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雨埋み  作者: 大正ふにに
17/18

17.雨上がり

 季節は進み、学校を縁取る緑も一層その色を濃くしていく。

あれから、母が変わったかというと、急に全てが元通りになった訳ではない。

雨がトタンを叩く度、母は変わらず白いシャツを着て、床を見つめている。

それでも母が、虚ろな瞳でトウヤを見つめる事はもうない。

少女のような声が、「あなた」と呼び掛ける事も、もうない。

トウヤの呼び掛けに、母は視線を上げて、ただじっとトウヤの姿を見つめている。

トウヤは傍に膝をつき、そんな母を緩く支えるように抱きしめる。

母は、苦しげに目を閉じて、そうして大きく息を吐き出しながら肩の力を抜く。

ただ、互いを支え合うように、身を寄せて雨をやり過ごす。

翌朝になれば、相変わらず、母は全てを忘れているようだった。

 それでも少しずつ、母が白いシャツに袖を通す事は減っていった。

雨の日でも、いつも通りの母がエプロン姿でフライパン片手に、「おかえり」をくれる日もある。

ようやく歯車は噛み合って、そしてゆっくりと、日常を回り始めた。


 6月に入り、天気予報が梅雨入りを告げる頃。

一つの噂がまことしやかに学校中で囁かれた。

『一年の男子生徒と、生物のカジやんが、キスしてたらしい』

『その男子生徒は、前に髪を染めてきた、例の優等生らしい』

『なんでも、その現場を目撃した女子生徒に見せ付けるみたいに、その男子生徒はカジやんにキスしたらしい』『かと思ったら、今度はディープなやつを始めて、驚いた女子生徒は慌てて逃げ出したらしい』『実はそのまま…』

 噂には背びれやら尾ひれやらが付きに付いて、どこまでが本当で何が嘘なのか、さっぱり分からなくなっていったけれど、当の男子生徒は始終飄々としたものだったという。

噂が流れて間もなく、カジやんは校長に呼び出され、噂の男子生徒も一緒に呼び出されたけれど、結局は何のお咎めもなし。

聞こえてくる話によれば、何でも、「キス」はちょっとした「ハプニング」で「事故」だったのだという説明があったからだという事だった。

カジやんは「良い先生」で、男子生徒は「優等生」だった。

学校側は、その説明を全面的に受け入れた。

 噂はやがて、新鮮味を失って賞味期限切れで打ち捨てられた。

梅雨がようやく明ける頃には、噂は立ち消えて、生徒たちの誰も口にする者はいなくなっていた。


 傘の縁から、雨粒がキラキラと光を反射して零れ落ちていく。

7月に入り、降り続いた雨にも終わりが見えかける頃。

小雨の降る中を、トウヤは灰色のスニーカーで水溜りを蹴りながら歩いていた。

 学校が終わって、その帰り道だ。

朝から降っていた雨は漸く止みかけて、細かな雨粒を落とす空からはすでに太陽の暖かな光が一緒に舞い落ちてきている。

隣で、水色の傘が揺れて、トウヤの黒い傘の中を覗き込むように少女が顔を覗かせた。

「なんや、雨上がりって気持ちいいねえ」

 まだ緩やかに降っている雨をものともせず、ナミが目を細めて青色の多くなった空を見上げた。つられるように、トウヤも気まぐれに雨を降らせる青空を仰ぐ。

「せやな」

 眩しい陽光が差し込んできて、トウヤは目を狭めた。

この雨でグラウンドが濡れているために、ナミの部活はまた休みなのだという。

 あれから、ナミに変化はない。

何も言わず、何も聞かずに、ただ、こうして部活が休みになる度に、トウヤを迎えに来ては帰路を共にしている。

向けられる笑顔の合間、ほんの時折、心配そうに瞳に宿る光を、トウヤは知っている。

「――なあ、ナミちゃん」

 ふと足を止めたトウヤに、数歩前まで歩いたナミが立ち止まって振り返った。

水色の傘が大きく揺れて、水滴が煌きながらアスファルトに飛び散った。

「ん?」

 なんや、と振り向いたナミが小首を傾げてトウヤを見遣る。

真剣なトウヤの表情に、僅か、その瞳が揺れた。

「トウヤくん…?」

「うん」

 黒い傘を揺らして、トウヤが表情を和らげながら頷く。

「あのな。――もう、大丈夫や」

 淀みなく、トウヤの口から漏れた言葉に、ナミが一つ瞬いて探るようにトウヤを見つめた。

「大丈夫やから。…ありがとうな」

 静かに、ゆっくりとした口調で、トウヤが言う。

その言葉がナミのところまで届くのにしばらく時間がかかったかのように、少女はトウヤを見つめたまま。ふいに、その表情が、小さく歪んだ。

「――…うん」

 泣きそうに口をへの字に結んで頷くのに、黒い髪が揺れた。

しばらく視線を絡めて、やがてナミが小さく口元に笑みを浮かべて、そしてそのまま目を大きく見開いた。

「あ――」

 ナミにつられて傘ごと背後を振り返ったトウヤは、息を飲む。

「――ナミちゃん!」

 再度ナミに向き直りざま、その手に自分の傘を開いたままに押し付ける。

「それ、やるわ」

「…え!?」

 驚いて目を白黒させているナミに背を向けて、今来た道を引き返す。

急に走り出したトウヤに、傘を両手に持ったナミは目を丸くしたまま、呼び掛ける言葉すら出て来ない。

小雨の中を帰宅する生徒達に逆行して走っていく背中を、見えなくなるまで見送って。

やがて、我に返って途方に暮れる。

「…って、言われても」

 トウヤの姿はすでに見えない。

ぽつり、歩いていく生徒達の合間に立って、ナミは塞がった両手を見比べた。

「どうしたらええんやろ…?」

 いなくなった幼馴染の傘を片手に、ナミはしばらくの間、途方に暮れて立ち尽くすのだった。

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