8
お相撲さんが野球を観戦している小さい部屋に滑り込んだ。
お相撲さんは一人どころではなく十人くらいだったので部屋の密度は恐ろしいものだった。
そんな中に滑り込んだ僕の背中を、久国と香田が押し潰してきた。
「うぎゃ」
肺から空気が全部出た。
「あーいててっ、なんだここは」
「あ、っていうか私も小っこくなってる」
「あ、ほんとだ」
香田も黒髪は長いままだが子供に戻ってしまっているというわけで、三人で子供返りである。作業服姿の香田。水着一丁の久国。制服姿の僕。服は身体に合わせて子供サイズになってくれているから動きやすくて快適だ。にしても、若返ったことは嬉しいが、水槽は無くなっているし、街がどうなったのかもわからない。ただ僕たち三人の目の前にはとにかくひたすらに力士。力士だらけの部屋は和室な造りでお相撲さんとマッチングしている雰囲気だが、なぜこの部屋に滑り込んでしまったのかはちっともわからない。お相撲さんが野球を見ている理由もわからない。わからないだらけである。みんな盛り上がっていて僕たちには気が付いてくれない。テレビに熱中していて、お相撲さんたちはみんなメガホンやタンバリン等を持っていて騒ぎ立てている。酒なども飲んでいるらしく、皆、顔が赤い。タバコの煙も天井に充満している。
正直、僕の身体の十倍くらいは巨大な力士たちであるから、びびってしまって小便ちびってしまいそうで困る。震えながら香田と久国の様子を窺うと、二人もびびってしまっているらしく震えていて、ていうか久国の水着をよく見ると染みが出来てる。あ、こいつ漏らしてる、と思ったけどあえて言わないでおいてやった。僕もいつ漏らしてもおかしくなかったからである。香田もびびっているが、さすがそこは香田である、彼女はまだ思考回路が生きているらしく、僕たち二人に小声で話しかけてくる。
「どうしよっか。怖いから逃げるよね?」
そりゃそうしたいけどなあ、と久国に不安気な視線を送ると、やっぱり彼も不安なのだろう、しみったれた顔をしてへこんでしまっている。まだ元気が残っているのは香田くらいだ。香田はきっと身も心も若々しいのだろう。僕と久国はなんだか気だるくなっていて頭が働いていないのだった。
「お相撲さんってでかいなあ」
久国はそんな呑気なことを言っている。その意見には賛同だけど僕はそれよか街とウーパールーパーがどうなったのか気になるし、ていうかこの部屋から逃げたい。だけど疲れてるから頭がちっとも働かない。はあ、香田だけが頼りだ。
つって香田に期待を向けると、さすが香田であった。
彼女は指を示している。その方向を追うと、抜け穴がそこにあった。
子供だけが通過できるような、なぜ部屋にそんな穴があるのかはわからないが、虫に喰われているかのようなギザギザした縁の穴ぼこが、相撲さんたちの向こう側に存在しているのだった。
うん、残念ながら、向こう側である。
「いや、どう考えても無理でしょう。絶対見つかって終わる」
穴ぼこに入れれば確かにここから離れることが出来そうではあったが、あの穴ぼこに入るには目の前に居座っている十人の力士たちを通り抜ける必要があった。部屋は狭く、十人の力士でいっぱいいっぱいなので、ばれないで力士たちを潜り抜けるのは明らかに難しいことがわかる。久国も無理だと感じたらしく、「うひひむり」と断言して首を横に何度も振った。
だが香田はそれでも目が輝いていて、希望をまるで失っていないことが見てわかる。何なんだ、どういう策があるんだ、香田、なんでお前はそんなに半端ないんだ、と僕は羨望とあと妬みらしき感情の入り混じる複雑な思いで彼女を見る。彼女は、輝いていた。そして、力こぶを作ってみせるのだった。何、どういう意味、と思っていると、彼女は小さく、しかしはっきりと、
「あんたらを投げる。…筋肉がすごいから楽勝に出来てしまうことでしょう」
と言った。あまりに突然だったのと、意味不明だということと、二つの理由が組み合わさって、どう反応したらよいのかわからない。戸惑っているのだろう、久国がこっちを見たので、僕も久国を見た。僕と久国はしばらく見合った。お見合いしてる場合じゃねえ。
二人同時に、香田に向けて、一言だけいってやることができた。
「「何いってんの?」」
明らかに馬鹿にした言い方をしてやったのに、しかし、香田は楽しそうに笑うのだった。
大丈夫
何故そんなにも自分の意見を信用できるのか、僕には理解出来ない。
それはまさしく、断言だった。「大丈夫」二度目のその言葉にも、彼女自身が昔から持ち合わせている自信が含まれていた。僕にはどうにも理解出来ない、否定したくなるような、自信。
僕はその時気が付いた。僕は、その香田の自信に満ち溢れている性格が、憎い。もしくは、妬ましい。そうなのだ。男である僕が本来持ち合わせるべきである、いわゆる男らしさや才能というものを、彼女は幼いころから持っていた。そして大きくなればなるほど僕との能力の『差』を形に表し、どうしようもない溝を掘り続けてくれている。彼女は自分で製作した船でどんどん大海を渡って行ってしまうのに、僕は、僕は、いや、俺は、ずっと、同じ場所にいる。そうだ、俺は、私は。
私は彼女の『自信』が羨ましかったのだ。だから、追いかけようとした。正体を、掴み取ろうとしていた。
だけどやはり私には彼女の『自信』の根本を掴みとることなど、無理なのだ。彼女はもう船で新大陸を見つけてしまう程に、遠くへと旅立ってしまっているのだ。私なんて、彼女の視界から見ればきっと小さい米粒なんだ。もしくは、蟻んこなんだ。
大丈夫
その言葉だけが耳に何度も繰り返される。
ぼーっとしているうちに久国は、香田に穴ぼこまで放り投げられた。野球選手のストレートのように勢いよく、久国は一瞬で穴ぼこへと吸い込まれていくように、飛び出して消えていった。
それによって、香田と私の存在に、力士たちが気が付く。彼ら十人は、一斉に私たちの方へと顔を向けるのだった。なぜか恐ろしい形相をしているのが、ひどく怖い。
「なんだお前ら」
「なんか用か」
「せっかく熱中していたところを」
「名前は?」
「出てけ」
彼らが口々に、怒ったようにしながら、言葉を連ねる。男らしい勇ましい声。自信に満ち溢れた。
自信には自信を、ということなのだろうか。
香田は淀みない声音で、力士たちの言葉に答えてみせる。
「おじゃましてます。野球が好きなので、投球の練習をしているんです」
私は思わず苦笑するしかない。普通に、言葉を話しやがるのは、度胸あり過ぎでおかしいだろ。
彼女の自信を再び見せ付けられた。そのことで嫌な気持ちになっている内に、彼女は僕の首根っこを掴む。
そして、鉄くずバベルの塔を登る時と同じように、軽々と。
私をストレートで、何の容赦も躊躇も無しに、放り投げてみせるのだった。
こうして私の視界は穴ぼこに突進し、見える景色は全て、真っ暗に。
香田はどうやって逃げるのだろう、なんて、その時はまったく、考えることすらもしなかった。
悔やんだって、仕方が無いのだが。
二十年の時。