15.「大丈夫」
嗚咽さえ混じらない。
ただ、雨を隠れ蓑にするように、涙だけが零れ落ちる。
トウヤは、掛けるべき言葉を組み合わせては、それを言葉にはできずに雨に流した。
力の抜けきった少年の身体は重力に従って、肩を支えるトウヤの腕からずり落ちそうになる。
雨に濡れたせいなのか、その重みは、気を抜けばトウヤごと屋上のコンクリートに吸い寄せてしまいそうだった。
雨が、容赦なく少年の上に舞い落ちては、その重さを増していく。
考えるでもなく、トウヤの腕が少年の身体を引き寄せる。
思いの他簡単に、少年の重みはトウヤの腕の中に落ち着いた。
触れる箇所から伝わってくる体温は、雨を写し取ったかのように、冷たい。
「――なんで、笑うんや」
静かなトウヤの声は、ゆっくりと雨と共に響く。
「なんで、笑ろたんや。そんなん、聞きとうないって言えばいい」
「…そんなん。言うたら、あの人、困るやん」
俯いて、トウヤの肩に額を預けるように置きながら、少年が息継ぎをするように言った。
「困った顔なんか、見たない――」
「…やけど」
「あの人な、鈍いけど、穏やかで、綺麗なもんばっか好きで…優しいねん。優しいから、俺がそんな事言ったら、きっと悩んで困りはる。俺も…、自分の中のこんな汚い気持ちは…、好きな人に見せたない」
少年の肩がゆっくりと大きく上下して、ため息が一つ零れた。
「それにな。そんなん言うたら、汚い俺に幻滅してまうかもしれん。悩んで、困って、最後にはいつも通り、俺の手ぇ離して、叔母さんと赤ん坊のとこに行ってまうかも…しれん」
少年の中で、それは予想ではなく、近い未来の確定なのかもしれない。
語尾が不安定に揺れた。
思いつめたような響きに、トウヤはそれ以上口を挟むことができなかった。
「――けど、笑ってれば。どろどろしたモン押さえつけて、笑っとったら、きっとあの人は気付けへん。今まで通り、傍にいてくれる。俺が黙って、笑って…我慢しとったら…」
「ヤジマ」
「……」
名前を呼ぶ声に、返答はなく、代わりに一つ、しゃくり上げるように身体が震えた。
「…――あかんねん…。もう、無理」
苦しいわ、と嗚咽混じりの声が訴える。
時折雨を弾くように肩を揺らしては、抑えようと息を詰められた嗚咽が漏れる。
少年の背中に置いた掌から、その振動が伝わる。
冷たい背中は、そうして手を置いていれば、掌の中心からほんの少しの温かさが甦ってくるようだった。
「…お前と、俺と…、似てるんかもしれんわ…」
自分の重みも、腕の中の少年に預けるように身体から力を抜きながら、トウヤはほんの小さな呟きを漏らす。
口にしてみると、そうなんだろうと思った。
声を殺して泣く少年の姿は、もう少し未来の、自分の姿なのかもしれない。
黙って、抑えて、今を守る為に自分を殺す。
けれどそれは、決して未来には繋がらない。
やがて崩れ落ちていくのを、ただ静かに待っているだけ。
少年の身体を、雨粒から守るように抱きしめながら、トウヤは目を瞑った。
必要なのは、前に進む強さ。
今を崩しても、未来に繋げる為に、ぶつかる事のできる、勇気。
しばしそうして目を閉じて、耳に満ちる雨の音に身を任せる。
僅かな体温だけが触れる肌から行き来して、それは、互いの傷を舐め合い、癒していくようでもあった。
ゆっくりと、トウヤの深い色の瞳が開かれた。
「――お前は、強い」
腹の底から言葉を絞り出すように、トウヤの唇が動く。
自分でも、何がしたいのか、何を言いたいのか、本当はよく分からない。
「強いんや」
言葉は、まるで暗示をかけるように低く静かな響きで繰り返される。
腕の中で、僅かに少年が身じろいだ。
「…なんや、それ」
小さく、雨にかき消されそうな程に弱い声が胸元から返ってくる。
「お前は強い。…強いから、大丈夫」
「……」
「大丈夫や」
それは少年に、そして自分に、言い聞かせる言葉なのかもしれない。
「大丈夫」
繰り返すトウヤの言葉は、空気の中に染み入って、雨と共に二人を包む。
何度も何度も、トウヤはその言葉を口にした。
どのくらいの間、そうして魔法の言葉のような「大丈夫」を繰り返していたのかは分からない。予鈴のチャイムも、聞こえてはこなかったけれど、間違いなく午後の授業は始まっているだろう。雨は間断なく降り続いて、全身くまなくびしょ濡れになるまで、トウヤは延々と同じ言葉を繰り返していた。
ふいに、少年の肩が揺れた。
「――ほんま…自分、意味分からん奴やなあ」
ほんの少し、強さを取り戻した声と共に上げられた少年の表情は、泣き笑いだった。
改めて、トウヤを見遣って、肩の力が抜けた笑みを零す。
「…あーあ、今更やけど、あんたもびしょ濡れや。雨、嫌いやなかったんか」
元気の戻ってきた気のする少年の瞳を見返して、トウヤは僅か表情を緩めた。
妙に、すっきりした気分だった。
「…嫌いやな。…嫌いやけど…、案外、こうして濡れるのは、悪うない」
「せやろ」
雨を落とす暗い空を見上げながら言ったトウヤに、何故か誇らしげに少年が相槌を打つ。
不思議そうに、トウヤの視線が少年に戻された。
「お前、雨、嫌いやなかったんか?」
「…俺、好きやて言わんかった?」
「言うてたけど…、あんま好きそうな顔してへんかったから」
少年の表情が微妙に歪む。
「あれは…、なんていうか…、嫌いになってまいそうやったんや。…俺の汚いモン、洗い流してもろといて勝手やけど。雨も汚れてもうた気ぃして」
ぼそぼそと口にして、少年が言葉を止める。
「けどな。今は、やっぱり好きや」
はっきりとそう言葉を続けて、空を見上げる。
戻ってきた少年の視線が、トウヤの顔をしばらく見詰めて、そうして一つ頷いた。
「大丈夫…、大丈夫やな。――うん、大丈夫や」
自分に確認をするように、トウヤを見つめたまま、少年が確かな声音で繰り返す。
最後に一つ大きく頷くのに、橙の頭から大きな雫がボタボタと落ちる。
そうしてから、トウヤを見つめたままの瞳がほんの僅か、強い光を取り戻した。
「――あんたも、大丈夫か?」
向けられた言葉に、トウヤの瞳が僅かに揺らいで、やがて一つ頷きを返す。
「大丈夫や」
返した自分の声は、思うより、しっかりしたものだった。
雨の音に打ち消される事なく耳の奥から入り込んだその言葉は、ゆっくりと腹の底へと落ちていった。