6.カイジ
「うわ、目立つなあ…」
しばらく黙っていたナミが、唐突に素っ頓狂な声を上げた。
反射的に、トウヤも顔を上げる。
影ばかり見ていた目に、校門の姿が明るい陽射しとともに飛び込んできて一瞬くらりと視界が揺らいだ。
その中に、さらに明るい色彩が過ぎる。
瞬間、頭の芯に冷水を掛けられたように、脳が一気に覚醒する。
視界の中、曲がり角を曲がってきた数人の学生達の中に、その姿があった。
陽射しの中で見れば、その橙色はほとんど蛍光色に見える程、明度が高い。
短く刈られた橙色の髪。
群れている数人の生徒達に混じっても、その姿は群を抜いて目立っている。
「あいつ…」
思わず零した言葉に、ナミがトウヤを見る。
「知り合いなん?」
「…いや」
首を振りながら、トウヤの視線は数メートル先をこちらに向かって歩いてくる少年達に向けられている。
一際目立つ橙頭の少年は、実に楽しそうに笑っていた。
つるんでいる仲間達と肩を並べて、何が楽しいのか、しきりに肩を揺らして笑う。
こちらには気付いていないようだった。
「すごい色やな…あれ、さすがに先生達、黙ってへんのちゃう」
隣で呆気にとられたようにナミが呟く。
だんだんと近づく少年との距離に、トウヤはざわつく肌を感じていた。
――気付け。
ただ少年だけを視線に捉える。
――気付け。
太陽を浴びて、少年の髪が光る。その肌は軽く日に焼けて、いかにも健康そうな色合いをしている。薄い唇が、友人達との会話によく動く。
――気付け。
少年の気の強そうに上がった大きめの瞳が笑みを刻んで、そうして、そのままにトウヤの姿を捉える。
目が合う。
距離は4,5メートル。
視線が絡むのは、ほんの一瞬。
聞こえるはずのない雨の音が空間を満たして、空気の密度が一気に濃くなる。
肌のざわつきは、身体を廻る血のざわつきへと変わる。
ス、と。
少年の視線が引掛かり無くトウヤの上を通り過ぎた。
そのまま、何の関心を示すこともなく、少年の視線は仲間達のもとへと戻っていく。
相変わらず仲間と笑い合いながら、校門の内へと消えていくその姿。
「…どしたん?」
すぐ傍で聞こえたナミの声に、トウヤの意識はようやくその場へと戻ってきた。
不思議そうに見つめるナミに、自分が立ち止まっていた事に気がつく。
「――いや。何でもない」
緩く首を振って再び歩き出す。
自分も校門をくぐりながら、校舎へと消えていく橙色の頭を見遣る。
雨に臨む姿が、凛と伸ばされた背筋が、鮮明に脳裏に甦った。
それは、渇望に近いかもしれない。
ただ無性に、強い眼差しで雨に向かうその姿を、もう一度見たいと思った。
昼休みをむかえて、弁当片手の生徒達によって教室が一番騒がしくなる頃には、噂は2年全体に行き渡って、トウヤの耳にも入ってきていた。
1年に、すごい奴がおるらしい。
何でも昨日は欠席で、今日は来たと思ったら、目が痛くなりそうな橙色に髪を染めてきたとか。
それが、先生の覚えもめでたく、クラス委員もしている折り紙つきの優等生だったとか。
あれはきっと、校則に対する反乱の証に違いないとか。
そうでなくて、実は罰ゲームか何かなんじゃないかとか。
朝、さっそくその事で風紀担当の生物教師に呼び出しを食らっていたとか。
そのまま説教くらって一時間目は戻ってこなかったとか。
橙色の頭の主は、ヤジマ カイジ。
1年B組、クラス委員。
性格は明朗快活、面倒見が良く人気者。
女子からも男子からも慕われて、成績も優秀、先生達の評判も上々。
ヤジマ カイジ――。
暇を持て余す生徒達から発せられる情報の中から、トウヤは、噛み締めるようにその名前を頭に刻み込んだ。
6限目、晴れ上がった空から落ちてくる光の帯が、生物室の床に窓の枠を写してまだらの影を描いている。開け放たれた窓から、爽やかな風が吹き込んできて、所々にシミのある黄色いカーテンを柔らかに揺らしていた。
各班ごとに分かれて実験用の台の前に座る生徒達は、思い思いに暇を潰しながら午後の気だるい授業をやり過ごしている。
ぼんやりと窓の外に見える景色を見るともなしに見ている者、手にしたシャープペンシルで、白いノートの端っこに黒い点々を落書きする者、髪の毛を弄る女子、先生の説明を聞いている振りで、耳につけたイヤホンから聴こえる曲に足元でリズムをとっている男子。
音漏れのシャカシャカと掠れた音が零れてくるのを聞くともなしに聞きながら、トウヤは教壇に立って黒板に白いチョークを走らせる教師の背中を眺めていた。
30を過ぎたばかりだという生物教師は、長身を白衣に包んで黒板に向かっている。
チョークで書かれるのは、今日の実験の概要だ。
黒板を白く汚していくチョークの音は、小気味良く耳に届く。
穏やかに実験の説明を交える声は、緩やかな起伏を持っていて眠気を誘った。
ふと、昼に聞いた噂話を思い出した。
「風紀担当の生物教師」とは、確かこの教師のことではなかったか。
トウヤの視線は、説明を終えて各実験台にスライドガラスを渡してまわる教師の姿を追う。
柔らかい物腰の、どこかおっとりとした教師は、「カジやん」と呼ばれていた。
カジハラ先生。
教師の中では若く、決して怒らないと言われているこの教師は、概ね生徒達から慕われている。「カジやん」も、好意を篭めた愛称だ。
やんわりと笑む柔和な表情には、威厳こそないが非常に親しみやすい。
一見頼りなくもみえるカジやんの動きを視線で追いながら、トウヤはぼんやりと少年の橙の髪を思い浮かべた。
カジやんは、ヤジマ カイジとどんな話をしたのだろう。
風紀担当として、あの髪の色をたしなめたのだろうか。
それとも、理由を尋ねたのだろうか。
ヤジマ カイジは、カジやんに、何を話したのだろう。
ぼんやりと思い描いた二人のやり取りの場面から、二人の声は聞こえてはこなかった。
カジやんは、丁寧な手つきでスライドガラスを各班へと手渡していく。
トウヤの班の前まで来て、班長の男子生徒にそれを手渡すと、用意されていた顕微鏡にセットするようにと指示を与えた。
視界の端に捉えたスライドガラスは、薄赤い。
窓から入ってくる光を受けて、スライドガラスの端が偽物くさくキラリと煌いた。
いそいそと顕微鏡にスライドガラスをセットする男子生徒越し、黒板に書かれた文字に目を走らせれば、白いチョークが角ばった字で今日の実験の題名を記していた。
「浸透圧による赤血球の溶血」。
とすれば、さっきの薄赤い色は、血の色だ。
顕微鏡に設置されたスライドガラスを目を細めながら見遣って、トウヤは僅かに口もとを歪めた。
生暖かい感触が、背中を包んだような気がした。