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雨埋み  作者: 大正ふにに
3/18

3.邂逅

 いつからそうして立っていたのか、その男子生徒は微動だにせず、空を睨んでいる。

ドアが開いたのにも、トウヤの存在にも気づいていないのかもしれない。

トウヤもまた、呆気にとられて彼を眺めていた。

 すべてを包みこもうとする霧雨の煙にも、すべてを飲み込んでしまわんとする灰色の空間にも、取り込まれる事のないその姿。

橙色に染められた髪が、雨に濡れてその額や項へと張り付いている。

トウヤと同じ制服の白いシャツも、紺色のズボンも、その足元の上履きも、雨に濡れて重く彼の身体に纏わりついているはずなのに、橙の頭はしっかりと上を向き、強い視線で雨雲を睨みすえていた。

 次から次から、降り注ぐ雨をその身に受け止める彼の姿は、まるで石像のようだ。ただその目だけが、強い力を宿している。

「何、してんねん…」

 思わず、トウヤの口から言葉が漏れる。

呆れているようでもあり、驚いているようでもあり、ぽろりと漏れ出てしまったような声音。

その声は、トウヤが思うより大きく、灰色の空間を震わせた。

瞬時に、風景画のように静止していた景色が動く。

 空を睨んでいた目が、そのままの強さでトウヤへと向けられた。

鮮やかな色の髪から滴り落ちる水滴は、彼の輪郭をたどって、やや尖った顎の先から零れ落ちていく。

びしょ濡れの少年に、しかし驚いた気配はなかった。

ただ、顔だけをトウヤへと向けて、そこに佇んでいる。

 二人の距離を雨の音が埋めていく。

視線が絡んで、トウヤは雨の音が遠のくような錯覚に囚われた。

 その瞳は、やたらと印象的だった。

静かな、それでいてその奥に強い光を宿している双眸。

表情は張り詰めた凛としたもので、そこに怒りとか憤りとかいうものは感じられない。なのに、その瞳だけがそれに見合った激しさを持って、輝いている。

 ドアを開けた自分の手を濡らしていく不快な雨の感触などは、どこか遠くに行っていた。

強い視線が圧力を持って押し返してくるようで、やがて居たたまれない気分が押し寄せてくる。

覗いてしまってはいけないものを、見てしまった時のような。

何かを言わなければ、と妙な焦りが生まれる。

「…風邪、引くで」

 ようやく口から出てきた言葉は、我ながら間抜けだと思われた。

表情を動かさない少年に、返答を諦めかけた頃、ふいに強い光を宿した少年の瞳が揺らいだ。

ぴくり、とその肩先が揺れて、トウヤを見る目が僅か大きくなる。

たった今、トウヤの存在に気づいたとでもいうような反応。

その瞳から、激しさが消え失せ、一瞬戸惑いにもにた色が浮かぶ。

だがそれもほんの一瞬で、少年の表情が、軽く歪んだ。

「…風邪なんか、引かへん。アホは風邪引かへん、言うやん」

 しまったな、という表情でどこかバツ悪そうに言葉を紡ぐ。

濡れ鼠の少年には、さっき感じた威圧感はすでにない。

石像のようだと思った凛と伸びた背筋も、眼差しも、ほんの数秒前のもの。

なのに、言葉を発した少年は、その雰囲気をがらりと変えてしまっていた。

居心地悪そうに、顔を歪めたままトウヤを見遣る。

 雨の音が、静かに戻ってきた。

「アホは引く。馬鹿が引かんのや」

 少年の雰囲気の変化に、僅かな戸惑いを覚えつつも口を開く。

言いながら、開いたドアの取っ手に掛けた手が、ひどく濡れているのに気づいて引っ込めた。軽く水滴を払って、もう片手で拭う。

「なんやそれ、一緒やないか」

 不服そうに身体ごとトウヤの方へと向き直りながら少年が肩を竦めた。

張り付いた白いシャツが、肌の色を写して皺を刻んでいる。

雫を垂れる橙の髪が、雨滴を弾くように振られた。

降り注ぐ雨の中では、意味もないように思われるその動作を眺めながら、トウヤは少年を観察する。

 こうしてみると、さっきのイメージとは違って、少年は小柄な体型をしていた。

見かけた事のない顔だから、同学年ではないだろう。

何より、橙色の目立つ頭は、同学年にいればすぐに目に付くに違いない。

今年入ってきた一年だろうか。

さすがに、入学当初からこんな色の髪ではなかったろうから、遅まきの高校デビュー組なのかもしれない。

「…なんやねん」

 トウヤの視線に、僅かに目を眇めながら少年が不機嫌な声を発した。

「自分、何しててん。ココ、立ち入り禁止やで」

 責めるような響きはなく、静かに紡がれるトウヤの言葉。

少年の細い眉が上がった。

「知っとるわ。…あんたの目ぇには、俺が昼寝しとったようにでも見えるんか」

 憮然と言い返されて、トウヤはゆっくりと首を振る。

「見えへん。やから、何しとったかって聞いた」

 興味をそそられていた。

目に焼きついた、雨に挑むような立ち姿。

雨を避ける自分とは、対照的な少年の姿に。

彼が何をしていたのか、知りたくなった。

 少年は憮然とした表情のまま、しばらくトウヤを眺めていた。

が、立ち去る様子もないのに気付くと、一つ諦めたように息を吐き出す。

そうしてゆっくり、己を目掛けて降り落ちてくる雨を見上げた。

「…洗い流しとったんや」

 降ってくる雨を全身で受け止めながら、上空を見上げて目を細める。

橙の髪の一房が、こめかみへと張り付いて肌の上に小さな河を作り出した。

「洗い流しとった。汚いモン、全部。…こうしてると、雨が全部、押し流してくれるから」

 再び戻ってきた少年の目に、トウヤはその場に縫い止められる。

静かに、しかしその最奥に、強い光を宿す瞳がそこにあった。

降り続く雨の音は、また遠のいた。

「…雨、嫌いなんか?」

 厳しい視線で空を見つめていた少年の姿を思い出して、自然、口からはそんな言葉が出てくる。ほんの少し、少年の口元が動いて、しかし言葉は出てこなかった。

目が伏せられる。

少し遅れて、少年の返事が返ってきた。

「嫌いやない。好きや」

 小さく言う言葉を、表情が裏切っている。

伏せられたままの目は、水溜りを作り出す足元のコンクリートの凹凸を一心に見つめていて、そこに浮かぶ深い色は、憂いなのか、哀しみなのか。

 トウヤの喉が、小さく鳴った。

その眼差しは、あの日の母を、思い出させた。

不安定に揺れた視線を、自分の足元に移す。

シトシトとコンクリートの水溜りを揺らす雨は、トウヤの足元までは及ばない。

視線の少し先で、灰色の水溜りに写りこんだ暗い空が揺らめいた。

「自分は、何しに来たんや」

 問いかけに顔を上げると、すでに穏やかな色合いに戻った少年の目がトウヤを見ている。

「ココ、立ち入り禁止やで」

 さっきトウヤが言った言葉をそのまま口にして、少年が続けた。

「…お前に言われとうないな、それ」

 息を吐き出して、呆れたように視線を返したトウヤに、少年は少し笑ったようだった。

「それもそやな。…あんたも雨に当たりに来たんか?」

「違う」

「じゃ、風景でも見に来たん?」

 少年が見遣った先、フェンス越しに灰色に染まった街並が広がっている。

遠く雨に煙る家々の屋根の赤やら青やらも、どれも一様にくすんだ色をしていた。

「それも違う」

「なら、あんたこそ何しに来たんや」

 不可解そうに問い掛ける少年の眉は、呆れたようなハの字だ。

しばらく少年を見つめて、ややあってから、トウヤは雨を降らせ続ける空へと視線を上げた。

「逃げてきたんや」

 静かな雨音が、聴覚も視覚も麻痺させて、現実感を奪い取っていく。

すべてに霞がかかったような、膜の中に閉じ込められてでもいるような、感覚。

「雨が降ってきたから、飲み込まれへんように、上に逃げてきた」

 変な顔でもするかと思われたびしょ濡れの少年は、しかし黙って聞いている。

やがて、少年の視線もトウヤのそれを追い掛けるように曇天に向けられた。

「…雨、嫌いなんか」

 問いかけというよりも、独り言のようだった。

「嫌いや」

 静かに答えて、トウヤは身体に沁み込んでくる雨の音から逃れるように、目を眇めた。




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