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夢オチの後の気持ちっていうのは不愉快だ。
胸の辺りに鉄パイプが突き刺さった感触が残っていて、すごく気持ちが悪い。
だけどまだ深夜だった。窓を見ると、三日月が空を翔けている。
夢で見た黒々とした物体は、今回は通過することもなく、ただぼんやりと三日月が窓の外にあった。
「ああ、しんど」
足が重たい。疲れが全然取れていない。まああんだけ歩き回ってからまだ一日も経過していないのだから当然なのだろうが。
夢の中でやったようにギターを搔き鳴らすような気分にもならず、口呼吸をしながら、勉強でもしてみようかな、という思いに突然駆られた。そう思い立ち、始めはまあやらなくてもいいけどな、だるいし、という思いだったのだが、どんどん頭の中を勉強が支配して行き、いつの間にか勉強机に身を放り投げていた。嚙り付くように勉強を開始したのである。
因数分解。
山月記の読解。
古文。
ヘプライ語だとか、世界史。
その他諸々。
誤って鼻呼吸をするまで私は勉強を続けた。
そして夢でやった行動と同じように、悪臭によって気絶した後、朝日が昇りあがるとともに目を覚ました。
朝日は真っ赤に燃え滾っていたが、それは私にとっての悪い未来を予期しているような気分がした。
かなり不愉快な気分のまま朝食を適当にいただき、ウーパールーパーのことなど考えないようにしながら、学校へと向かった。
その時私は、兄がセロハンテープに姿を変えていることになど、まるで気がついてはいなかった。
学校で和気藹々と楽しく過ごしている人々に混じりながら、私はめっきり不安に襲われていて目を右往左往、キョロキョロとさせていた。教室の中で久国に話しかけられても彼の言っている言葉など右耳から左耳へと通り抜けていた。久国はそのことに気がついているようだったが特に何も言っては来なかった。久国は久国で、話せればそれで良いようなのだった。
全校集会ということで体育館に移動して校長の話を聞いたりしている最中に、ふと久国の背中を見ていると、口裂け少年のことが頭に浮かんだ。何だか久国と彼とが同一人物なのではないかという錯覚に陥っていたが、思考を深めれば深めるほど、それは錯覚ではなくて事実なのではないかと考えるようになった。校長の話は一切理解出来ていなかったが、そのことはひどく重要な気分がしたので、私は久国の背中を、小指でツンと軽く小突いてみた。
すると、水に弾かれるような、柔軟でなおかつ弾力のある反応が背中から返ってきたではないか。思わず息を呑み、とんでもない事実の発覚をどのように処理していいものかと頭を悩ませる。しかし全校集会の途中だから自由に動けるわけではない。
仕方が無いので、表彰式の暇な時間を見計らって、私は近くにいた厳しくない先生に断りを入れてから、体育館のトイレへと逃げ込んだ。
トイレの中はひどく静かで、遠くからの小鳥の鳴き声でさえ耳に届いてくる。格子窓から差し込まれる日差しを頭から被り込みながら、私はただ呆然としてしまっていて、近頃生じてばかりいる怪奇な現象の諸々の原因は何なのだろうかと、考える。もちろん、答えは出ない。
だが、今日、学校に来てから一度も香田を見掛けていないということには気が付いた。彼女とは別のクラスだが、大概一日に何度か見掛けるのが常だ。だが、今日は一度も見掛けていない。
「……」
夢の中で見た恐ろしい血走った眼の香田を思い出す。鉄パイプに串刺しにされていたウーパールーパーの哀れな姿を思い起こす。胸の辺りに突き刺されたような感触が残っている、違和感のある胸の辺りを何時の間にか手で触れている。
遠くからの小鳥のさえずりは、何処かへ消えていた。トイレの中は何も音が無い。
無音の中で佇む。その時間が長いこと続くと、耳が聞こえているのかという不安が生まれる。
「あ、あ、あ」
試しに声を発してみると『ああ、よかった』と安心することが出来る。そういった馬鹿げた行動を起こさないと耳が機能しているのかもあやふやな程に、便所は静寂に包まれている。
だが、それは突然訪れた。静寂が破られ、鼓膜がしびれる。
すぐに悲鳴だと気が付く。甲高い声。女生徒の声。続いて男の野太い叫びも聞こえる。
私はトイレから急いで抜け出て、その騒音が聞こえてくる方角に向かって全速力で駆け抜けた。足は昨日の疲れも残っているからしんどかったが、必死に駆けることを止めず、あっという間に全校集会が行われているはずの体育館の、その扉の前にまで到着することが出来た。
その場に立てば、もう中で異常な出来事が起こっていることは扉越しでも想像が容易に付く。
「いやだ!」だとか「やめろ!」だとか「殺される!」だとか。
そう言った叫び声を聞いた上で全校集会が平和に行われているという想像をするのは不可能で、もしかすると二度と忘れることの出来ない衝撃的な光景が内部では行われているのかもしれない、という想像することの方が簡単だった。
しかし意を決して、扉を開けた。
そしてそれとほぼ同時に、耳に騒がしい叫声が次々入り込んでくる。
阿鼻叫喚。苦しんでいる声。悲しんでいる声。やつれている声。全てがネガティブな叫び。
目を疑う。だが目を擦っても、映る情景に揺らぎは訪れない。
体育館は世界の何処よりも悲惨な光景に包まれておりそれはまるで地獄と言っても違和感は無かった。様々な悲鳴が一種のBGMと言っても良い程に満ち溢れ混沌している中で多くの人間たちがその姿形を変化させている。
皮膚の代わりに緑色の鱗が全身に張り付いているトカゲのような怪物は、しかし両眼でその姿をしっかりと観察すればその正体がかつての同級生であったことが判明する。饅頭と馬鹿にされていたそのぷくぷくとしたふくよかな顔面は、紛れも無く同じクラスの依木のそれだった。彼はトカゲへと身を転じたように見える。
次に現れたのは蟹だった。右側の腕は蟹のチョキのような形そのものなのだが、左側の腕はまだ人間の名残りであろうかチョキではなくパーの形で指がしっかりと五本ついている。だが恐ろしいのはその五本の指がついている腕が蟹の赤色の甲冑で構成されていることであり、元々の肌色の皮膚は欠片も残ってはいない。その蟹の足元に女子用の制服が転がっていることに気がつけばその蟹が元々女性であったことはわかるが、既に彼女は左腕を除けば蟹そのものといって差し支えが無かった。
体育館は皆が皆、一人残らずそのような異常な現象に陥っている。
自分も何かに姿を変えてしまうのだろうかと怖くなるが、不思議なことに私には特に変化もなく姿形は紛れも無く人間そのものの姿のままだっだ。
安心して一息をつきながら誰か助けられる人はいないだろうかと辺りを窺う。大概の人間はもはや人間はない何かしらへと身を転じていて助けようが無いと思える状況だった。校長が立っていたところには人間サイズの大きさのホッチキスへと姿を変えて壇上に寝転がっている。
何かどうにか出来ることはわずかにでもあるのだろうか、それとも巻き込まれる前にさっさと逃げ出そうかという二択に悩む。その途中で、体育館の隅っこで丸まってガタガタ奮えている制服姿に気が付いた。後姿しか見えないから前がどのような有様になっているのかは想像も付かなかったが、後姿を見る限りには彼はまだ人間であるように見えた。
急いで駆け寄り、しかし手が届くまでの距離に近づくと用心のために慎重に忍び寄る。彼がガタガタ滑稽と言っても良い程に奮えている姿を哀れにも感じながら声を掛けた。
「人間? それとも…」
制服の後姿は奮えていた身体の動きをピクリと止めて、そして驚愕が露骨に浮かび上がっている両眼をこちらに向けた。それは尋常ではない恐怖に包まれてはいたが、間違いなく人間の瞳そのものではあったので私は安心する。
「こんな隅っこに隠れてないでさっさと逃げようぜ」
こちらを警戒している彼に味方だと教えるために出来るだけ明るい声音で言ってみせると、彼もこちらが通常の人間であったことが嬉しかったのか、屈めていた身体を勢い良く直立させて微笑みすらも浮かべていた。
よかった、彼も一人では心細かっただろうが二人になったことで勇気が出て逃げ出す決意を深めてくれたに違いない、私も一人で逃げ出すには何だかいろいろ申し訳ない気持ちもあるからせめて一人の人物だけでも救出することが出来て感激だ。と、思っていたが、その制服姿の彼が右手を隠していることに気が付いた。
「右手、怪我とかしてんの? 別に隠すことはないって」
「いや…これは…」
その同級生はめっきり怪訝な様子であって何か不吉な匂いが立ち込め始めた。彼は右手をひたすらに背後に回していてこちらにそれを見せない。そのまましばし見合って数分。
ウゾ、と同級生の後方で一瞬何かが蠢いたのを視界に入れたのは、彼の微笑みに多少卑屈な雰囲気が混じっていたことを感じ取ったのと同時だった。だが、私はあえて気が付かないフリをしたまま、しかしチラチラとさっきの蠢きが錯覚ではないのかどうなのかチェックを怠らない。
ウゾ、と二度目の蠢きをしっかりと目撃した。同級生の背後でそれは蠢いている。
そして私はこいつも実は…と思って後退を徐々にしていく途中で、卑屈な微笑みだった同級生はついに感情が爆発するかのように大笑いするのだった。だがその爆発は楽しそうだとか嬉しそうだとかというよりは、むしろそれは怖いだとか恐ろしいだとかいう感情が昂ぶっての爆発といった感じで、笑ってる本人はどうだか知らないが、見ている私としてはかなり見ていて気持ちが悪くなる笑い方で、しかも彼が大爆笑と共に今まで隠していた右手を私に見せびらかしてきたから気持ち悪さは倍増した。
吐き気が襲い掛かってきて私は、彼から、正確には彼の右手から、目を背けてしまった。
手の平には当然指が五本付いているわけなのだが、彼の場合その指一本一本が異常事態であり、しかもそれは見る者を不快な気持ちにさせるには十分過ぎる異常だった。
虫。這いずるタイプの虫たちが、彼の手のひらにくっ付く指の代わりに、なっていた。
人差し指が百足。中指が毛虫。薬指がミミズ。小指が蛞蝓。そして親指が、蛆虫。
全身から鳥肌なんてものではない、ただでさえ這いずる虫は見るだけでも全身がざわざわするというのにそれが人間の、しかもかつて同級生だったやつの右の手の平に装着されているという光景。目の当たりにして平常心は保てず、吐き気を手で無理矢理押さえ込みながら私は外に逃げようと走り出そうとするが、足が上手く動いてくれない。
彼の指たちはそれぞれ意思を持っているらしく、ウゾウゾ気持ち悪く四方八方に身をよじらせている。正直、襲われると思った。襲われて私も這いずる虫だらけにされてしまうんじゃないか、って心底恐怖していた。だが、右手が這いずる虫の同級生は、しかし大爆笑をやめないままで私に襲い掛かってくる素振りは一向見せない。ずっと、笑っている。
そのまま笑っているままだったらそれはそれで気持ち悪いけど、まあ助かる、とか思っていると同級生は何を思ったというのだろう、その虫がウゾウゾ蠢いている手で拳を作り、私がそれを止めさせる間も無い、彼はその拳を壁に勢い良く突き出したのであった。
ぐちゃ。
当然、蠢いていた虫たちは所詮虫だから壁などに叩きつけられたら潰れてしまう。実際に虫たちは潰れてしまった。だが、同時にその虫たちは同級生の五本の指でもあったわけである。本来ある五指の代わりであったはずなのだ。
痛くないのか、と思わず尋ねたくなったが、尋ねる前に彼は絶叫している。
ただでさえ阿鼻叫喚がそこら中を飛び回っている地獄だからその絶叫が特別というわけではないが、あまりにも目前の光景は痛々しかった。痛々しいなんてものではなく、目を逸らさなければすぐに吐いてしまうレベルであった。だから、私はもう、彼のことには構わず体育館から逃げ出すために足を早めていた。もう嫌な光景は見たくなかったから、誰と目を合わせることもしないまま夏空へと飛び出していった。気が動転するあまり、走っている途中、涙が止まらなかった。
涙を流しながら叫ぶ。
「俺は、平凡な毎日に帰りたい!」