13.崩壊
重い足を動かして、向かう先は一つだった。
途中ですれ違う生徒達の姿も、楽しそうな笑い声もトウヤの耳には入らない。
今が昼休みだという事も、頭にはなかった。
ただ、何としても、屋上に行きたかった。
橙色の頭の少年が、瞼の裏で、雨を睨んで背を伸ばし、決して崩れる事無く空を見上げている。
――助けてくれ。
何からどうやって、助けて欲しいのかも分からない。
だけど、手を伸ばさずには居られない。
少年の、何を知っているわけでもない。
ただ、その強い光を宿す瞳と、伸びた背筋と、雨を仰いだ橙色の頭と。
それだけが、今の自分を救ってくれる気がした。
チェーンを引き千切ってでも、屋上へのドアを押し開けてやるつもりだった。
しかし、たどり着いた屋上のドアに、チェーンは見当たらない。
ドアは開いていた。
なぜ、とか、どうして、とか。
そんなモノは浮かんでこない。
力任せに押し開いたドアが、外の壁にぶつかって歪んだ音を立てる。
途端、灰色の色彩が視界を埋め尽くした。
低く垂れ込めた空から降ってくる雨が、視界を滲ませる。
あの雨の日の記憶が甦る。
雨の中、佇む少年の姿。
助けてくれ――。
今にも崩れだしそうな世界で何とか踏み止まって、トウヤはただただ、その姿を渇望する。
灰色が埋め尽くす、いつかと同じ雨の屋上。
求めたその姿は、しかし、トウヤの必死の眼差しの先にはない。
踏ん張っていた両の脚から、力が抜けていく。
膝が崩れそうになるのに、ドアの枠に手をついて、トウヤはそのまま目を見開いた。
滲んでぼやけた灰色の中に、信じられない光景があった。
そこにあるのは、橙色だ。
軽く風にそよぐ、太陽の橙。
あの日と、何一つ変わらない、灰色を押し切るような明るい色彩。
それが、フェンスの傍で、蹲るように濡れている。
座っているのではない。
膝を抱えて、俯いて、膝に頭を押し付けるようにして。
雨に浸食されて、震えているように、己の濡れた身体を強く抱きしめながら。
橙の髪から大きな雫になった雨の粒が、蹲る少年の足元の水溜りへと落ちていく。
その顔が、上げられることはない。
そのまま、二度と動く事のない置物のように、静かに雨に濡らされている。
まるで、スローモーションのように、トウヤはその光景を眺めていた。
時間の感覚がおかしくなる。
頭の芯が凍りつくようだった。
指先も、表情も、麻痺してしまったかのように、ぴくりとも動かせない。
信じられない。
自分が息をしているのかどうかさえ、分からなくなりそうだった。
空を見据えて立ち、強い瞳で雨に挑んでいた少年の姿はそこにはない。
あるのは、雨に項垂れて、その浸食に身を任せて、動かなくなった少年の姿だけ。
信じたくない。
ふいに、トウヤの身体の奥深くで、水が跳ねる。
雨の音が遠のいて、自分の喉が鳴る音が、異様に大きく耳に届いた。
瞬間、自分でもどうしようもない感情が膨れ上がる。
「何、してんねん…っ」
鋭く叫んだのは、自分の声だったのか。
怒気を孕んだ低い声音が、雨の粒を押し分けるように響いた。
叫んだ時には、駆け出していた。
飛び出した身体を、容赦なく雨が殴る。
制服にできる染みは瞬く間に広がって、トウヤの身体を重くする。
だが、駆け出した足は止まらない。
上履きがコンクリートに溜まった水を弾く度、バシャバシャと耳障りな音が雨音に混じる。
トウヤの声も、水を弾く靴音も、おそらくは聞こえているはずだろうに、橙頭の少年は顔を上げようとはしなかった。
それどころか、ぴくりとも動かない。
「何しとんのやっ」
近付くなり、少年に勢いのままに掴み掛かる。
少年は、反応を返さない。
雨に濡れたまま貝のごとく黙りこくり、その顔すら上げようとはしなかった。
トウヤを突き動かす感情の波は、冷たい雨に濡らされても収まりはしない。
両肩を掴んで、容赦なく揺さ振った。
「自分、何してんねん!」
がくがくと、揺する度に少年の橙色の濡れた髪が上下左右に揺れる。
髪の先から、顎の先から、雨水が水飛沫のように弾けて飛んだ。
少年の肩は、驚くほどに冷え切っていて、掴んだ掌からじわりと、トウヤの中に雨の温度が忍び込む。
数度めちゃくちゃにその身体を揺すって、ようやく、その橙の頭が上がる。
どこか生気の抜けた表情の少年が、近い距離でトウヤを見返した。
意味の分かぬ怒りが、トウヤの中を駆け巡る。
「何で、何でっ、お前、こんなトコに蹲っとるんや…!」
叫び声は、一瞬、雨の音を掻き消した。
トウヤの剣幕に、少年が驚いたように目を見張り、さらに視界が揺らぐ程に肩を揺らされて、ようやく少年の瞳に光が戻ってくる。
「…なん、や…、あんた――――…」
色の薄い瞳に、生気にも似た強さがみるみると浮かんで、その双眸がトウヤを睨み付けた。
今にも殴り掛かりそうに険しい表情のトウヤに、しかし少年が怯んだ様子はない。
「な、んやねんっ…!俺が、どうしてようとっ、あんたに関係あらへん…っ」
両肩を壊さんばかりに掴むトウヤの手から逃れようと、少年の腕がトウヤを強く押し返す。
むちゃくちゃに手が振り回されて、その爪先がトウヤの肌を傷つけても、トウヤの腕から力が抜ける事はない。少年の足が水を蹴り上げて、トウヤの膝に当たった。
「離せや…っ」
暴れても蹴飛ばしてもびくともしないトウヤに、少年が怒りを孕んだ声を出す。
トウヤの手に、ますます力が篭って、少年の顔が歪んだ。
理不尽な怒りであることは、百も承知だった。
だけど、止められない。
裏切られたような、悔しくて、どうしようもない感情が腹の底から湧き出して、トウヤを突き動かしていた。
「蹲ったら、あかんのやっ!」
感情を迸らせるように叫んだトウヤの言葉に、一瞬、少年がたじろいだようにその抵抗を止める。
「お前は、上向いて、雨になんか負けんで…っ、立ってないとあかんのや!」
「な…何…、言ってんねん…」
怒りに歪んだ少年の顔から、僅かに、激しさが抜け落ちた。
至近距離で視線が交差し、二人を取り囲む雨の音が、場違いに穏やかに空間を埋め尽くす。
「お前は、立ってなあかん…。強い目で、雨を睨んで…あの時みたいに、いつでもっ」
僅かばかり勢いの殺がれたトウヤの言葉は、雨のせいか、滲んでいる。
滲んだ言葉以上に、トウヤの表情が苦しげに歪んで、少年を見据える。
戸惑いを含んで揺れた少年の瞳は、項垂れる仕草で隠された。
「…何やねん」
俯いたままに発せられた言葉は単調で、感情が欠落している。
「――何、勝手な事、言ってんねん…っ」
力の抜けていた少年の両腕が、拒絶するように強く突っ張って、トウヤを遠ざけた。
「ヤジマ…!!」
再び力の篭る肩を掴む腕に、少年が勢い良く顔を上げる。
「俺は、そんなに強うないっ!」
悲鳴のような、叫びだった。
びくりと、トウヤの身体が震える。
トウヤを見据えた少年の瞳は、今にも泣き出しそうな色をしていた。
涙の代わりに、その髪から滴り落ちてくる雨水が、顔に細い跡を残して滑り落ちていく。
幾筋も、幾筋も、雨の跡を作って辿り落ちていく雫を、トウヤは愕然と見つめていた。
そんなトウヤを、少年の泣きそうな瞳が、それでも逸らされる事なく、見据えている。
「…あんた、俺に何を、期待しとるんや」
「……」
小さく、弱弱しくなった声が、語り掛けるようにトウヤに向けられた。
そうして疲れたように瞳を伏せる少年に、トウヤは返す言葉を持たない。
キリキリと不透明な怒りに張り詰めていた糸は一気に解けて、熱く身体中を満たしていた血が音を立てて引いていく。降り注ぐ雨の一粒一粒がやけに重たくて、身体のあちこちから妙なだるさが立ち上ってくる。
雨の音は、再びトウヤを包み込んだ。
「俺は、そんなに、強うない」
一言一言噛み締めるように呟く少年の上にも、次から次から雨が落ちてきて、項垂れたその姿を沈めてしまおうとしているかのように見えた。
「強うない」
繰り返す言葉から、だんだんと力が抜けていく。
突っ張っていた腕からも零れるみたいに力が抜けて、その掌がトウヤのシャツを掠めてコンクリートの上に落ちた。
少年の肩を掴んだままの両手は、外すタイミングを失って、互いを繋ぎ止める架け橋みたいにそこにある。
空は、暗いまま、生み出された雨の雫は、トウヤも、少年も、全てに沁み込んで降り続く。
「……ヤジマ」
ようやく動いた唇を雨が伝って、その雫は舌の上に渋く広がる。
いつ降り止むとも知れない雨が、トウヤの小さな呟きを、攫っていった。