18.虹
帰宅する生徒達の間を抜けて、錆びの浮いた校門を潜り。
やがて学校に辿りつく頃には、雨はすっかり止んでいた。
青い空の下、まだ湿った空気が充満する下足室を越えて、一直線に階段を駆け上がる。
息が切れるのも構わず、一段飛ばしにトウヤは最上階へと駆け上った。
「…やっぱり」
大きく肩を喘がせながら、たどり着いた屋上前の踊り場で、トウヤは手すりに重みを預けて呟いた。
予感があった。
そして予感は的中した。
手すりには、茶色いチェーンは絡んでおらず、南京錠も見当たらなかった。
屋上のドアは、開いている。
あれから数回、トウヤはここに足を運んでいた。
その度に、屋上は固く閉ざされたまま、開かれる事はなかった。
少年と会うことも、言葉を交わすこともなく。
耳にした噂だけが、あれ以来、トウヤの知る少年の全てだった。
ほんの僅かな時間息を整えてから、トウヤはドアノブに手を掛けた。
深呼吸をしながら、ゆっくりとドアを押し開く。
雨上がりの爽やかな風が吹き込んで来ると同時、一気に視界が開けて、目の前に水色の空が広がった。
水はけの悪い屋上のコンクリートの上、佇む人影が一つ。
音一つ立てずに開くドアに、それでも人影はこちらを向いた。
茶色い髪が、風に梳かれて軽やかに揺れている。
「――やっぱり、来よった」
そう言った声は聞き覚えのあるもので、トウヤを見ながら、少年が口端を上げた。
そのまま、視線が上空へと上がっていく。
「あんたも、これ、見に来たんやろ」
少年の掌が、大きく、校舎の上を撫でるように動いた。
彼の指先を視線で追えば、校舎全体を、七色の太い虹の橋が跨いでいる。
ドアを閉めて、ゆっくりと虹に向かって歩を進めるトウヤに、少年が顔を向ける。
少年のすぐ隣まで歩いて、トウヤはさっき少年がしたように、頭上高くにかかる虹を掌で辿ってみた。
その様子を、少年が見ている。
「来ると思たわ」
「――なんで?」
仰向いたまま視線だけを戻したトウヤに、少年は小さく肩を竦めた。
「何となく」
言って、少年の顔も空を見上げる。
二人、並んで風に吹かれながら、しばらく七色の帯を眺めていた。
眩しい太陽の光が斜めに差して、屋上のコンクリートの水溜りをきらきらと反射させている。
澄み渡った空は、さっきまでの雨が嘘みたいに晴れ上がっていた。
青く突き抜けそうな、夏を前にした空の下。
虹の淡い七色が、ふんわりと空を彩っている。
ふと視線を感じて少年を見れば、その視線がトウヤへと向けられていた。
観察するようにトウヤを見つめる茶色い瞳は、明るい光を宿している。
「…なんや自分、えらいすっきりした顔しとるな」
ややあって、少年が言った。
そんな少年をしばし見返して、トウヤが小さく笑う。
「お前もやん。…髪、戻したんやな」
「髪は、だいぶ前や」
瞳と同じ、茶色い髪を引っ張りながら、少年。
そのまま少し黙って、視線がフェンスへと引き寄せられる。
小さく息を吸い込んでから、少年が口を開いた。
「あの人とな、ケリ、つけたんや」
「…そうか」
「そや。…あまりにも、あっさりケリついたもんやから、最後にちょっと嫌がらせしてもうたけど」
そう言って戻ってきた少年の表情は、どこか悪戯がかった笑みだった。
青空のような笑顔だと思った。
「俺も、もう、雨から逃げへん」
返したトウヤの言葉に、少年が頷いた。
「そうか」
「そうや」
視線を合わせて、二人小さく笑う。
カチャリ、と、小さい金属音が笑い声に混じる。
トウヤの視線が、少年の手元へと引き寄せられた。
握られた掌の隙間から、銀色の何かが覗いている。
「…ああ」
トウヤの視線に気付いて、少年が胸の高さにまで上げた掌を開いた。
そこには、真新しい銀色の鍵がリングに二つ、太陽に照らされて光を弾いている。
「それは――」
「ここの鍵や」
カチャリ、再びそれを握り直して、少年が笑む。
「…前のは、あの人に返してしもたから」
「けど、それ」
「もちろん、抜かりはあらへん。こんなええ所、利用せん方が間違ってる」
そやろ?と茶色い瞳が覗き込んでくるのに、反射的にトウヤも頷く。
満足そうに、少年の目が細まった。
「スペアキーや」
言った少年の、高く上げた掌から、銀色の鍵が光を弾きながらゆっくりと落とされる。
「!」
目の前を落ちていく鍵に、思わず手を伸ばす。
カチャ、と、小さな金属音をさせて、二つの鍵はトウヤの手の中に納まった。
「やるわ。…俺のは、ちゃんとあるから心配ご無用」
少年がズボンのポケットを揺らすと、小さく金属音がする。
手の中の鍵と少年を見比べて、トウヤは表情を崩した。
「…ありがたくもらっとく」
少年に倣って、ズボンのポケットへと鍵を入れる。
それを見守ってから、少年が青空の笑顔でトウヤを見遣った。
「これであんたも共犯やからな」
言葉に、トウヤは少年を見遣って。
ややあって、その肩が楽しげに揺れた。
「――望むトコロや」
トウヤの声を攫った風は、二人の髪を揺らして上空へと吹き上げる。
二人、それを追うように顔を上げれば、目の前には青空に大きく掛かる虹。
雨上がり、特等席でそれを仰いで、トウヤは目を細めた。
太陽の光が屋上を包んで、雨の匂いを消していく。
見上げる空は青く突き抜けて、空に掛かる虹のアーチは、梅雨の終わりを彩っているようだった。
風は、微かに、夏の匂いを孕んで通り過ぎていった――。
***思ったよりも長い話になってしまいました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。感想、ツッコミ、ダメ出し、いただけると作者、小躍りして喜びます(笑)気が向きましたら、よろしくお願いします。それでは、本当にありがとうございました。