10
久国と僕。子供二人で香田の家へ向かう。
作業服姿を見つけたい。
僕たちは夜を駆け抜けている。走っているだけなのにわくわくしていて、わくわくしているから走っている。僕たちは走れるだけ走って、はしゃいで、途中で疲れてしまったら、二十年前のように変な姿になってしまっている街の人を見て、退屈を紛らわしたりしている。道の途中で懐かしい悪臭が漂い始めて、「ああ、くせえ」「ひひくせええひひ」などと言い合って笑いながら、久しぶりに、鼻呼吸をやめて口呼吸。口呼吸をする時のコツは二十年も時が経ってるのに、ちっとも忘れていない。すー、はー、すーはー。すーはーすーはー。久しぶりにやるとあんだけ苦痛だった口呼吸でさえも楽しい。すーはーすーはー。久国が楽しそうに笑う僕を見て、不思議そうに尋ねる。
「なんか楽しそうじゃないひひひ」
「まあね」
「まあねって」
言いながら地面に転がっている文房具を一瞥する。それはハサミで、地面に刃を剥き出しで転がっているけど、その刃をよく見ればそこには人間だった名残りなのだろう、刃の先っぽが足のつま先みたいに五本の指がくっ付いている。そういう風におかしく姿が変わり始めてしまっている人間は決して一人などではなく、そこら中に、無数に、寝転がっていたり何なりしている。
「気味が悪いね」
「でもつまんなくはない!」
子供の無邪気さのままに僕たちは変ちくりんになってしまった皆を笑った。くるくる大通りを回るようにして走る。運転手が変ちくりんになってしまったせいだろう、エンジンをつけたまま停止している車が一つや二つではなくたくさん。信号機も横断歩道ももはや人がいなくなってはただの芸術品だ。本当、全てが僕ら子供にとっては楽しい。面白い。
そして大通りを抜けて小道に入り、しかしそれでも走るスピードを落とさず月に向かい続けていると、僕たちは遂に近づいた。到着した。
一息をついてから、
「到着したね」
「ひひひ、うん」
「いるかな」
「いるさ」
夜闇の中で子供二人、天へ顔を上げれば、自然と口が半開きになってしまうが、そうなってしまうのも当然じゃないだろうか。
かつて二十年前、香田が居なくなると共に成長するのを止めてしまった鉄くずバベルが、隆々と、満月に向かって伸び上がっている光景。圧倒的なスケールで、僕たちを魅了する鉄の塔。正確には月に伸びているのではなく、黒々とした影へと伸びているのだろう。二十年前には気を止めることもなかった太陽や月の手前にあった影。影へと繋がる、鉄くずバベルの塔。
きっと香田は、頂上にいる。頂上まで鉄くずバベルを完成させて、あの黒々とした影へと到達しているに違いない。私たちが二十年前に気にも止めなかった場所を、彼女は見ていて、そこに到達するためのバベルの塔を一人で、作り上げていたのではないだろうか。そして鉄くずバベルが完成した今、僕たちにこれを自慢をするために、彼女は街に再び現れたのだ。僕たちを二十年前の姿に戻してくれて、希望を、見せてくれているのだ。鉄くずバベルで、人間の希望を、可能性を。
だからこそ『バベルの塔』なんだ。香田は神に挑んでいる。
怒りに触れることを覚悟で、積み上げたものを崩されることを覚悟で、彼女は人間の希望を貫こうとしているんだ。人間の発展を。人間の可能性を。神さえも超越してしまおうと。
「うひひひ。何考えてるんだか知らないが、俺たちが考えたって答えは何も出ないぜ。香田に会わなくちゃさ」
久国の言葉にハッとしてから、たしかにその通りだ、と僕は苦笑した。
「そうだね。香田に、会わなくちゃ」
二人で頷きあい、そして暗闇の中、鉄くずへと手をかけ足もかける。顔を上げれば、果てが見えないほどに高さのある鉄塔だということが嫌でもわかる。
「登れるかなあ」僕は不安。
「どうだろうなあ、ひひ」久国も不安。
制服姿の少年の僕と、水着一丁の少年の彼。
鉄くずバベルを登り切ることにさえも『自信』が無い僕ら。
だけど確かに、鉄くずバベルには頂上があるはずだ。果てしない高さの向こう側に。
香田に会うためには、やるしかない。
だったら、行くしかないじゃないか。『自信』とかそんなの、関係ないじゃないか。
僕たちは静かな気合を入れて、どんどんと、止まることなく鉄くずを掴んでは離すということを繰り返して、地上から約、高度五十メートルくらいまで登り上がってみせる。もちろん、自分たちでもこんな所まで登れたことに驚きだ。こんなに体力があるだんて思っていなかったけど、まだまだいけるのがわかった。どこまでも登れることが僕も、そしておそらく久国もそのことをわかっている。
「まだまだ、いけるぜ」
「ひひ。おう」
ふと、もはや遥か下方にある街を見下ろせば、街のそこら中から妙な霧がかった靄があふれ出していることがわかる。二十年前に学校や図書館を包み込んだような、煙だ。そのうち、ウーパールーパーも現れるのだろうか。
「ひひ。もしかして、神が怒っているのかな。バベルの塔を作っちゃってるから」
久国がそんな冴えたようなことを言うので、そうなのかもな、と思った。街のみんなが動物や文房具に変わってしまっているのは、かつてバベルの塔の建設を神が人間の言語をバラバラにして中止させたのと同じように、今度は姿形をバラバラにすることによって建設を中止させようとしているのかもしれない。だけど、そうだとしたら、神は計算を間違えていることが僕にはわかる。
「バベルの塔を作ってるのは、一人だけなんだぜ。神様!」
僕がこれを作っているわけでもないのに、誇らしげに天に向かって叫んだ。
そうだ神は知らない。バラバラになったとしても生き延びることの出来る、人間の力強さを。香田のその未知的半端ないエネルギーを。怪力で人間を投げることも出来てしまう恐ろしい存在を神は呑気に鼻でもほじっているかもしれないが馬鹿め、今に見ていろ。まあ、僕たちは登ることしかしないけれどね。
まだまだ頂上は見えなかったが、手も足もまだまだ動く。
「どこまでもいける」
「たどり着ければ」
僕たち二人は、天へと登り上がり続けた。
どこまでも。終わりがないように。