7.溶血
「それじゃ、ビーカーを見て欲しい。3つ用意してあるけど、各ラベルにそれぞれ高張液、等張液、低張液と書いてあると思う。みんなに配ったスライドガラスが3枚。それぞれの液をスポイトでスライドガラスの血液中に注入して、反応を見ていこう」
結果はさっき説明した通りやけど、実際見てもらうのが一番分かりやすいと思う。
カジやんの、始終穏やかな声が実験の開始を告げて、今まで暇を持て余し気味だった生徒達はさっそく実験に取り掛かった。
まずは等張液。
細かい作業に慣れぬ手先を緊張させながら、班長の男子生徒がカバーガラスとスライドガラスの間にスポイトを寄せる。
みんなで交互に顕微鏡の中を覗き込んで、どこからともなく面白くなさそうなため息が漏れた。
顕微鏡に写りこんだ赤血球は丸々としたイクラのようで、それが幾つも点在している。カジやんの説明通り、等張液中の赤血球に変化はなかった。
顕微鏡を通してみれば、血は、赤い色をしていなかった。
くすんだ小豆色のそれと同じものが自分の中を満たしているのだと思うと妙な感じがした。
「なんや、面白くなさそやなあ」
カジやんののんびりした声が生物室に楽しそうに響いて、そしたら次は高張液や、と続く。
同じようにスポイトで液を注入して、やや期待を篭めた目で、生徒達が次々と顕微鏡を覗く。
「どや、小さなったか?」
班に一つの顕微鏡を交互に覗いて、生徒達が頷き合う。
高張液に包まれた多数の赤血球の粒は、居心地悪そうに身を縮めて、肩を寄せ合う。
「それが浸透圧や。赤血球中よりも、外の液体の方が濃度が濃い。液体は濃度を均等にしようと働く性質があるから、この場合、濃度の薄い赤血球の中身が外の液の中にジワジワと滲み出して、結果小そうなる」
カジやんの、ゆっくりとした説明が生徒達の耳に落ちてくる。
「さて、最後の低張液いこか。今回は水道水を使ってるけど、これが一番面白いんや」
同様に、最後の液体を新しいスライドガラスへと注ぎ込んで、顕微鏡にセットする。
「言い忘れたけど、液体入れたら、急いで見てや」
付け足された言葉に、のんびりと構えていた生徒達が慌てて顕微鏡を覗き込んだ。
あちこちから、「あ」とか「すげぇ」とか言った声が漏れる。
満足そうに頷いている教壇のカジやんを見ていたら、班長の男子生徒がトウヤの腕を突いた。
「ほら、早よ見てみい。ちょっとおもろいで」
嬉しそうに顕微鏡を指差しながら言う彼に、促されるままに、中腰になって顕微鏡を覗き込む。反射鏡の白い明かりで丸く切り取られた顕微鏡の中、イクラに似た形の、薄い膜を持つ赤血球が幾つも米粒をこぼしたように散らばっていた。
視界の中、赤血球が蠢いた。
何が起きているのか、瞬間的には分からない。
目を眇めてよく確かめようと覗き込んだ先で、さらにいくつかの赤血球が楕円形へと引き伸ばされて、かと思うと薄れて消える。次々とその変化は全ての赤血球へと伝染していく。
「それが、溶血や」
カジやんの、楽しそうな声を耳に聞きながら、トウヤは視界の先で起こる変化から目が離せなかった。
ひりひりと、喉の奥が痛み出す。
「さっきとは逆で、今度は周りの水の方が濃度が薄い。…つまり、どうなるかは見ての通りやな」
開いた目が、壊れていく赤血球から、外せない。
「赤血球の膜を通り抜けて、濃度の薄い水が赤血球中へと浸透していく。赤血球は、風船のように膨らんで、やがて耐えられなくなって破裂する。…ちゃんと見えとるか?」
カジやんの声は、耳から入ってきて、頭の中で意味を為すことなく、通り過ぎていく。
くすんだ茶色の赤血球は、次々と震えてはいびつな形に引き伸ばされ、そうしてやがて膜が弾け飛ぶように破裂して、その形を失っていった。次々と、数える間に、液中の赤血球の数は減っていく。
まるで、シャボンが弾けるようだ。
水は、赤血球の中へと静かに沁み込み潜り込んで、赤血球を震わせ、壊していく。
忍び寄るような雨の音が、カジやんの声に混じって鼓膜を震わせた。
胃の底の、みぞおちの辺りから冷たいものが全身に広がっていく。
身体の奥深く、どこかで、もぞりと。
不快な感触を伴って、沁み込んだままの雨水が蠢いた。
息が詰まりそうになって、しかし、突如肩を揺すられるのに身体が自由を取り戻す。
顕微鏡からようやく離せた目を揺すられた肩に向ければ、迷惑顔の女生徒がトウヤを見ていた。同じ班の女子だ。
「もー、サイキくんばっかずるいわ。ちゃんと交代してくれな、見られへんやん」
彼女の後ろで、もう一人の同じ班の女子が頷いている。
ごめん、と息をつくように言って、トウヤは顕微鏡の前から横にずれた。
腕を再び誰かが突く。
「な、おもろかったやろ?」
無邪気な笑みで、班長の男子生徒が笑いかけた。
「…そやな」
ようやくそれだけを口にした唇は、乾いている。
笑おうとした口端は、上手く上がらなかった。
騒ぎながら2人、交互に顕微鏡を覗いているセーラー服の女子生徒の隣、再び椅子に腰を下ろしたトウヤは、その手を軽く額に添えた。
しっとりと、汗ばんでいる。
妙に冷たい汗だった。
教壇で何かを喋っているカジやんの声は、もう耳には届かなかった。
何よりも早く、ココを抜け出してしまいたかった。
凍えたような強張りを残す身体に、朝のだるさが甦ってきて、椅子に座ったまま床に沈んでしまいそうな錯覚すら覚える。
軽く頭を振って見遣った窓の外は、当然のように晴れ渡っていて、雲一つ、見当たらなかった。