16.トウヤ
6限目の終了のチャイムが雨に滲んで届いてくるまで、ずっと雨に濡らされていた。
静かに息を紡いで、雨と一体になるほどに、その中で。
少年も、トウヤも、言葉を発しない。
耳を満たすのは、雨の音だけ。
それは、どこか優しく聴覚を麻痺させて包み込む。
身体を寄せたまま目を閉じていれば、冷たい雨は思いの他柔らかく降り落ちてきた。
冷えていく身体に、互いの肌が触れる箇所だけがただ、じんわりと暖かい。
癒されていく。
雨の音が連れて来る吐き気も、白い腕の幻影も、少年の温もりに掻き消されているようだった。時間が、穏やかに過ぎていく。
――大丈夫。
静かに一つ、トウヤは心の中で繰り返した。
「虹が出るんや」
少年は言った。
雨の降り続く未だ暗い空を眩しそうに眺めながら。
フェンス越しに見える家々の低い屋根の上に大きくアーチを指先で描いて。
「こんな風に、でっかいのが。雨の後に、時々な」
少年の見遣る灰色の空は、降り止むことなく雨粒を零している。
「――せやから、雨、好きやねん」
同じように目を細くして、トウヤは雨雲に覆われた空を見つめた。
雨の合間に柔らかい7色の光を、垣間見たような気が、した。
放課後になり、生徒達の姿も少なくなる夕刻。
まだ降り止まぬ雨が校舎を薄暗く沈める中を、トウヤは保健室へと鞄を取りに戻った。
そこにはナミの姿はなく、濡れ鼠になったトウヤを見た保健医はひどく驚いていた。
保健医に言われるままに、体操服に着替えて帰路につく。
心配していた保健医も、トウヤの「大丈夫です」の言葉に、それ以上は何も言わなかった。
家に向かう足取りは、いつかよりは軽い。
それでも、家が近付いてくるにしたがって、傘を叩く雨の音はやはりトウヤの足から軽さを奪っていくようだった。
やがて外灯が灯りだす頃、自宅へと辿り着く。
雨に濡れた我が家は、物言わず沈黙にその身を沈めて佇んでいた。
電気は点いてはいない。
一度、門の前に立ち止まって、トウヤは傘の影から暗い家を眺めた。
小さく深呼吸をする。
そのまま動かなくなってしまいそうな足に、目を閉じた。
「…大丈夫や」
己の声は、雨に打ち消されそうに小さく、それでもしっかりと耳に届いた。
片手に持った鞄を持つ手に力を篭めて、足を進める。
玄関の扉をゆっくりと押し開けて、絡み付いてくる室内の淀んだ空気を追い払うように頭を振る。後ろ手に扉を閉めながら見遣った廊下は、闇の中でひっそりと静まり返っていた。
濡れた傘を立てかけて、鞄を脇に置いてから、靴を揃えて脱ぐ。
ぴりぴりと、背筋が毛羽立つ感覚。
指先まで血が通わずに、動きが強張る。
暗い廊下へと、トウヤは息を潜めて足を踏み出した。
母の気配を探る。
台所から遠く、トタンを叩く雨の音。
自然、足が向くのはリビングだ。
その入り口に立って、視線を巡らせる。
白い色を探す。
室内を満たす雨の音に支配されていく聴覚を、唾を飲み込む事で引き戻した。
心臓が、痛いほどに張り詰めて、息を殺して脈を打つ。
母を捜す視線が、動きを止める。
いつかと同じように、白い影はそこにいた。
台所とリビングを遮るカウンターの影に隠れるように凭れながら、フローリングの床をただ眺めている。その瞳に何を映しているのかは、ここからでは分からない。
雨の音さえも聞こえていなさそうな母の姿に、トウヤは一つ、大きく息を吸い込んだ。
萎えそうになる気持ちを奮い起こして、拳を強く握り締める。
そっと拳を解くと、じわり、と指先に血が通っていくのを感じた。
ゆっくりと足を踏み出すと、静かに、白い母の傍へと歩み寄っていく。
不思議な程に、足は素直に動いてくれた。
トタンが雨に叩かれる音が、トウヤの足音を消し去る。
すぐ傍に立ったトウヤに、床を見つめ続ける母が気付いた素振りはない。
まるで意識が違うところにあって、現実を見てはいないように、母の瞳は動かない。
抜け殻がそこにある。
雨の音だけが充満する水の底のような空間で、トウヤはじっと動かぬ母を見下ろした。
白い首筋は、歳と疲れを刻んで艶を失っている。
柔らかそうな後れ毛が、項に添って一筋、肌に絡んでいた。
細い肩に張り付くように、白いシャツが皺を形作っていて、淡い色のスカートから覗く足首は今にも折れそうなほどに細い。
こうして見る母は、以前より、随分とやつれたように思える。
ユウヤが亡くなってから、母が笑う顔を数えるほどしか見ていない。
昔はよく、柔らかに笑っていた母だった。
小さい頃、トウヤやユウヤが悪戯をする度に、父は男らしく眉を顰めて怒り、それを見た母がふんわりと笑んでそれを宥めながら、子供達を窘めるのだ。
トウヤもユウヤも、母の笑う顔が好きだった。
息を潜めたまま、トウヤは静かに、母の傍らに膝をつく。
その俯く顔を覗き込むように上体を屈めて、母の視界に自分を映した。
「母さん」
小さく呼びかける声に、ほんの僅かに、白いシャツの肩が揺れる。
一つ瞬きをして、黒い瞳がトウヤを見返した。
「――あなた…」
やがて安心したように表情を綻ばせて、虚ろな瞳の母がトウヤを呼ぶ。
ぞわり、と、得体の知れぬ感覚が足先から這い上がって来る。
小さく息を詰めて、トウヤは唇を噛んだ。
崩れそうになる感覚の中、雨の音がボリュームを増す。
甦ってくる吐き気を、ぐっと腹の下に力を入れてやり過ごした。
…大丈夫。
代わりに耳に甦ってくる響きは、自分の声なのか、少年の声なのか。
「あなた」
ゆらり、白いシャツに包まれた母の手が動いてトウヤへと伸ばされる。
その手を、トウヤは絡め取るように己の掌で受け止めた。
重なる掌から伝わる温度は、低い。
トウヤを見る母の眼差しが、僅かに揺らいだ。
懸命な光を篭めてその瞳を見返して、トウヤは何度も唇を湿らせる。
言葉が喉まで出てきては、また滑り落ち、それを音にするのに身体中から力を集めてこなければならなかった。
「――…違う」
ようやく溢れた言葉は、水底に波紋を広げるように静かに空間を揺らした。
少女のような、無垢で、その分空虚な光を宿す母の瞳が、食い入るようにトウヤを見つめている。
「違う、母さん」
母の冷たい手を、強く力を篭めて握り締めて、腹の底から呼びかける。
苦しさに、身体が悲鳴を上げて押しつぶされてしまいそうだった。
母の瞳に、懇願するような表情の自分が映っている。
「…何を、言っているの…?」
ぽつりと、雨の音に滲む声音が、不思議そうな色を帯びて返される。
訳が分からない、と言った声。
その表情に、しかしトウヤは息を呑んだ。
「…――母さん」
泣きそうに、薄い唇が震えていた。
歪みそうになる表情を、何とか崩さずに持ちこたえているように、その頬が震える。
「あなた」
「違う」
縋るような声に、トウヤは眉間をきつく寄せて、苦しげに息を吐き出した。
途端、小さく息を飲んで、母の表情が歪む。
唇がわなないて、押し殺した嗚咽が漏れた。
「母さん…」
「…や、めて……」
細い首が振られる度に、零れた涙が白いシャツを濡らす。
トウヤの呼び掛けに、聞きたくないと言うように、片手が耳を塞いだ。
「母さん、俺は…」
「やめて…っ」
悲鳴のように高く叫んで頭を振る母の姿に、トウヤは胸の奥がつかえる。
溺れて、苦しくて、もがくように、母の身体を引き寄せて強く抱きすくめた。
「あな…」
「違う。俺は、俺は、父さんやない」
母の冷たい肩に額を押し付けて、きつくきつくその身体を抱いて、押し出すように言葉を口にする。ただ強く、壊れそうな程に、冷たい母を抱きしめる。
「父さんや、ない」
沈み込んでいきそうに、重い言葉だった。
吐き出した自分の唇が、切れて割れるのではないかと思うほど、力が篭った。
腕の中、言葉も動きも失った母の、冷たい体温だけが伝わってくる。
「――母さん」
「…」
「俺は…、父さんには、なれん」
「……」
嗚咽の為か、時折、痙攣するように母の小さな身体が震える。
「やけどな、…やけど、母さんが大事や。――愛してるんや」
雨の中、トウヤの静かな声だけが、確かな強さを持って紡がれる。
絞り出すように、トウヤは一つ一つの言葉を口にした。
「俺は、母さんの、子供やから」
「……」
聞こえているのか、届いているのかも、分からずに。
トウヤは母を抱く腕に力を篭める。
「母さん。…ちゃんと、俺を見て。俺には母さんが…母さんには、俺が、まだおるやろ」
「…う」
「なあ、母さん」
幾度となく繰り返される呼びかけ。
トウヤは必死だった。
もしここでこの手を離したら、母がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。
ひんやりと冷たい母の温度は、それを包み込むトウヤの体温に混じる。
熱を分け与えるように、トウヤの両腕はしっかりと母の背に回されていた。
「母さん」
何度目か、すでに分からない呼び掛けに、ふいに詰めていた息を吐き出して母の背が大きく上下する。そのまま、噛み締めた歯の間から、漏れ出るような泣き声が小さく響いた。
その声は少しづつ大きくなって、やがて室内を満たす雨の音を遠ざける。
母も声を立てて泣くのだと、初めて知った。
トウヤの掌が、緩くその背を擦る。
――大丈夫。
身体の奥から、言葉が甦ってくる。
「大丈夫。大丈夫やから、母さん――…」
身体を震わせて、声を上げて泣く母親を、宥めるように言いながら目を瞑る。
冷たい手が躊躇いがちに動いて、トウヤの体操服の背を軽く掴んだ。
泣き声に混じって、小さく、トウヤの耳にその声が届く。
雨の音に掻き消されそうに弱々しく、だけど聞き慣れた母の声で。
「トウヤ」と――。