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雨埋み  作者: 大正ふにに
13/18

13.崩壊

 重い足を動かして、向かう先は一つだった。

途中ですれ違う生徒達の姿も、楽しそうな笑い声もトウヤの耳には入らない。

今が昼休みだという事も、頭にはなかった。

ただ、何としても、屋上に行きたかった。

橙色の頭の少年が、瞼の裏で、雨を睨んで背を伸ばし、決して崩れる事無く空を見上げている。

――助けてくれ。

何からどうやって、助けて欲しいのかも分からない。

だけど、手を伸ばさずには居られない。

少年の、何を知っているわけでもない。

ただ、その強い光を宿す瞳と、伸びた背筋と、雨を仰いだ橙色の頭と。

それだけが、今の自分を救ってくれる気がした。


 チェーンを引き千切ってでも、屋上へのドアを押し開けてやるつもりだった。

しかし、たどり着いた屋上のドアに、チェーンは見当たらない。

ドアは開いていた。

なぜ、とか、どうして、とか。

そんなモノは浮かんでこない。

力任せに押し開いたドアが、外の壁にぶつかって歪んだ音を立てる。

 途端、灰色の色彩が視界を埋め尽くした。

低く垂れ込めた空から降ってくる雨が、視界を滲ませる。

あの雨の日の記憶が甦る。

雨の中、佇む少年の姿。

助けてくれ――。

今にも崩れだしそうな世界で何とか踏み止まって、トウヤはただただ、その姿を渇望する。

灰色が埋め尽くす、いつかと同じ雨の屋上。

求めたその姿は、しかし、トウヤの必死の眼差しの先にはない。

踏ん張っていた両の脚から、力が抜けていく。

膝が崩れそうになるのに、ドアの枠に手をついて、トウヤはそのまま目を見開いた。

滲んでぼやけた灰色の中に、信じられない光景があった。

 そこにあるのは、橙色だ。

軽く風にそよぐ、太陽の橙。

あの日と、何一つ変わらない、灰色を押し切るような明るい色彩。

それが、フェンスの傍で、蹲るように濡れている。

座っているのではない。

膝を抱えて、俯いて、膝に頭を押し付けるようにして。

雨に浸食されて、震えているように、己の濡れた身体を強く抱きしめながら。

橙の髪から大きな雫になった雨の粒が、蹲る少年の足元の水溜りへと落ちていく。

その顔が、上げられることはない。

そのまま、二度と動く事のない置物のように、静かに雨に濡らされている。

 まるで、スローモーションのように、トウヤはその光景を眺めていた。

時間の感覚がおかしくなる。

頭の芯が凍りつくようだった。

指先も、表情も、麻痺してしまったかのように、ぴくりとも動かせない。

信じられない。

自分が息をしているのかどうかさえ、分からなくなりそうだった。

空を見据えて立ち、強い瞳で雨に挑んでいた少年の姿はそこにはない。

あるのは、雨に項垂れて、その浸食に身を任せて、動かなくなった少年の姿だけ。

信じたくない。

ふいに、トウヤの身体の奥深くで、水が跳ねる。

雨の音が遠のいて、自分の喉が鳴る音が、異様に大きく耳に届いた。

瞬間、自分でもどうしようもない感情が膨れ上がる。

「何、してんねん…っ」

 鋭く叫んだのは、自分の声だったのか。

怒気を孕んだ低い声音が、雨の粒を押し分けるように響いた。

叫んだ時には、駆け出していた。

飛び出した身体を、容赦なく雨が殴る。

制服にできる染みは瞬く間に広がって、トウヤの身体を重くする。

だが、駆け出した足は止まらない。

上履きがコンクリートに溜まった水を弾く度、バシャバシャと耳障りな音が雨音に混じる。

トウヤの声も、水を弾く靴音も、おそらくは聞こえているはずだろうに、橙頭の少年は顔を上げようとはしなかった。

それどころか、ぴくりとも動かない。 

「何しとんのやっ」

 近付くなり、少年に勢いのままに掴み掛かる。

少年は、反応を返さない。

雨に濡れたまま貝のごとく黙りこくり、その顔すら上げようとはしなかった。

トウヤを突き動かす感情の波は、冷たい雨に濡らされても収まりはしない。

両肩を掴んで、容赦なく揺さ振った。

「自分、何してんねん!」

 がくがくと、揺する度に少年の橙色の濡れた髪が上下左右に揺れる。

髪の先から、顎の先から、雨水が水飛沫のように弾けて飛んだ。

少年の肩は、驚くほどに冷え切っていて、掴んだ掌からじわりと、トウヤの中に雨の温度が忍び込む。

数度めちゃくちゃにその身体を揺すって、ようやく、その橙の頭が上がる。

どこか生気の抜けた表情の少年が、近い距離でトウヤを見返した。

意味の分かぬ怒りが、トウヤの中を駆け巡る。

「何で、何でっ、お前、こんなトコに蹲っとるんや…!」

 叫び声は、一瞬、雨の音を掻き消した。

トウヤの剣幕に、少年が驚いたように目を見張り、さらに視界が揺らぐ程に肩を揺らされて、ようやく少年の瞳に光が戻ってくる。

「…なん、や…、あんた――――…」

 色の薄い瞳に、生気にも似た強さがみるみると浮かんで、その双眸がトウヤを睨み付けた。

今にも殴り掛かりそうに険しい表情のトウヤに、しかし少年が怯んだ様子はない。

「な、んやねんっ…!俺が、どうしてようとっ、あんたに関係あらへん…っ」

 両肩を壊さんばかりに掴むトウヤの手から逃れようと、少年の腕がトウヤを強く押し返す。

むちゃくちゃに手が振り回されて、その爪先がトウヤの肌を傷つけても、トウヤの腕から力が抜ける事はない。少年の足が水を蹴り上げて、トウヤの膝に当たった。

「離せや…っ」

 暴れても蹴飛ばしてもびくともしないトウヤに、少年が怒りを孕んだ声を出す。

トウヤの手に、ますます力が篭って、少年の顔が歪んだ。

 理不尽な怒りであることは、百も承知だった。

だけど、止められない。

裏切られたような、悔しくて、どうしようもない感情が腹の底から湧き出して、トウヤを突き動かしていた。

「蹲ったら、あかんのやっ!」

 感情を迸らせるように叫んだトウヤの言葉に、一瞬、少年がたじろいだようにその抵抗を止める。

「お前は、上向いて、雨になんか負けんで…っ、立ってないとあかんのや!」

「な…何…、言ってんねん…」

 怒りに歪んだ少年の顔から、僅かに、激しさが抜け落ちた。

至近距離で視線が交差し、二人を取り囲む雨の音が、場違いに穏やかに空間を埋め尽くす。

「お前は、立ってなあかん…。強い目で、雨を睨んで…あの時みたいに、いつでもっ」

 僅かばかり勢いの殺がれたトウヤの言葉は、雨のせいか、滲んでいる。

滲んだ言葉以上に、トウヤの表情が苦しげに歪んで、少年を見据える。

戸惑いを含んで揺れた少年の瞳は、項垂れる仕草で隠された。

「…何やねん」

 俯いたままに発せられた言葉は単調で、感情が欠落している。

「――何、勝手な事、言ってんねん…っ」

 力の抜けていた少年の両腕が、拒絶するように強く突っ張って、トウヤを遠ざけた。

「ヤジマ…!!」

 再び力の篭る肩を掴む腕に、少年が勢い良く顔を上げる。

「俺は、そんなに強うないっ!」

 悲鳴のような、叫びだった。

びくりと、トウヤの身体が震える。

トウヤを見据えた少年の瞳は、今にも泣き出しそうな色をしていた。

涙の代わりに、その髪から滴り落ちてくる雨水が、顔に細い跡を残して滑り落ちていく。

幾筋も、幾筋も、雨の跡を作って辿り落ちていく雫を、トウヤは愕然と見つめていた。

そんなトウヤを、少年の泣きそうな瞳が、それでも逸らされる事なく、見据えている。

「…あんた、俺に何を、期待しとるんや」

「……」

 小さく、弱弱しくなった声が、語り掛けるようにトウヤに向けられた。

そうして疲れたように瞳を伏せる少年に、トウヤは返す言葉を持たない。

キリキリと不透明な怒りに張り詰めていた糸は一気に解けて、熱く身体中を満たしていた血が音を立てて引いていく。降り注ぐ雨の一粒一粒がやけに重たくて、身体のあちこちから妙なだるさが立ち上ってくる。

雨の音は、再びトウヤを包み込んだ。

「俺は、そんなに、強うない」

 一言一言噛み締めるように呟く少年の上にも、次から次から雨が落ちてきて、項垂れたその姿を沈めてしまおうとしているかのように見えた。

「強うない」

 繰り返す言葉から、だんだんと力が抜けていく。

突っ張っていた腕からも零れるみたいに力が抜けて、その掌がトウヤのシャツを掠めてコンクリートの上に落ちた。

少年の肩を掴んだままの両手は、外すタイミングを失って、互いを繋ぎ止める架け橋みたいにそこにある。

空は、暗いまま、生み出された雨の雫は、トウヤも、少年も、全てに沁み込んで降り続く。

「……ヤジマ」

 ようやく動いた唇を雨が伝って、その雫は舌の上に渋く広がる。

いつ降り止むとも知れない雨が、トウヤの小さな呟きを、攫っていった。


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