表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨埋み  作者: 大正ふにに
14/18

14.慟哭

 過ぎ去った時間が、長かったのか短かったのかすら分からない。

動きすら奪い去っていく雨の中、トウヤは、ただ、橙色の髪から滴り落ちていく雫を眺めていた。髪を伝って雫となった雨滴は、重そうに揺らめきながらコンクリートの水溜りへと落下していく。幾度も、幾度も。

項垂れたままの少年と、微動だにできないトウヤと。

そのまま、時間が止まって、凍り付いてしまいそうな気すらした。


「――俺なあ、好きな人おるねん」

 何の脈絡もなく、唇の端から零れるように発せられた言葉に、トウヤは虚を突かれる。

一気に、感覚が現実へと引き戻された。

「…え?」

 思わず聞き返すのに、少年がゆっくりと息を吐き出しながら項垂れていた顔を上げた。

肺の中から、全部の空気を押し出すようなため息だった。

 顔を上げた少年の瞳は、トウヤを通り越して後ろのフェンスを眺めていた。

その肩から、力が抜けている。

「すっげぇ好きで、好きで、好きで…。めちゃくちゃ、好きやねん」

 真剣な声と瞳で、そう言う。

ゆっくりと、少年の視線がトウヤへと戻ってきた。

「あほらしなる程、好きや」

「……」

 少年が、何を話そうとしているのかが分からない。

トウヤは視線を返すだけで、黙ったまま聞いていた。

「――その人な、家庭持ちやねん」

 淡々と語られる言葉は、意味を与えられていないかのように軽い。

「もひとつ言うと、男で、俺の叔父さんや」

「……」

 衝撃、というものは無かった。

まるでフィクションの話を耳にしているような、定まらない感覚だけがある。

少年の表情も、トウヤに感想を求めるそれではなかった。

「多分、一目惚れみたいなモンで。中学の頃から、俺が好きなんはあの人だけや。伝えたらあかんのは分かってた。知ってたけど、耐えられん程、好きでしゃあなくて。気がついたら、言うとった。何度も何度も、好きやて」

 言葉を区切って、少年がしばし黙り込む。

声が無くなれば、雨の音だけが鼓膜を細かく震わせた。

「あの人を、叔母さんから奪ったろとか、そんな事は思った事ない。ただ好きで好きで、そこまで人を好きになれたその気持ちが、自分でもすげぇ誇らしいような気ぃして…多分な、俺、浮かれとったんや。ただ、その気持ちをあの人に知って欲しかった。あの頃の、俺の中の好きやいう気持ちは、真っ白で真っ直ぐやったんやと思う。…思いがけなく、あの人が、振り向いてくれるまでは」

 息を継ぐように言葉を区切る少年の表情には、何も浮かんではいなかった。

流れ落ちてくる雨の雫が、全てを流してしまったかのように、穏やかに凪いでいる。

「手に入るとなあ、欲張りになんねん。もっと欲しなる。…俺、叔母さん大事にするあの人も好きやったし…――叔母さんも、好きや。やけど時々、許せんくなる」

 僅かに、少年の瞳が細くなった。

「あの人が帰って行くんは、いつでも、叔母さんの所やねん。俺の事、好きや言うたその口で、叔母さんの事も嬉しそうに俺に喋るんや。俺の手ぇ離して、叔母さんの待つ家に帰って行く。…俺、叔母さんが居なくなればいいと、思た」

「…ヤジマ」

 伏せられた瞼が震えたようで、思わず名前を呼ぶ。

トウヤの声に、再び開かれた瞳が、強い光を宿している。

「居なくなれば…死んでしもたら、いいのに思たんや」

 怒りとも、憤りとも違う、双眸の奥に灯った火のような激しさ。

しかしそれも一瞬で、雨にかき消されるかのように、火は静まり掻き消える。

「――すごい汚い、どろどろした感情や。胸ん中、掻き毟りたなるくらい嫌な気持ちや。後で考えたら、ぞっとする。何も知らん叔母さんの顔見たらな、死にたなるほど、自分の事嫌いになった。やけどな…、あの人の事、やっぱり好きやねん」

 言葉は、ため息のようだった。

「この、髪の毛」

「…うん」

「染めたんは、叔母さんに、赤ちゃんが出来たからや」

 意味が分からずに、トウヤの瞳が少年を見つめる。

「あの日、学校行こう思てたら、叔母さんからオカンに電話が入ったんや。俺、朝飯のパンが喉に詰まって、死ぬかと思たけど。…赤ちゃんが出来たみたい。今日の夜、叔父さんが帰ってきたら報告するつもりや…て、先に姉のオカンに嬉しそうに報告が入ったんやな、これが」

 おどけたように力なく笑う少年の表情は、トウヤの目にどこか痛々しく映る。

「身体中の血が、逆流するかと思たわ。気ぃついたら、家出てて、向かう先は学校やなかった。…あの人、叔母さんから赤ちゃんの話なんか聞いたら、間違いなく俺に嬉しそうに喋りよる。…そういうとこ、すごい鈍いんや。そんなん、聞きたいはずあらへんのになあ…。で、思いついた名案が、コレや」

 少年の手が、自分の橙色の髪に触れる。

冷え切った手は骨ばって、筋の一本一本が青く浮かび上がるようだった。

橙の髪は、雨に濡れた為に軽さを失って、その額に、こめかみに、項に張り付いている。

「この頭見たら、へらへら笑うて、おめでたの報告なんかしてこうへんやろ思た。驚いて、あの人の頭ン中から、叔母さんも赤ちゃんも、追い出せるやろうて。…そん時だけでもな」

「それで、染めたんか」

「そうや。――染めて、鏡に映った自分見て、驚いた。…今にも人殺しそうなくらい、凶悪な面しとったわ、俺。胸ン中、どろどろしてて、嫌なもんいっぱい詰まっとって。自分が、とんでもなく醜悪な生き物に思えた。早よ、胸の中の汚いモン洗い流さな、どうにかなってまいそうな気ぃした。ちょうどいい具合に雨が降ってきて、洗い流してもらお思たんや。一番近くで雨に当たれるトコ考えたら、ここしか浮かばんかった」

「…あの時」

 小さく呟いたトウヤに、そうや、と少年の首が縦に動く。

「俺の中の汚いモン、雨に流してもろとった。薄汚い自分が許せんくて、見上げた空の黒さに自分重ねて、散々悪態つきながらな。…まさか、誰かに見られるとは思わんかったけど」

「……」

 言葉が出て来なかった。

あの時。

雨に立ち向かっているとトウヤが思った少年は、雨ではなく、自分自身と対峙していたのだ。

自分の中の感情を必死に押さえ込んで、戦っていた。

己の思い込みと勝手さに、ジワジワと苦い味が口の中に広がってくる。

トウヤは、思い込みたかったのだ。

少年を、自分と重ね合わせて、崩れ落ちそうな自分の拠り所とする為に。

「――分かったやろ」

 少年が続けるのに、トウヤはその言葉の意味を掴めずに少年を見遣った。

「俺に、何か期待なんか、せんといて。あんたの欲しいモンは、俺、多分持ってへん」

「ヤジマ…」

 何を言えばいいのかが分からなくて、微かに顰められたトウヤの表情に、しかし少年は濡れ鼠のまま小さく笑った。

憑き物の落ちたような、どこか寂しい笑みだった。

「何や、自分でもびっくりするくらい、軽なったわ」

 軽く首を鳴らすように両側に頭を揺らした少年が、そのまま仰向いて雨を見上げる。

「誰にも言えんかった事、ペラペラ喋ったら、楽んなった言うてんねん」

 仰向いた少年の額に、鼻先に、頬に、雨の粒が落ちてきて、それは彼の体温をゆるやかに奪って顎先から零れていった。

少年の身体からふいに力が抜けて、そのまま後ろに倒れていきそうになるのを、トウヤの肩に置かれたままの手が辛うじて支える。

雨に濡れた少年は、そのままに、乾いたように笑った。

「ほんま言うとな、今日、ついにオメデタ宣言されてきたんや」

 ぽつりと言われた言葉は、抜け殻のように空虚だ。

「すげ、幸せそうな顔でさ。あの人――…」

 言いかけた言葉は掠れて、雨音に掻き消されていく。

少年の頬を、雨とは違う温もりを持った雫が、ゆっくりと辿り落ちていった。

「俺は…、俺は、笑いながら…、でも、心ん中で、何回も、叔母さんと…赤ん坊、殺しとったんや。そやのに、あの人は嬉しそうで、幸せいっぱいの顔で――」

 この髪も、用無しやなあ。

そう呟くように言った少年の声は、トウヤには、ほとんど聞き取る事ができなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ