線を取り戻す。

男子生徒のものにしては、高いソプラノ。

首筋の産毛が逆立つような感覚に、背後を振り返ったトウヤは、そのまま動きを止める。

 都合の良い期待通りに、橙色の頭がそこにあった。

どこか憮然と、呆れたような表情を浮かべて、階段の途中に立っている。

その視線は、真っ直ぐに踊り場に立つトウヤへと向けられていた。

ヤジマ カイジ。

目の前の少年と、頭に刻んだ名前が一致して、少年の姿が一気に現実感を帯びる。

「…お前こそ。今日は晴れてる」

 やっとの事で出てきた声でそう言うと、少年が鼻を鳴らした。

「ここは俺の特等席や。晴れの日に来て何が悪いねん」

 ポケットに手を突っ込んで、昨日仕舞い込んだ鍵を取り出しながら、不満げに言う。

少年は、残りの階段を上がると、トウヤの横で身を屈めて南京錠を外しにかかった。

その様子を見ながら、ふと思った事を口にする。

「その鍵。何で自分持ってんねん」

 面倒臭そうに、少年の視線がちら、とトウヤに向けられた。

返事はない。

かわりに小さい音がして、南京錠が解除された。

そのまま黙々と錆付いたチェーンを外し出す。

 ヤジマ カイジ。

噂に聞いた、「明朗快活で面倒見の良い優等生」の像には、目の前の少年の姿は一致しない。

トウヤは、ドアが開くのを静かに待った。

いつの間にか、吐き気も、不快な息苦しさも、嘘のように消え失せていた。


 吸い込まれそうな程に、屋上を包み込んだ空は青かった。

少年は、屋上のドアを開けるとトウヤを振り返りもせずにドアの向こうに消えた。

後を追うように屋上へと足を踏み入れたトウヤの姿を、やはり振り返ることなく、真っ直ぐに屋上を横切って端のフェンスまで歩いていく。

 ドアを開いたままに立ち尽くし、トウヤは少年の背中から上空へと視線を移す。

青い空は透明に澄み渡っていて、飛行機雲だけが一筋、空を分かつように真ん中を突っ切っている。校舎の側面を吹き上げてきた風が、上昇気流となってトウヤの前髪を持ち上げた。

「そこ」

 遠くから聞こえた声に顔を戻す。

「ドア、閉めといて」

 突き当たりのフェンスに凭れた少年が、トウヤの背後を指差して億劫そうに言った。

そのまま、トウヤの返事を待たずに、ずるずるとフェンスをずり落ちて、その場に座り込む。

振り返ったドアから、放課後のかすかなざわめきが、オブラートに包まれたように優しく耳に届く。ゆっくりと錆びたドアを押し遣ると、音も立てずにドアは校舎と屋上を遮断した。

 まるでどこか、別の空間のようだと思う。

青空に包まれた屋上には、生徒の匂いの染み付いた学校臭さはない。

深呼吸を一つして、新鮮な空気を肺に満たしてから、トウヤは固いコンクリートの上を歩き出した。灰色のコンクリートは白く乾いて、昨日の雨の残り香はそこにはない。

 近づいて来る足音に、座ったまま目を閉じていた少年が、薄く瞳を開いた。

少年の隣、やや距離を置いて同じようにフェンスに凭れて腰を落ち着けるトウヤの様子を視線だけが追い、やがて興味を失ったかのように、再び目が閉じられる。

 少年に倣うように、トウヤはその目を瞑ってみる。

陽射しの熱が、緩く肌を焦がしていく。

フェンスを越えて吹いてくる風は乾いて、サラサラと髪を揺らす。

運ばれてくる匂いは、どこか青い草の匂いがした。

少し離れた場所にいる少年の息遣いはトウヤの耳にまでは届いてこない。

ただ、目を瞑っていても、少年の体温がそこにあるのを、肌が感じている。

居心地が良かった。


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