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夕焼けが街を覆う時間帯になってもウーパールーパーを見つけることが出来なかった。私は悲しくなりながらもギターを弾きたい思いに駆られたので、香田と久国に別れを告げて鉄くずの『山』を降りていった。陽が傾いているおかげで、帰りの鉄は熱くないのが、やけにありがたかった。
香田家の庭を背にして街の歩道。疲労のあまりにしんどかったが、しかし私は何故だろうかそれでも走っていたのだった。急いで走っていて五十メートル走の勢いである。おそらく、ギターを早く弾きたかったのだろう。
「いてっ」
だが、その途中で石につまずいて転んでしまった。くやしくなっていると前方から声。
「…痛そー」
子供だった。どことなく久国に似ている坊主頭。日焼けでこんがりの浅黒い肌だ。
「みてんなよ」
土埃を払いながら子供に因縁をつける目つきをしてみると子供は脅えたらしく「うひっ」などと喚いて飛び上がったが、しかしその飛び上がりはどこかぎこちなく、わざとらしかった。子供は私のにらみにちっとも脅えていないのだろうかと疑い、もう一回「みてんなよ」と今度は鷲のように鋭い目つきをしてみたところ、彼は今度も同じようにどこかぎこちなく、わざとらしい飛び上がりをするのだった。そして、
「うひひひひ」
とこちらを嘲笑うような卑屈な笑い方をするので、悔しくなった。
「…………」
元々、足が疲労困憊で気だるい。ギターを弾くこと以外のことでエネルギーを無駄に消費したくなかった。だから子供を突き飛ばした。軽く小突く程度でどかしたろ、という魂胆。
そして私は手の平を前に押し出し、少年のちっこい体にそれをぶつけた。右肩あたり。
その時に、あれ、と思った。
子供で未発達と言えど肩には骨が入っているのだからある程度は硬いはずなのに、まるで彼の体は水しか入っていないようにタプンタプンというか、ぐにゃぐにゃな感じだった。気のせいかな、とも思ったけれど、しかし子供が卑屈な微笑みを絶やさないのを見て、『あ、こいつ』とものすごく嫌味な表情だと気が付いた。そして、もう一度、今度は左肩のほうに手の平を突き出したのである。
しかし、やはりと言うべきか。子供は左肩でさえも水しか入っていないようなぐにゃぐにゃだった。
しばらく私は彼と向かい合った。人間の体の七割は水でなんちゃらかんちゃらという話は聞いたことがあるが、この子供は身体の十割が水なんじゃねえだろうか、って思った。
私が呆然としている間中、彼はずっとにやにやと余裕で、どっちが年上なのかわかったものじゃないのが悔しい。そんな少年は卑屈な微笑みはやはり絶やさないままに、
「僕ってさ。家庭用のビニールプールで身体が作られてるんだって」
と、言った。そしてその後。少年に大きな変化が起きたのだった。
これはいまだに覚えているのだが、怪談話に出てくる妖怪が現実に浮かび上がってきたという錯覚をしたもので、何故かと言えば彼の口が全力で裂けたからである。
口が裂けたことによって剥き出しにされた歯茎はやけに腫れていて、出血だらけだった。しかも歯はお歯黒みたいな感じで全て漆黒で塗られている。裂ける音が生々しいのが記憶にやけに残っていて、ベキベキという肉が裂けるような音だった。
その音を耳に残しながら、夕焼けに向かって全速力で逃げ出した。
口裂け少年は追ってはこなかった。
無事に帰宅した頃には陽も沈んでいたので直ぐに飯を食った。その日は口呼吸による疲労のピークがみんなに訪れていたせいか、家族一同、一人として言葉を発する者はおらず、犬などに至っては気が狂ったように室内を走り回っている。飯の内容だってご飯と味噌汁とお新香と納豆というシンプルで構成されており、とにかくさっさと飯も済ませて風呂も入って眠りに落ちたいという雰囲気の一夜だった。臭いはやはり止まる所を知らぬほどに悪臭で、相変わらず原因を突き止めることは出来ていないので口呼吸で耐えるしか術はない。
「ああ気だるいなあ」と誰かが言う。
「眠いなあ」と誰かが言う。
「テレビ見て寝よっ」と誰かが言う。
「ふーろはーいろっ」と誰かが言う。
その時は疲れていたので、誰がどの言葉を言ったかなんてまるで覚えていない。
だが、兄が寝る寸前に言った、
「俺はセロハンテープになりたい」
という言葉だけは、忘れるわけにもいかなかったが。みんな聞いていたが聞こえないふりをして、そのまま休憩へと行動を移す。
その後部屋に向かった私は、その夜ギターに熱中した後、ぐうぐう寝た。そして、夢を見る。
死んだ母方の祖父と父方の祖父が手を取り合い、天へと昇り行くのかと思いきや無言のままこちらに振り向くという実に奇妙奇天烈な夢。最後にその二人を口裂け少年がパクリと飲み込んだところで、夢は終って、目を覚ました。
目を覚ました時にはまだ夜中で、窓を見ると丁度三日月が空を翔けているところだった。
「……?」
その三日月の手前を、一瞬黒々とした何かが通過したような気がした。不思議ではあったが、錯覚だろうと思って布団にまた潜り込む。だが一度覚醒してしまったせいか、ちっとも眠気が襲って来ないので、仕方が無いのでギターを搔き鳴らすことにする。ちゃかちゃかと、リズム。
途中から段々とテンションがあがってくる。こりゃ良い感じだぜ、ってことでちゃかちゃかとリズムをさらに激しくしていくうちに、鼻歌を口ずさもうとしてしまったのは間違いだった。
「くっせえええ!」
誤って鼻呼吸。こうして私は気絶して、結果的に、再び眠りに落ちた。
朝日が地球を照らし出す頃になると自然と目を覚まし、慣れたもので、鼻呼吸を一度もすることなく口呼吸だけで朝の支度をやってみせる。
みんなはもう出発していて家は静まり返っている。そんな中、家を出発。
その日は学校だった。
その時まだ、気がついていなかった。
兄が既に人間としての姿を変え、セロハンテープへと身を転じていることに。
学校へ行く途中に香田の鉄くずの山がどんなもんになっているのか気になったので、先日口裂け少年と出会った道とは違う場所を通って、彼女の庭へと訪れてみた。
しかしがっかりする。何の変化もなかったからだ。
昨日帰った時となんら変化の無い鉄の山が、堂々と空へと鋼鉄の身を伸ばしているだけだった。
ふと、その時ウーパールーパーのことが頭をよぎったが、しかし頭をブンブンと横に振ってそのことを忘却しようと試みた。だが、ウーパールーパーが湧き出てこようと脳みそん中で暴れ始めていたので、私の自我とウーパールーパーの邪念で対決だった。
「負けんぞっ」
「おらおらおらおら」
「負けんぞっ」
「おらおらおらおら」
「負けんぞっ」
「おらおらおらおら」
「負けた」
そういうわけで私はウーパールーパーのために、学校に遅刻することを覚悟の上で、鉄くずの山を登り始めた。
まだ陽が照っていないので鉄くずをよじ登ることは簡単だった。
二回目なので慣れてきたことも相俟って、三分くらいで山を登り切る。
すぐに探し始める。今度は山の向こう側へと下山して、その周辺を探索したりという、別の探し方も試みたりした。
それから一時間程は探していた。しかし、鉄くずの山の麓をごぞごぞとやっている時である。
正直、夢であって欲しかった。だが、試しに自分の顔面を殴ってみると痛い。夢ではない。
涙目になりながら、そこにある現実を直視して、そして喚いた。
鉄パイプが、生物を貫通しているのである。それは紛れも無く、ウーパールーパー。
私は随分と長い時間喚いたものだが、それは周辺に住んでいるであろう住人たちのことを一切考える余地も余裕も無い暴走であった。そのせいだろう、香田家から、まだ眠たげな様子の、目を擦っている香田が現れてしまった。眠たげだが顔つきからは怒りが滲み溢れている。私はその時、『ウーパールーパーを殺したの俺だと勘違いされるんじゃないか』という疑問を頭で想像していた。そして、その嫌な想像は残念なことに現実のものとなった。
しばし私と香田は見合っていたものだが、彼女は怒りで頬を引きつらせているのだ。絶命しているウーパールーパーと私に交互に目配せしながら。
「お前が殺したんだ」
めっちゃ冷たい声音である。身体の至る所から冷や汗が吹き出て止まらなくなるのがわかる。早く逃げなければ自らの命が危ういということは明白だった。鉄パイプで自分の肉体が串刺しにされて『山』の天辺に旗印のごとく突き刺される映像がふとよぎる。
そんな映像を浮かべている間に、香田は周辺に落ちている中でもっとも縦に長い、六寸ほどはありそうな鉄パイプを握り締めた。彼女の二の腕からは血管が浮き出ている。それ程に香田は力強く鉄パイプを握り締めているのである。おそらく、私を撲殺あるいは旗印にするために。
「お前が殺したんだ」
よくよく見れば、目さえも血走っているではないか。元々モナリザ的な雰囲気を持ち合わせている香田なだけに、静かな殺意を滾らせている彼女は半端ないホラー。
「ご、ごかいだ」
情けない悲鳴を上げながら、しかし腰が抜けてて後ずさりしか出来ない。
「そもそも、俺がウーパールーパーを殺す理由がないじゃないか。俺は探してたんだぞ、昨日からずっと!」
「殺すために探していたんだろう! だから今日殺した!」
「違うんだってもう死んでたんだって」
「うっせえ死ね」
お話にならない。もう彼女は私の目の前にまで迫っている。彼女を見上げる。朝日を背負っているのは昨日と同じなのに、そこにある微笑みは先日とは間逆のそれだ。昨日の微笑みが女神のものだとするならば本日は魔王だ。魔王が現世に降臨したということだ。
諦めるしかないのかっ。
何故このようなことになってしまったのかと後悔を募らせてしまい、目頭が熱くなった。
ウーパールーパーを見つけたかっただけなのに。昨日一日中頑張って探しても見つからなかったのに。
それが今日遂に見つけ出したのに、死んでるなんて。
そして香田に殺されるだなんて。今こんなところで死ぬだなんて。
どうせなら、旗印にしてもらって、鉄くずバベルの塔の象徴にしてもらいたいものだな。
まあ、人間だからすぐ腐るけど。
無念だ。
最後にギターを弾きたかった。
ギター奏者に、なりたかった…。
すごく巧みな。
「さらばだ」
香田が鉄パイプを勢いよく振り上げ。
身体に、深々と突き刺さった。