12.ナミ
月曜が来て、しかし雨がやむことはなかった。
暗い朝に、息を潜めて、トウヤは母と顔を合わせぬよう早い時間に家を出る。
傘を叩く雨は、まだ人気の薄い通りをトウヤが歩く度、その足から軽さを奪い去っていく。
一歩ごとに、アスファルトがふやけて、ずぶずぶと底なしの沼に沈み込んでいく錯覚すら覚える。早く学校に辿りつかなければ。妙な焦燥感とともに、トウヤは無理やりに重い足を動かした。
まだ用務員すら来ていない早朝。
たどり着いた学校の校門は、当然のように雨に濡れて閉ざされていた。
「…何、やってんやろ…」
呟きながら、トウヤの手が鉄門の柵に絡む。
屋上の扉と同じ、茶色い錆の浮いた鉄門は、トウヤを拒むように固く閉じられたまま動かない。きつく柵を握り締めた掌から、血の色が抜けていく。
雨粒が、鼻先に、頬に落ちてきた。
気付いた瞬間、傘は頭上にはなく、見上げた空は厚い雨雲に覆われて、トウヤ目掛けて弧を描くように雨が落ちてくる。
傘が、足元に転がった。
柵を握る手から、ふいに力が抜ける。
瞼に触れる雨は、思ったよりも、冷たくて心地よい。
薄れていく意識を、雨の音だけが包み込んで受け止めていく。
膜があるように物音が遠い。
ぼやけた音の中に、聞きなれた声が聞こえる。
誰かが喋っている。
「……」
薄く開いた視界に飛び込んできたのは白い天井だった。
その天井に、鈍い銀色のカーテンレール。
そのカーテンレールから、白というには少し黄ばんだ、厚手のカーテンが吊り下げられて、トウヤの周りを囲んでいる。
消毒薬の匂いが、鼻腔に苦く広がった。
頭上の蛍光灯が、白々しい色で視界を照らし出している。
雨の音が、白い空間に不似合いに遠くから響いてくる。
それは耳にこべりついた雨の音なのか、実際に今も降っている雨の音なのか、ぼんやりと霞みがかかったままの頭では判別がつかなかった。
カーテンの一部が、シャッと軽い音と一緒に開いて、黒い髪が揺れる。
ゆっくりと視線を動かしたトウヤに、カーテンからこちらを覗き込んだ少女がほっとしたように表情を崩した。
「目、覚めた?」
確認するように降ってくる高い声は、トウヤの膜を破って透明に耳に届く。
「…ナミちゃん」
その名を呼んだ唇が、ひどく乾いてかさついている。
うん、と頷きながら、少女がカーテンの内側に身体を滑り込ませて、トウヤが寝ているベッドの横に置かれた丸椅子の上にちょこんと腰を下ろした。
「今、昼休みやよ。先生、ちょっと席外すて。代わりに私がおるから、大丈夫」
「…ここ、保健室か」
視線をゆっくりと周囲に馳せるトウヤを上から覗き込んで、ナミが頷いた。
「そや。トウヤくん、覚えとる…?自分、校門んとこに、倒れとったんやて。用務員のおっちゃん、すごいびっくりしたって言うとったよ」
ナミの言葉を頭の中で反芻させながら、少しづつ頭の中が片付いていく。
「保健室運ばれて、そのまま目ぇ覚まさへんて聞いて、すごい心配したんやから」
ナミの声が少し小さくなって、その背中が僅かに丸まった。
緊張が解けたように、ナミが笑う。
そんな少女の姿を見上げるトウヤの表情は、どこかまだぼんやりとしたままだ。
「先生、おばちゃんに電話しても、繋がらん言うとったし」
「母さん」
瞬間、ぴくりとトウヤの肩先が震えた。
ナミが、それを見咎めて、ほんの僅か表情を厳しくする。
「極度の疲れと、低血糖やて。…自分、ちゃんと食べて、寝とる?」
頭の中に甦ってくる白い母の横顔やその腕を振り払おうと、トウヤは息を詰めながらおざなりに頷きを返した。
連絡が、取れなかったと言った。
未だに耳に遠く届いている雨の音は、現実だ。
雨の日の母を、誰かに見られる訳にはいかない。
全てを曝け出されたら、母も、自分も、このままではいられない。
「なあ、大丈夫?」
ナミの双眸が、上からトウヤを覗き込んだ。
何が、と前のように流せる雰囲気ではない。
ナミの表情は厳しく、トウヤの目を見つめる瞳は驚くほどに真剣な光を帯びている。
返答に、ほんの僅か、間が空いた。
「大丈夫や」
「ウソ」
即座に、ナミの切り返しがくる。
しばらく互いの瞳の中を写し取るように見つめあって、息苦しさに、先に視線を逸らしたのはトウヤだった。
ナミが、軽く唇を噛んだ。
小さく息をつくトウヤの視界の端で、ナミの表情が張り詰めたものに変わる。
その口元が数度開いたり閉じたりを繰り返し、やがて何かを決意したように、息を吸い込んだ。
「おばちゃんと、上手くいってへんねやろ」
妙に力の篭ったその言葉に、トウヤの顔が色を失う。
その言葉の中の意味を探るように、双眸がナミを捉えた。
力の篭った両の拳が、ナミの膝の上で揃えられている。
ざわり、トウヤの中の雨水が足の先から這い上がってきた。
――やめてくれ。
言葉は、喉の奥で固まって出てこない。
「私…私、知ってるんよ。トウヤくんが、おばちゃんと…」
唇を噛みながら泣きそうな声でナミが言う。
トウヤの顔色以上に血の気の引いたその唇を眺めながら、心臓が妙な具合に暴れ出す。
「トウヤくん、ここのところずっと様子おかしかった。なあ、何で、何で、あんなんなってんの」
息ができなくなった。
固まって、止まって、消えてしまいたいと思う心を裏切って、心臓は今にも飛び出しそうな勢いで全身に血液を送り続ける。
震えそうになる手で、シャツの上から心臓を押さえ込んだ。
「嫌なんやろ?好きでやってるんやないんやろ?私…、私、トウヤくんが苦しそうなの、もう見てられへん」
声を絞り出すように必死に語りかけるナミの言葉は、しかしトウヤの中で意味を成す前に雨の音に遮断される。
何を言っているのか、雨の音が耳に大きくなりすぎて、トウヤには聞こえなかった。
今にも泣き出しそうなナミの表情と、震える拳だけが、妙に視界に鮮明だ。
「おばちゃん、おかしいやん。なあ、助けてもらお。誰か、先生とか、うちの父さんや母さんだって…」
伸びてきた腕が、ナミの言葉を遮った。
口元を押さえられて、驚いたように目を見張ったナミがトウヤを見る。
自分が、どんな表情をしていたのかは分からない。
ただ、ナミの目から耐え切れないというように、大粒の涙が伝い落ちて、トウヤの手の甲を流れ落ちた。
「――…頼むから、…やめたって」
血を吐くような声は、己の喉から出てきたものだとは思えない程に掠れている。
言わんといて。
再び動かした唇に、ナミの顔がくしゃりと崩れた。
「トウヤくん――…」
名を呼ぶ唇の動きに、口元を塞いでいた手を引っ込める。
ナミの口から、小さく嗚咽が漏れた。
両手で顔を覆って泣き始めるナミと、反対側に足を下ろす。
そのまま、力の入らない足を無理やりに床に押し付けて立ち上がる。
視界がくらりと揺れるのにも構っていられぬほどに、とにかくこの場を離れたかった。
崩れそうになる身体を引き摺って、トウヤは保健室を抜け出した。
押し殺したナミの嗚咽だけが、トウヤの後を這うように追ってきた気がした。