1.降雨
*本編はBLではありませんが、多少の要素と、他幾つかのタブーを踏んでいます。苦手な方はご注意を…。
教室の四角い窓に切り取られた空は曇天。
午前中は晴れていたのに、東からみるみる湧き出してきた黒い雲はあっという間に空全体を覆ってしまった。
風が強い。ガラス越し、2階まで背を伸ばした木の大きな葉がわさわさと重そうに揺れている。
細く開けられた窓の隙間から入り込んでくる風は湿気を孕んで、雨の匂いがした。
頬を撫でていくそれは、つむじ風のように教室を駆け抜けて、隣の女子学生の机上に広げられた教科書を捲り、幾人かの生徒の黒やら茶色やらの髪を揺らして通り過ぎていく。
窓の外、視線だけを上げて風を運んでくる空を見上げる。
――気持ち悪い。
トウヤは、軽く唇を噛んだ。
まだそう暑くはない季節、湿気を含む風には纏わりつくような重さはない。
だけど、気持ちが悪い。
やがて降るだろう雨の、その粒子が無数に散りばめられていて、それは視界に写る空の暗鬱とした様相と相俟って、トウヤの心を沈ませた。
5限目の数学。
教鞭をとる教師は50代も半ばの白髪交じりのオッサンで、リスが鳴くみたいな声でキィキィと公式を読み上げている。
意味不明の数字の羅列。
覚えるのなんて、とうの昔に頭が拒絶反応を起こしている。
形ばかりに開いた教科書は、風の悪戯のために、すでに黒板にかかれた文字と違う内容をレクチャーしている。
その端がまた、はたはたと隙間風に捲られた。
「…雨は、嫌いや」
目を眇めたままに呟いた声はごく小さいもの。
隣の女子が、一瞬ちらりとトウヤを見ただけで、他の誰にも聞こえてはいない。
片肘をついて顎を乗せ、窓の外へと視線を向けているトウヤに、興味が失せたのか女子は再びシャープペンシルを走らせ始めた。
キィキィキィ、カリカリカリ。
リスの鳴き声とシャープペンシルがノートを引っ掻く耳障りな音が、不協和音となって教室の狭い空間を満たす。
トウヤの手は、動かない。
気分が重かった。
もうすぐ、雨が降ってくる。
暗い空からぽたぽたと、地面に黒くシミを作って、だんだんと大地を浸食していくのだ。
「気持ち悪い」
呟いた消えそうな声に、今度は誰も、手を止める者はいない。
5限目が終わり、6限目の始業のチャイムが鳴る頃、雨は降り始めた。
大粒の雨が後から後から空から落ちてきて、それは屋根を叩き、木の葉を叩いて、地面深くに染み込んでいく。
午後になって降り始めた雨に不平を漏らしながらも、黄色い声を上げて、生徒達は下足室から外へと駆け出していく。
時折、用意の良い生徒が自分の傘を手に、その中をゆっくりと帰路に着いた。
生徒達の靴の匂いと、砂埃の匂いと、雨の匂い。
むっとする空間に、錆付いたように汚れた木の靴箱が並んでいる。
空の暗さは、そのまま靴箱の立ち並ぶ空間にも伝染して、夕刻前でまだ電灯の点されていない下足室は、薄暗く沈んでいた。
走っていく生徒達を横目に、トウヤは重い足取りで自分の靴箱に辿り着いた。
さらに暗い靴箱の中、明るい灰色のスニーカーが、几帳面に並んでいる。
まだ濡れてもいないのに、雨が染み込んだかのように重く感じる手を伸ばして、それに触れる。靴箱から引っ張り出すと、靴の重さに手が下がった。
そのまま、立ち竦む。
顔を上げて見遣った外は、雨にしっとりと濡れていた。
今朝の予報は、快晴だった。
だけど、空からはシトシトと、さっきよりは小降りになった雨がシャワーのように舞い降りてきている。
午前中の青空からは想像もつかない曇り空。
暗くどんよりとたちこめた雨雲を見る限り、それは通り雨などではなく、このまま夜まで降り続きそうだった。
遠くに見える放課後のグラウンドは、雨の為に煙って、人一人見当たらない。
靴を片手、鞄を片手に、靴箱の前でトウヤはその風景を眺めていた。
「帰らへんの?」
少し高い声が、帰宅時の下足室の喧騒を縫って響いた。
すぐ近くで発せられた声に、トウヤは首を巡らせる。
「ぼーっとしとる。大丈夫なん?」
数歩先、セーラー服の少女が、困ったような顔でトウヤを見ていた。
肩までで揃えられた清潔そうな黒髪と、柔らかいカーブを描く顔の輪郭。
大きな目が、少しばかり心配そうな色を宿している。
ややぽっちゃりめの愛らしい少女は、トウヤの幼馴染のナミだ。
その片手には鞄。
「ナミちゃんも、今帰るとこなんか?」
静かな、トウヤ独特の喋り方。
返ってきた言葉に、ナミは表情を戻して頷いた。
「雨降ってきたやろ。クラブ、今日はなくなってしもたし」
「傘は?」
「そんなん、持って来てへん。走って帰るわ」
肩を竦めて鞄しか持っていない手をぶらぶらと揺らす。ナミの目が探るようにトウヤを眺めて笑った。
「トウヤくんも、持ってへんねやろ」
一緒に走って帰る?と聞かれて、トウヤは視線を外へと向ける。
雨は、さっきよりも、少し強くなったかもしれない。
戻した視線はナミを素通りして自分の手に持つ靴へと落とされ、ややあってトウヤは首を振った。
「やめとく。…もうちょっと、様子見てから帰るわ」
「…そう?」
軽く首をかしげたナミの表情が僅かに曇った。
そしたら、お先。
そう言ってトウヤの前を通り過ぎ、外へと向かう背中が途中で立ち止まる。
「トウヤくん」
名前を呼ばれて、トウヤは立ち止まったナミへと顔を向けた。
一瞬困ったような顔で口を結んだナミが、息を吐き出すように口を開く。
「なあ。自分、大丈夫…?」
その大きな瞳が、しっかりとトウヤに向けられていた。
「何が?」
靴を下駄箱に戻しながら答えたトウヤに、ナミは僅かに眉を寄せて。
それ以上は何も言わない。
「…ううん。そしたら、帰るわ」
ばいばい、と口にする頃には、いつものナミの笑顔に戻っている。
その背中が、他の生徒達の背中に紛れて雨の中に消えていくのを、見えなくなるまで見送ってから、トウヤは一つ息をついた。
――大丈夫、か…。
口元に自嘲するような笑みを浮かべて、唇が動く。
靴箱に、再び几帳面に並べたスニーカーをしばらく眺めてから、踵を返して校舎に足を向ける。
生徒達の間を逆流しながら、視線を上げた先、廊下に並んだ窓から見える空はどれも重くて、今にも雨と一緒に落ちてきそうな気がした。




