2.橙
両親が離婚したのは、4ヶ月前。
雨が降っていたのを覚えている。
タンタンとトタンを叩く雨の音だけが、静まり返った台所に響いていた。
夜だというのに電気も点けず、暗い中に白い母の背中だけがぽっかりと浮かび上がるようだった。
冷たい床の上に座り込んで、じっと一点を見つめる母の眼差しは、静かで、どこか疲れたような色を帯びている。
歳の割りに美しく、ほっそりとした手が封筒を握り締めていた。
そこから紙が一枚はみでていて、父の名の書かれた、それは離婚届だった。
「母さん…」
呼びかけたトウヤの声に、しかし母はまるで聞こえていないかのように、ただ一点を見つめ続けていた。
雨の音だけが、聴覚を満たしていく――。
まだ幾人かの生徒達が残っているらしく、教室からは楽しげな笑い声が零れてきていた。
知り合いに会いたい気分ではない。
足は自然と階段へと向けられる。
引き摺るような歩調で、教室が並ぶ廊下を突っ切って、奥の階段まで歩く。
雨は上から降ってきて、だんだんと大地に染み込んで、ふやかしていく。
下は、危険だ。
雨に飲み込まれてしまうから。
階段を、迷わず上へと登りだす。
時折すれ違う上級生は、一様に下を目指して足早に階段を下っていった。
三階に辿り着き、さらに上を目指す。
校舎の屋上へと続くドアがある踊り場、階段のてっぺんが、トウヤが学校で一番落ち着くことのできる場所だった。
鉛のように重い足で一歩一歩階段を登り詰め、ようやく辿り着いた踊り場。
トウヤは一つ、長い吐息を漏らす。
ここまでくれば、放課後のさざめきのような生徒達の喧騒も、BGM程度にしか聞こえてはこない。ざわざわと、不特定多数の、内容を聞き取ることのできないざわめきが、トウヤは好きだった。
最上段へと腰を下ろそうとして、ふと、違和感を覚える。
周囲を見回してみて、すぐにその違和感の原因に思い当たった。
「外れてる…」
鞄を端に置いて、屋上へと続く鉄のドアに近づく。
ドアは塗装が剥げ落ちて、所どころに茶色い錆が浮き出していた。
鍵の部分は、丸く穴が開いていて、鍵は鍵の役割を果たしていない。
ずっと前から、ここの鍵は壊れたままだ。
その代わりに、ドアの取っ手と、少し離れた階段の手すりを、ぐるぐる巻きに茶色く変色したチェーンが繋ぎとめていた。
しっかりと、ドアが開くことのないように、厳重に。
チェーンには、南京錠が2つ。
だが、今、目の前のドアにはチェーンも、南京錠も見当たらない。
鍵は見たところ、壊れたままのようだ。
一見、頑として閉まっているままのように見える鉄のドア。
トウヤは、その前に立ってドアの取っ手に手を掛けた。
一瞬迷ってから、力を篭めて押してみる。
「…なんで」
拍子抜けする程あっけなく、ドアは薄く開いた。
開かれた隙間から、待っていたように雨粒交じりの風が飛び込んで、階段を駆け下りていく。
取っ手に掛けた手の甲に、細かい水滴が舞い降りてきて張り付く。
ドアの隙間からは、風と共に雨の音もサアサアと耳孔を満たすように入り込んでくる。
――気持ち悪い。
ぞわり、と背を這い上がってきた感覚に身震いする。
反射的に取っ手から手を引こうとして、それを思いとどまった。
雨への嫌悪感よりも、興味の方が勝った。
屋上は、言わずもがな、立ち入り禁止だ。
何より、チェーンで閉ざされたドアの先に行くことは、いつもならできはしない。
それが、まるで誘うかのように、手の先でドアは薄く開いている。
「何で、開いてんねん」
小さく、自問するように言いながら、トウヤはドアを押す手に力を篭めた。
ギィ、と軋んだ音をさせて、視界が開けていく。
一面の灰色。
屋上の、コンクリートの灰色。
垂れ込めた空の、灰色。
降り落ちてくる、霧雨の灰色。
開ききったドアの向こう、景色は色あせた風景画のようで。
その中でたった一つ、雨に煙る中にも鮮やかに浮かぶ橙。
目に飛び込んでくる色彩に、トウヤの目は自然、それに奪われる。
橙色は、男子生徒の頭の色。
降りしきる雨の中、くすんだ色の中に佇んで、その生徒はそこにいた。
凛と背を伸ばして、己目掛けて降り落ちてくる雨粒に戦いを挑んででもいるように、天を見上げながら。