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雨埋み  作者: 大正ふにに
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4.白い腕

 雨は、飽くことなく降り続いては、アスファルトを、地肌を、黒く染め上げていく。

その日降り始めた雨は、日が落ちて、夜の帳が降りてきても、降り止むことはなかった。


 少年は、ポケットから2本のくすんだ銀色の鍵を取り出して、南京錠を閉めた。

屋上のドアは、再びチェーンでぐるぐる巻きにされ、開く事のないよう閉ざされる。

錆ついた茶色いチェーンを器用に巻く少年の橙色の髪から、一つ二つと雫が落ちて、チェーンの錆色を濃くしていた。

ドアが再び閉ざされる頃には、少年の足元には水溜りが出来上がる。

濡れたままに、人気のなくなった校舎を、二人は後にした。

会話を交わすこともなく、下足室まで並んで降りて行き、別れる。

 びしょ濡れのままの少年は、しかし持っていたらしい黒いこうもり傘をさして、雨の中を帰って行った。


 家に帰り着く頃には、頭のてっぺんから足の爪先まで、乾いている所は一つもなかった。

絶え間なく降り注ぐ雨の中を、トウヤはひたすらゆっくりと歩いて帰ってきた。

髪に、服に、だんだんと沁み込んでいく雨は重く、皮膚を通り抜けてトウヤの中まで浸透していく。

身体が重い、足が重い。

 高校は、家に近い所を、と今の学校を選んだ。

その距離は、歩いて10分程度だ。

夜が近づいて、外灯が点り始めたいつもの道を、ともすれば立ち止まりそうな歩みで、家を目指す。玄関をくぐったのは、学校を出て30分も経った頃だった。

 ドアの前に立つと、自然目はリビングの窓に向く。

電気は点されてはいなかった。

家自体が、雨の中に飲み込まれて深く沈んでいるように、物音一つ、聞こえては来ない。

外灯も、当然のように暗いまま、静かに雨に濡れていた。

垣根ごしに見える隣家には、暖かに見える明かりが点されて、雨の粒に淡く滲んでいる。

隣は、昔からナミの家だ。

 ノブに手を掛けて押せば、ドアは開く。

鍵はかかっていない。

玄関から見渡せる廊下は、ひっそりと闇の中に落ちていた。

湿気を多分に含んで質量を増した屋内の空気が忍び寄って、それは手招きをするようにトウヤの濡れた肌に触れる。

静かに、音をさせぬよう慎重に、ドアを押し開くと中に身を滑り込ませた。

外よりも一段冷えた、滞った空気が身体に纏わりつく。

ドアをそっと閉めると、雨の音は遠くなって、聴覚が現実に引き戻された。

シン、と静まり返った家の中に、人の気配は感じられない。

 一つ、深呼吸を落として、トウヤはスニーカーを揃えてぬいだ。

身体同様、濡れた鞄を抱えて、廊下へと上がりこむ。

濡れた跡を作りながら、息を殺して板張りの廊下を風呂場へと向かう。

自分の部屋に行く前に、濡れた服を何とかしなければならない。

 だが、気持ちは焦る。

慎重になる足運びとは裏腹に、濡れた靴下が板を踏むたび小さな水音が零れた。

息を詰める。

息苦しさに、心臓がどくんどくんと全身に血液を送り出して、身体中が脈打った。

 こんな雨の日は、いけない。

一刻も早く、自分の部屋に閉じ篭ってしまわねばならない。

雨は、全てを飲み込み、浸食して、狂わせてしまうのだから――。

 今は物置と化している部屋、そのドアの前を通り過ぎ、リビングのドアを通り越し、そうしてトイレのドアの前を抜ければ、風呂場はすぐそこだった。

一つ目のドアの前を通過する。

慣れ親しんだはずの、自宅の廊下だというのに、空間でも捻じ曲がっているのではないかと疑いたくなるほどに、それは長く感じられた。

 やがて、二つ目のドアが近づいてくる。

リビングのドアだ。

閉まっていて欲しいと苦しくなるほどに願った思いは、しかし聞き届けられない。

ドアは、大きくリビングの内側へと開いていた。

ことさら、息を潜めて、気配を殺してその前を通り過ぎる。

 ギィ、と。

足元で、廊下の板が軋んだ音を立てた。

「!」

 ひゅ、と自分の息を呑む音が耳をつく。

見開いたトウヤの瞳が、息を詰めたままにリビングへと向けられた。

 明かりの消えているリビングは、遠くで聞こえる雨の音に満たされている。

闇に沈んだ布張りのソファと、最近は点いている事の少ないテレビ、壁際の埃を被った黒いピアノ。

そこに、白い色彩は見当たらない。

かじかんだ指先へと血液がゆったり流れ込んでいくように、詰めていた息を吐き出していく。

…いない。

己に言い聞かせるように唇を動かして、再び足を動かそうとしたトウヤは、次の瞬間その場に凍りついたように動けなくなった。

 リビングから続きの台所。

リビングと、台所を区切るカウンターの影に、白いシャツがぼんやりと浮かび上がっていた。

そのシャツと、同じほどに白い横顔。

視線は床の一点をただ見つめて、薄暗い中で静止している。

「――母、さん」

 小さく、無自覚に、自分の口から漏れ出した声に、後悔してももう遅い。

幻想にでも囚われているかのような動きで、暗い中に座り込んでいた白い影が、ゆったりと顔を上げる。

喉の奥が、焼け付くように痛んだ。

憂いを帯びた黒い瞳が、ドアの前に立つトウヤの姿を捉える。

途端、ふわりと、その瞳の色が和らいだ。

泣きそうな顔で、笑う。

「帰ってたのね。…ただいまも言ってくれないんだもの、気付かなかったわ」

 座ったままに、白いシャツの母は、まるであどけない少女のような仕草で小首を傾げた。

トウヤは、何も言えない。

ジリジリと、焦りにも似た感情が足元から這い上がって来て、この場を動かなければと思うのに、身体は動かなかった。

 しばしそのまま見詰め合う。

リビングの窓の外から聞こえてくる雨の音は、静かに空間を占めていく。

台所の裏のドアから、トタンを叩く水滴の音が、一定のリズムで響いていた。

――気持ち悪い。

腹の底から湧き出してくる感情に、身体が傾ぎそうになる。

ドアの枠に片手を添えて踏み止まった。

「どうしたの?どこか、具合が悪いの…?」

 心配そうに、表情を曇らす母の瞳が、トウヤを呪縛する。

喉の奥から何かがせり上がってくるのを感じながら、首を振って否定する。

何を否定したいのか、振っているうちに分からなくなって、さらにトウヤは強く首を振った。

 座ったままに、母の白い手が、暗闇を斬るように殊更ゆっくりとひらめいた。

トウヤへと差し伸べられる腕。

「見てあげるわ。いらっしゃい」

 縫い付けられたように、トウヤの視線がその軌跡を辿って、柔らかい声で言われた言葉に小さく肩が跳ねる。

真っ直ぐに向けられる母の瞳は、虚ろな闇を孕んでいる。

頭の中で雨の音は耳を塞ぎたくなる程の大音量になる。

身体が言うことを聞かない。

 ふらり、トウヤの足が伸ばされた腕へと一歩近づいた。

途中で、濡れた鞄が滑り落ちて、重い音を立てて床の上に倒れる。

一歩、一歩、何かに取り付かれたような動きで、己の方へと近づいてくるトウヤを、母親は慈しむような目で見つめていた。

距離が縮まって、やがて白い手が、トウヤの腕を捕まえた。

「濡れてるわね」

 小さく響く声は、笑いを含んでしっとりとみずみずしい。

それはまるで少女の声だ。

間近に見下ろす母の瞳が柔らかに細まって、トウヤの硬い表情を見遣った。

腕を引かれて膝をついたトウヤの身体を、白い腕が絡め取る。

濡れたトウヤよりも、雨に冒された母の腕は冷たく、しっとりとトウヤの身体を包み込んだ。

背筋を、ぞわりと底冷えする感覚が駆け上る。

――気持ち悪い。

唾を飲み込むことさえ出来なくて、呼吸困難になりそうな息づかいを何とか保とうと必死になる。

白く細い二本の腕は、そう強い力でトウヤを捕らえているとは思えないのに、それはどうしても解けない茨の蔦のようにトウヤの自由を奪い去っていた。

『母親』の姿をした女は、トウヤの唇を甘く吸って、天使のように微笑んだ。

「おかえりなさい、あなた」

 崩れていく――。

雨に侵されたこの部屋で、雨に冒された母と二人きり。

霧雨の細かい雨粒が、全てを飲み込んで、沈めていく。

雨は大地に沁み込んで浸食を進め、やがて大地はその形を忘れて、雨の前に崩れていくのだ。

拒絶する術を知らぬトウヤの腕は、力なく垂れ下がったまま。

 諦めたように、その瞼が下ろされる。

トウヤの耳に、降り止まない雨の音程だけが、遠く低く、流れ込んでいた。


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