5.記憶
幼い頃、両親は仲が良かったのを覚えている。
恋愛結婚の末に結ばれた両親は、子供の視線から見ても、互いを愛していたように思う。
やがてトウヤが生まれて、弟のユウヤが生まれて。
家族は4人になった。
アウトドアが好きな父と、料理が得意な母。
トウヤに懐いて始終後を金魚のフンのごとく着いてきていたユウヤ。
有名企業の出世頭だった父の儲けで、家族はそれなりに裕福な生活を送っていたし、トウヤが物心つく頃には、すでに今の一軒屋に住んでいた。
隣には、今と同じようにナミが暮らしていて、穏やかで幸せな生活は、トウヤが中学3年になった夏まで続いた。
歯車は、けれどある時突然に、狂ってしまった。
引き金となったのは、ユウヤの死だったのだと思う。
誰のせいでもなかった。
運が悪かった。
トウヤより2歳年下の弟ユウヤは、13歳でこの世を去った。
死因は、水死。
雨で増水した川が、ユウヤを飲み込んだ。
トウヤの受験もあり、毎年家族揃って出かけていた夏のキャンプも、これを最後にしばらくお預けだというその夏に、ユウヤは逝った。
蒸れるような夏の湿気と暑さの中、数日前まで降り続いた雨は川を増水させていた。
川のほとりでのキャンプ。
バーベキューの匂い。青い大きなキャンプテント。
気がついた時には、ユウヤの姿はなかった。
いつの間に、どうして、流れのきつい川に近づいたのか。
今となっては分からない。けれど、気付いた時にはユウヤの姿はなく、その姿が見つかったのは遥か下流。水を含み、フヤケた身体は、すでに弟の姿をしていなかった。
母が黙り込むことが増えた。
父は時々ぼんやりとしていた。
両親の会話が減った。
トウヤは、必死だった。
失ってしまった4分の1を埋めようと、わざと明るく振舞ってみたり、軽口を叩いてみたり。
だが、亡くしたパーツは大きすぎて、歯車は歪み、軋み始める。
両親の喧嘩が増えた。
ちょっとした事で、母が父を責める。
穏やかだった母が、ヒステリックに声を荒げて父を罵り、優しかった父は怒りに任せて手にした灰皿を壁に叩き付けた。
喧嘩の後、父は必ず家を出て行き、母は部屋の隅に蹲って声を殺して泣いていた。
トウヤは、どうすることもできずに、己の無力さに爪を噛んだ。
そんな日常が続いて、自然、父が帰らない日が増えていった。
女の影がちらついて、時折家に戻ってくる父からは、知らない匂いがした。
高校に入り、一年が終わりかけた頃。
委員会で遅くなった冬のある日。
雪にはならずに降り続く雨が、冷えた空気を針のように尖らせていたその日。
帰ってきた家は、どこか虚ろに静まり返っていた。
不安に駆られて母の姿を探したトウヤは、台所にその姿を見つけた。
寒い中、冷たい床に座り込んで、白いシャツ一枚のその背中がぽっかりと闇に浮かび上がるようだった。
握られた離婚届。
響く雨音。
父は、その日から、いなくなった。
欠けたパーツは二つになった。
歯車は、さらに軋んで、嫌な音を立てて、歪んだ。
昨日の雨を忘れたかのように、空は突き抜けそうな五月晴れだった。
雨雲の欠片も残ってはいない空の下、だるさの残る体を引き摺って学校へと向かう。
昨日沁み込んだ雨は、まだトウヤの中にある。
陽射しを避けるように影を選んで、トウヤは学校までの道のりを歩く。
すでに通い慣れた道は、足が覚えている。
時折横を追い越していく生徒達と視線を合わせないように、先を歩く自分の影だけを見て歩を進めた。
母は、いつもの声で息子を起こし、いつもの顔で朝食の用意をし、いつものようにトウヤを学校へと送り出した。そうして、いつものように2人分の少ない洗濯物を干し、夕食の買出しに、自転車を漕いで近くのスーパーへと行くのだろう。
まるで昨日という日の出来事だけが、記憶から抜け落ちているかのように。
雨が、母を狂わせる。
それを知ったのは、3ヶ月前だ。
二人きりの生活になってしばらくが過ぎた頃、その日も、空を黒く染めて絞り出すような雨が降っていた。
白いシャツを着て、リビングに佇んでいた母の姿に、不安を掻き立てられた。
離婚届を手に床をただ見つめていた母の眼差しが、その姿にだぶった。
トウヤの呼びかけに、母はゆっくりと振り向いて、その違和感に鳥肌が立った。
いつもの、母ではなかった。
見た目は変わらないのに、その表情も、仕草も、トウヤの知る「母」としてのものではなかった。
白いシャツに身を包んだ母は、トウヤを「あなた」と呼ぶ。
白い腕が伸びてきて、「違う」と口にした言葉は声にならなかった。
冷たい指先が、唇が、肌を粟立てていくのを、愕然とトウヤは眺めていた。
脈が乱れて、身体中の血が逆流して、頭の中が白く染まる。
雨の音だけが、やたらと大きく、その耳に届いていた。
意識を失うように眠ったその翌朝、トウヤは吐いた。
吐いて、吐いて、吐いて、身体中の水分を押し出すように吐き続けた。
そんな息子を、「母」は心配そうに介抱し、「どうしたの?」とその顔を覗き込んだ。
それは紛れもなく、トウヤの良く知る母だった。
雨の日が来るたびに、母はおかしくなる。
そして、その全てを忘れる。
トウヤもまた、その共犯者となる。
耳に張り付いた雨の音を記憶から追い出しても、次から次へと落ちてくる雨粒を止める事などできはしない。分かっていても、目を瞑り、耳を塞いでいれば、雨はいつしか通り過ぎるのだ。これ以上、大切なものをなくさないでいい。
だからトウヤは、その全てを「忘れる」。
ただ、その身に沁み込んでいく雨だけが、身体の奥深く、手の届かないところにまで入り込み、少しずつ、だけど確実に、トウヤ自身を蝕んでいく。
アスファルトに写り込む自分の影を追いながら、半分ほどの道のりを歩いた頃。
数を増した生徒達の足音に混じって、背後から軽い駆け足の音が耳に届いた。
「トウヤくん!」
元気の良い声とともに、肩に軽い感触。
家を出て、初めて顔を上げたトウヤの視界に、黒い髪を風に揺らした少女の姿が飛び込んできた。
肩を叩いた手をひらひらと振って、ナミがトウヤの隣に並ぶ。
「おはよう。朝一緒になるの、久しぶりやねえ」
白い歯を見せながら、ナミが嬉しそうに笑った。
明るい朝の陽射しに照らされて、そばかすの浮いた健康そうな頬が色づいている。
眩しくて、トウヤは僅かに目を細くした。
「おはよう」
短く、それだけ口にして視線は再び足元に落ちていく。
「今日は朝練ないんよ。ほら、昨日雨やったやろ?グラウンドびちょびちょで走られへんし」
身振り手振り、元気なナミの両手が視界の端で揺れている。
「たまには朝練ないのもいいわ。いつもなんか、ご飯ゆっくり食べられへんくて、…あの牛乳かけるやつ…なんやっけ?」
「コーンフレーク」
「そうそれ。それかき込んで、髪の毛寝癖のまま走って行くんやもん」
ナミがふるふると髪を揺らすと、陽射しと同じ匂いがふんわりと漂った。
「ほら見て、今日はいっこも寝癖あれへん」
促されて再び顔を上げたトウヤに、ナミがほらな、と笑いかける。
目が合ったままに一瞬訪れた沈黙に、ふいに少し真剣な表情を浮かべて、少女の目がトウヤをそっと覗き込んだ。
「…なあ、昨日」
言い掛けられた言葉に、トウヤの表情が僅かに強張る。
ねじ伏せた記憶が甦りそうになるのを、視線を伏せることで押さえ込んだ。
ナミの目がそんなトウヤの仕草を追う。
「トウヤくん、家におった…?」
「――おった」
「…そっか」
抑揚のない声での即答に、ナミの声のトーンが落ちる。
「…なんで?」
尋ね返したトウヤの声は、やはり抑揚のないものだ。
ただ、その目だけが、どこか必死な光を帯びている。
心臓を、後ろから伸びてきた手がぎゅっと掴んだようだった。
変な風に心臓が跳ねて、身体に送り出される血液に冷たいものが混じる。
指先が冷えるのを感じながら、トウヤはナミの答えを待った。
「あ、ううん。ただ、トウヤくんとこ、電気点いてへんかったみたいやから」
取り繕うような笑みとともに、ナミが胸の前で両手を振ってみせる。
「なんか最近元気あらへんし、大丈夫かな…とか」
さらに紡がれる言葉は、昨日と同じもの。
探るように伺ったナミの瞳の中に、言葉にされたもの以外の他意は感じられない。
緊張が緩く解けていくのに、トウヤはゆっくりと息を吐き出した。
吐き出す息に交えて、短く返事を返す。
「別に」
そか、とナミが頷く。
「…おばちゃん、元気?」
「普通」
そか、とナミが再び頷いた。
しばらくそのまま、無言で肩を並べて歩く。
妙な具合に脈打っていた心臓が、ようやく落ち着いたリズムを取り戻してくる頃、学校が見えてきた。