14.慟哭
過ぎ去った時間が、長かったのか短かったのかすら分からない。
動きすら奪い去っていく雨の中、トウヤは、ただ、橙色の髪から滴り落ちていく雫を眺めていた。髪を伝って雫となった雨滴は、重そうに揺らめきながらコンクリートの水溜りへと落下していく。幾度も、幾度も。
項垂れたままの少年と、微動だにできないトウヤと。
そのまま、時間が止まって、凍り付いてしまいそうな気すらした。
「――俺なあ、好きな人おるねん」
何の脈絡もなく、唇の端から零れるように発せられた言葉に、トウヤは虚を突かれる。
一気に、感覚が現実へと引き戻された。
「…え?」
思わず聞き返すのに、少年がゆっくりと息を吐き出しながら項垂れていた顔を上げた。
肺の中から、全部の空気を押し出すようなため息だった。
顔を上げた少年の瞳は、トウヤを通り越して後ろのフェンスを眺めていた。
その肩から、力が抜けている。
「すっげぇ好きで、好きで、好きで…。めちゃくちゃ、好きやねん」
真剣な声と瞳で、そう言う。
ゆっくりと、少年の視線がトウヤへと戻ってきた。
「あほらしなる程、好きや」
「……」
少年が、何を話そうとしているのかが分からない。
トウヤは視線を返すだけで、黙ったまま聞いていた。
「――その人な、家庭持ちやねん」
淡々と語られる言葉は、意味を与えられていないかのように軽い。
「もひとつ言うと、男で、俺の叔父さんや」
「……」
衝撃、というものは無かった。
まるでフィクションの話を耳にしているような、定まらない感覚だけがある。
少年の表情も、トウヤに感想を求めるそれではなかった。
「多分、一目惚れみたいなモンで。中学の頃から、俺が好きなんはあの人だけや。伝えたらあかんのは分かってた。知ってたけど、耐えられん程、好きでしゃあなくて。気がついたら、言うとった。何度も何度も、好きやて」
言葉を区切って、少年がしばし黙り込む。
声が無くなれば、雨の音だけが鼓膜を細かく震わせた。
「あの人を、叔母さんから奪ったろとか、そんな事は思った事ない。ただ好きで好きで、そこまで人を好きになれたその気持ちが、自分でもすげぇ誇らしいような気ぃして…多分な、俺、浮かれとったんや。ただ、その気持ちをあの人に知って欲しかった。あの頃の、俺の中の好きやいう気持ちは、真っ白で真っ直ぐやったんやと思う。…思いがけなく、あの人が、振り向いてくれるまでは」
息を継ぐように言葉を区切る少年の表情には、何も浮かんではいなかった。
流れ落ちてくる雨の雫が、全てを流してしまったかのように、穏やかに凪いでいる。
「手に入るとなあ、欲張りになんねん。もっと欲しなる。…俺、叔母さん大事にするあの人も好きやったし…――叔母さんも、好きや。やけど時々、許せんくなる」
僅かに、少年の瞳が細くなった。
「あの人が帰って行くんは、いつでも、叔母さんの所やねん。俺の事、好きや言うたその口で、叔母さんの事も嬉しそうに俺に喋るんや。俺の手ぇ離して、叔母さんの待つ家に帰って行く。…俺、叔母さんが居なくなればいいと、思た」
「…ヤジマ」
伏せられた瞼が震えたようで、思わず名前を呼ぶ。
トウヤの声に、再び開かれた瞳が、強い光を宿している。
「居なくなれば…死んでしもたら、いいのに思たんや」
怒りとも、憤りとも違う、双眸の奥に灯った火のような激しさ。
しかしそれも一瞬で、雨にかき消されるかのように、火は静まり掻き消える。
「――すごい汚い、どろどろした感情や。胸ん中、掻き毟りたなるくらい嫌な気持ちや。後で考えたら、ぞっとする。何も知らん叔母さんの顔見たらな、死にたなるほど、自分の事嫌いになった。やけどな…、あの人の事、やっぱり好きやねん」
言葉は、ため息のようだった。
「この、髪の毛」
「…うん」
「染めたんは、叔母さんに、赤ちゃんが出来たからや」
意味が分からずに、トウヤの瞳が少年を見つめる。
「あの日、学校行こう思てたら、叔母さんからオカンに電話が入ったんや。俺、朝飯のパンが喉に詰まって、死ぬかと思たけど。…赤ちゃんが出来たみたい。今日の夜、叔父さんが帰ってきたら報告するつもりや…て、先に姉のオカンに嬉しそうに報告が入ったんやな、これが」
おどけたように力なく笑う少年の表情は、トウヤの目にどこか痛々しく映る。
「身体中の血が、逆流するかと思たわ。気ぃついたら、家出てて、向かう先は学校やなかった。…あの人、叔母さんから赤ちゃんの話なんか聞いたら、間違いなく俺に嬉しそうに喋りよる。…そういうとこ、すごい鈍いんや。そんなん、聞きたいはずあらへんのになあ…。で、思いついた名案が、コレや」
少年の手が、自分の橙色の髪に触れる。
冷え切った手は骨ばって、筋の一本一本が青く浮かび上がるようだった。
橙の髪は、雨に濡れた為に軽さを失って、その額に、こめかみに、項に張り付いている。
「この頭見たら、へらへら笑うて、おめでたの報告なんかしてこうへんやろ思た。驚いて、あの人の頭ン中から、叔母さんも赤ちゃんも、追い出せるやろうて。…そん時だけでもな」
「それで、染めたんか」
「そうや。――染めて、鏡に映った自分見て、驚いた。…今にも人殺しそうなくらい、凶悪な面しとったわ、俺。胸ン中、どろどろしてて、嫌なもんいっぱい詰まっとって。自分が、とんでもなく醜悪な生き物に思えた。早よ、胸の中の汚いモン洗い流さな、どうにかなってまいそうな気ぃした。ちょうどいい具合に雨が降ってきて、洗い流してもらお思たんや。一番近くで雨に当たれるトコ考えたら、ここしか浮かばんかった」
「…あの時」
小さく呟いたトウヤに、そうや、と少年の首が縦に動く。
「俺の中の汚いモン、雨に流してもろとった。薄汚い自分が許せんくて、見上げた空の黒さに自分重ねて、散々悪態つきながらな。…まさか、誰かに見られるとは思わんかったけど」
「……」
言葉が出て来なかった。
あの時。
雨に立ち向かっているとトウヤが思った少年は、雨ではなく、自分自身と対峙していたのだ。
自分の中の感情を必死に押さえ込んで、戦っていた。
己の思い込みと勝手さに、ジワジワと苦い味が口の中に広がってくる。
トウヤは、思い込みたかったのだ。
少年を、自分と重ね合わせて、崩れ落ちそうな自分の拠り所とする為に。
「――分かったやろ」
少年が続けるのに、トウヤはその言葉の意味を掴めずに少年を見遣った。
「俺に、何か期待なんか、せんといて。あんたの欲しいモンは、俺、多分持ってへん」
「ヤジマ…」
何を言えばいいのかが分からなくて、微かに顰められたトウヤの表情に、しかし少年は濡れ鼠のまま小さく笑った。
憑き物の落ちたような、どこか寂しい笑みだった。
「何や、自分でもびっくりするくらい、軽なったわ」
軽く首を鳴らすように両側に頭を揺らした少年が、そのまま仰向いて雨を見上げる。
「誰にも言えんかった事、ペラペラ喋ったら、楽んなった言うてんねん」
仰向いた少年の額に、鼻先に、頬に、雨の粒が落ちてきて、それは彼の体温をゆるやかに奪って顎先から零れていった。
少年の身体からふいに力が抜けて、そのまま後ろに倒れていきそうになるのを、トウヤの肩に置かれたままの手が辛うじて支える。
雨に濡れた少年は、そのままに、乾いたように笑った。
「ほんま言うとな、今日、ついにオメデタ宣言されてきたんや」
ぽつりと言われた言葉は、抜け殻のように空虚だ。
「すげ、幸せそうな顔でさ。あの人――…」
言いかけた言葉は掠れて、雨音に掻き消されていく。
少年の頬を、雨とは違う温もりを持った雫が、ゆっくりと辿り落ちていった。
「俺は…、俺は、笑いながら…、でも、心ん中で、何回も、叔母さんと…赤ん坊、殺しとったんや。そやのに、あの人は嬉しそうで、幸せいっぱいの顔で――」
この髪も、用無しやなあ。
そう呟くように言った少年の声は、トウヤには、ほとんど聞き取る事ができなかった。