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 今にして思えば、ということだが。

 あの時、安泰だった私たちの家系、というか親族に、たしかにその不穏な気配は近づいていた。

 と言っても、『不穏な気配』というくらいなのだから実体のある存在ではなく、あやふやな存在なのであるが、確かにそれは、無色透明であっただけで、我々の間近で密かに息づいていた。…というのが昔、親戚の中で一時期そればかりが噂になったことがあった。

 まるでそうやって噂すること自体が呪いであるように、その無色透明な存在に関する噂は絶えることが無かったのだ。

 無職透明な存在。違う。無色透明な存在。

 さて、無色透明であるにも関わらず、何故、親族皆一同がその存在を認知出来たかというと、それはそう、鼻に纏わり付く、臭いのせいである。

 もう一度繰り返すと、臭いである。

 不思議なことであるが、親族の中でその臭いを嗅がない者は誰一人としていなかった。ちなみに私の家庭で始めに気が付いたのは普段臭いに鈍感な父だ。

「なんかくせっ」

 何の脈絡も無く、テレビを見ていた途中に突然口走ったのであるからして、みんなキョトンと目を丸くしたものだが、しかし彼の顔はめっちゃひん曲がっているのだった。そんなにひん曲がる顔だったのかあなたの顔は、って突っ込みたくなるような曲折。実際、兄は突っ込みをしたかったのだろう、今にも何か口を出しそうだったのだが、しかし何と言う伝染力であろうか、彼の顔も突っ込みを入れる前にひどいあり様に変わって曲折、まるで人ならざる者のその顔に、母が突っ込みをしようとした瞬間に彼女の顔もひん曲がってしまったのである。

 そこで私は、突っ込みを入れようとすると顔が曲折するのか、と気が付いたのだがそれは勘違いで私の顔も結局すごくひん曲がった。

「くっせえ」

「くせえ」

「くっせええええ」

 家の家庭には犬がいるのだがその犬に至っては顔がひん曲がるということは無かったが、これは後々気がついたことなのだが、犬は一瞬で臭いに耐え切れなくなって気絶していたから顔を曲折させている場合では無かったのだ。

 鼻が曲がった人間たちは家中をのた打ち回り、苦しみながら臭いから逃れようと逃げ場を探し回り、結局全員がトイレに集まった。トイレは今にも破裂寸前なほどの密集である。そもそもトイレは元々トイレなのだから臭いわけ。みんな涙目である。だが、そこしか逃げ場が無かった。犬は気絶してしまったから後で誰かが助けに向かった。今となってはそれが誰だったのかも覚えていないのだが。

 夏のなんてことない一日がとんだ大惨事であって、しかもその臭いの原因を全員がマスクを付けて一日中捜索したにも関わらず家は臭いまま。

 暑くて臭い。しかも飼い犬は気絶。最悪の夏の思い出である。

 で、その悪条件な環境で夜を過ごした家庭というものが私たちの一家だけではなかったことから、この臭いに対する謎は深まりをみせることに変わっていくわけであるが、ご近所さんにも臭いが来たとかなら下水の関係ですかなという疑いが生まれるが、臭いを感じたのが親戚一同全員だったということで明らかに事件の臭いである。マジ怪しいと言って噂になって当然である。

 親戚皆一同その日から臭いに対するストレスが半端ないことになったので、陰ながら私たちの親戚皆一同は『臭い親族』という屈辱的な評を与えられることになったのでマジ怒りが抑えられんって話である。みんな心内で『臭い親族』という評価を呪い、そしてそれ以上にその突然現れた無色透明な臭いを皆で口々に呪った。ハッキリ言って鼻呼吸が不可能ないくらいに臭いのであって、みんな口呼吸で生活するという有様に陥ったのだから本当ストレスが半端ない。そのせいでみんな大変毎日が困難なハメになってしまったのだが、しかし逆境に強い人々であったらしく、皆、懸命に学問にお仕事に努力を欠かさなかったのであった。しかし、あの時私は臭いにやられてしまった愚か者だった。

 残念ながら頭がいかれポンチで満たされた。

 どういかれたかと言うと、ある日突然、私は『物書きになりたい』とそこら中に口走る軽薄者になってしまった。なんということであろうか、物書きなどという実る可能性の低い職業を志そうと考えてしまう愚かで夢見がちな人物になってしまった。後々に聞くとその時の私は決まって心ここにあらずと言った表情をしていたらしく、さも本当に夢を見ているようだったのだと言う。今にして思えば、私は本当に夢を見ていたのではないかと感じることもあるのだが、ハッキリ言って物書きになりたいなどいう考えは、そんなもんただの現実逃避である。だが、言い訳をすると、現実逃避もしたくなる夏の日を過ごしていたのだから物書きになりたいと発狂するのも当然だった。

 鼻呼吸だったのである。普通に鼻呼吸で生きていたしこれからもそうしたいのに、突然それが臭いのあまりの臭さに妨げられるハメである。

 夏で猛暑でただでさえイライラするのに臭いがたまんないほど悪臭で鼻呼吸が妨げられて口呼吸をするしか術が無くなる。家の中で無理矢理口呼吸なのでちっとも落ち着かず、普段、無意識下で行っている呼吸が意識しないと全然上手くいかないという苦痛は生半可なものじゃありませんよ、はっきりいって、とか言っている間にも呼吸が上手く出来なかったりしてイライラが募る。しかも物書きになりたいとホラ吹きをしまくったおかげで、見栄を張って作品作りに励んでいる風をしなくてはならんので、家の中のワープロから足を一時たりとも離すことが出来ないので外出も出来ない。家から外出すれば臭いからは逃れることが出来て鼻呼吸だとか口呼吸だとか考え込まずに呼吸できるようになるはずだというのに何ということでしょう。物書きになりたいと言う現実逃避のおかげで家から離れることが出来ない。ワープロに夏の蒸し暑い中一日中嚙り付くという馬鹿なことしか出来ない。しかもそれで何か書ければ見栄も本物に変わるので良いが、書こうと思っても指が動かず何か閃きそうになったとしてもそういう時に限って鼻呼吸をうっかりしてしまって「くっせえええ」と絶叫して次の瞬間には何を考えていたのか綺麗サッパリ忘れる。

 一行も進まず、永遠にワープロは真っ白な画面であって苦悩。苦渋。臭い。絶叫。苦悩。苦渋。臭い。

――くっせええええ……

 そんな間にも家族の誰かが臭いの犠牲になっていく。

 風一つ無い、ひたすらに蒸し暑い夏の日だった。 

 入道雲や、風鈴の音。




 それから数日経って、臭いは無くなるどころか益々その悪臭力を増していて、しかも親族皆一家残らずその状況は変わらないということなのだから、やはり『不穏な気配』は間違いなく親族の間で漂っている。その正体は、その根源は、その原因は何なのか。臭いの原因は…。

 誰かの陰謀か、はたまた心霊現象なのか、それとももっと魑魅魍魎な何かが原因なのか…誰も彼もが臭いの原因を知りたがり、調査を怠らなかったが、下水には問題なかったし周辺に悪臭の原因となる何かがあるわけでもなかった。そもそも親族は全員が同じ地区に住んでいるわけではないのだから、土地などが原因であるはずも無いのだ。

 そういうわけで、皆は口呼吸がどんどん得意になるばかりで、それ以外のことは臭いで体力が奪われているので不得手に陥るばかりだった。口呼吸が得意になっても、周囲に馬鹿にされるだけであり、ハッキリ言って邪魔な特技である。無意味な特技である。

 親族一同は衰弱を強め、早く臭いもしくは『不穏な気配』の正体を暴かねば、衰弱のあまり一族の絶滅もあり得た。そんな危機的な夏の中。

 私はさらに発狂を深めていて物書きとホラ吹くことは無くなったが、ギター奏者になると言い出したので皆、涙目だった。物書きもギター奏者も周囲からすれば不安定という意味では対して変わらなかった。私自身は何がキッカケでギター奏者になりたいと思ったのかさえも、もう覚えていない。だから家族も当然、なぜそのような思考回路になるのか理解が出来ず、困惑を深めて口呼吸を忘れて臭いを吸ってしまい辛い思いをするばかりだった。

 さらに深刻なことには、逆境に強い我々親族であったはずだが、私のほかにも突飛なことを言い出す者が現れた。

 それは親族の中で一番幼い吾郎君である。吾郎君は元々力強い男であったものだが、やはり口呼吸の困難に敗れてしまったのだろう、

「俺、ウーパールーパーになるよ」

 と言い出したということを人づてに聞いて私も絶句した。職業なんていうレベルではなく生物の枠を飛び越えたいという願望を騒ぎ出したというのであるから、親族一同暗雲がさらに立ち込めてきたという絶望を感じることを妨げられず、もうみんな暗い顔をしながら口呼吸をするのが常になった。

 そこでふと思い出したのが私の友人にウーパールーパーを長年育てていた輩がいたということで、練習もろくにしてないのにギター奏者になりたいと脈絡も無く言い出すほどに元々が発狂していた私は、今にして思えば何故そういう行動に出たのかマジ理解不能だが、安かったので買ったギターを珍しく放り投げ、そのウーパールーパーを育てていた友人の元へと急いだのであった。たしか記憶によれば、かなり急いでいた。五十メートル走を走る時の勢いで急いでいたということを、やけに覚えているが、なんでそんなどうでも良いことばかり覚えているのだろうかいまだにわからない。

 ていうかウーパールーパーを育てている友人の所へ言ってどうするつもりだったのかマジいまだに理解が出来ない。

 おそらく、それもこれも『不穏な気配』のせい。もしくは、恐ろしい悪臭のせいだ。

 入道雲や、風鈴の音。




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