黄昏の戦姫(たそがれのいくさひめ)
ゴオオンン……
「足りぬ! 魂が足りぬぞ! 小さき魂が!」
鐘楼が始まりの刻を告げる中、魔女ペリオデが玉座の脇で喚き叫んでいる。その老いとも若いとも判じられぬ後ろ姿は、滲々と広間に影を伸ばしていた。わたしは深い溜息と共に面を上げる。嗄れ声が鼓膜を打った。
「カルミア姫。疾う戦場に出られよ!」
「…わたしは、そなたに仕えているのではない」
「相も変わらず、口は動く娘子よ…アナクス王?」
鈍く光る王冠が上がる。我が父王が、半白の髪の奥から鮫のように濁った瞳を光らせた。その皺だらけの手は、薊を象る肘掛を握り締めている。間を置かず、鉄扉を軋ませるような声が下知を吐いた。
「カルミア。反逆者アリウムを祓え。汝の使命を全うせよ」
「…御意。兄者を海に追い落として参ります」
「姫。容赦するな。残さず討ち果たせ!」
わたしは礼をすると後退りで玉座から離れ、純白のマントを翻して立ち上がった。魔女はこちらを見やることさえせずに、虹色の光を放つ「留め珠」の周囲に十の指を翳していた。明滅する妖しき光が弱まっている。
王都の中庭には、既に揃いの白き鎧に身を包んだ軍勢が整列していた。わたしは白兜を巡らせて、林立する槍先ではためく羽根飾りを見渡す。都を護る最後の近衛隊。その多くは、廷臣らの若過ぎる子女だ。
ゴオオンン…ゴオオンン…
再び高き鐘楼の音が響き渡る。急がねばならない。わたしは無言で部隊の先頭に立つと、やはり黙して見送る民の間を進んでいった。門を潜り玉砂利の道を辿る。海へと続く断崖の上で、わたしは振り返った。
茫洋とした黄昏色の下で、城壁と尖塔が染みを落としたように朧に佇んでいた。断崖の狭間を抜けて道を下ると、突如として海に出会う。既に兄王子アリウムの手勢は、蒼き旗を潮風に翻して軍船から砂浜に降りようとしていた。
格式ある名乗りも敢えてせず。両軍は弓隊の曲射に引き続いて白兵に移った。凄まじい鬨の声が交叉する。わたしは身丈を遥かに超える薙刀を振るい、忠実なる親衛が切り開いた血路を抉じ開けて双子の兄を目指す。
ザシュン!
「ごぼぼ!」
偃月の厚い刃が、錆の浮き出る金属片の隙間を正確に切り裂く。わたしは身軽に足を運びながら、遠心力を活かした薙ぎ払いを続ける。バシュン!…ザシュン!…左右に従う部下たちは、見る見る数を減らしていく。
「ぐうう…姫様…次、こそ!」
横合いから飛び出た槍を防いで盾となった我が副官が、血反吐を噴いて倒れ伏す。わたしは名を呼びかけて喉で押し殺し、薙刀の鋼鉄の石突を敵兵の顔に撃ち込む。グシャリという音が、獲物を握る腕を慄かせた。
やがて視界が開けた。長く巨きな影の先に立つは、蒼き鎧に身を固めた痩身の男。兄王子アリウムその人が、独り待ち構えていた。その両の掌に握られた大剣が振りかぶられる。わたしは薙刀を横にして受けた。
ガイインン…。
重い一撃が、わたしの体幹までをも震わせた。歯を食い縛って砂浜を踏み締めて耐える。薙ぎ上げた反撃は、大剣の峰に跳ね返される。息を吐く暇もなく、第二撃そして第三撃が打ち合わされる。やがて双方の息が上がった。
いや、こちらは息も絶え絶えだ。兄上はここを先途と鋭い突きを押し出してくる。薙刀を手放したわたしは竦む足を叱咤して前に踏み出し、大剣が脇腹を抉る痛みに耐えながら短剣を抜き、擦れ違いざまに喉を切り裂いた。
「姫が、反逆者アリウムを祓った!」
「優美なるカルミア!」
「戦姫を寿げ! アナクス王を讃えよ!」
どっと空虚な、勝鬨が上がる。それでも敵の残兵は執拗に戦った。じりじりと数を減らして二十を切ったと思われた頃、漸く隊伍を崩して船へと逃げ戻っていった。わたしは物言わぬ姿となって眼を天に向ける顔を、じっと見ていた。
脇腹の止血をしてくれた兵に会釈をして立ち上がり、振り返りもせずに都へと戻る道を辿る。己の軍勢が背中に従うか否かも見届けなかった。断崖の狭間を登り、都と海の両方が見渡せるところで初めて顔を回す。
ゴオオンン…ゴオオンン…ゴオオンン…
黄昏色が照らす海に浮かぶ船縁に立つは、蒼き鎧の痩身の男だった。裂いた喉首に傷は無い。わたしは、ふっと錯綜に満ちた息を吐く。そして往路と同じ数に戻った近衛を率い、凱旋を讃える虚ろ声が木魂する門を潜った。
「足りぬと言ったであろうが!」
わたしは玉座の下で、割れ鐘のように歪んだ魔女の怒声を聞き流していた。刻は戻ろうとも、精神の疲労は酒甕の澱のように溜まり続けるのだ。頭を垂れつつも、床に置いた薙刀を思わず握り締める。
ゴオオンン……
「鳴ったぞ!…急げ、カルミア!」
「…カルミア。反逆者アリウムを祓え。汝の使命を全うせよ」
「陛下。御言葉ですが。今一度、兄王子と…」
「汝は黙って従えばよい!」
老王の叫びは、もはや狂気の色彩で満たされていた。魔女ペリオデも一心不乱に虹色が明滅する「留め珠」に手を翳している。その頼りない光の奥に覗く魔女の顔は、一気に年齢に追いつかれた如く皺を刻んでいた。
わたしは苛立ちと共に思い切りマントを捲り上げ、薙刀を持って後退りもせずに立ち上がった。礼を失したことを咎める声は何処からも上がらない。わたしは微かな嘲笑を浮かべてから、身を返した。
ゆああんん…
聞いたことのない、妙な歪音に驚いて玉座を振り返る。薙刀の石突が「留め珠」を掠ってしまったのだ! ふっと視界がブレた。いや、大地が…大気が…世界そのものが震えたのだ。珠の虹色が消え失せた。
「…ふん。時間の問題ではあった。他の者らも、限界であったろう」」
ペリオデの声に怒りは無かった。割れることも嗄れることも無かった。そしてその紫瞳に宿るのは、海よりも深い諦観だった。
「…夜が来よう。ウィラルテを揺るがす大嵐と共にな」
「大嵐?…王宮に籠れば…」
「痴れ者めが。こんな陋屋など、三日後には吹き飛ぶであろう」
思わず父王を見る。何の反応も返してこない。この老人は、疾うに為政者としての務めを放り出しているのだから。開け放しの窓から、強風が吹き込んできた。その額縁から見える景色は、早くも葡萄色に落ちていた。
「アリウムの船は?」
「もう気付いて上陸しておるだろう。今宵からは、王宮の地下で嵐を遣り過ごす席を巡り、血海が広がることになろう」
ゴン!ゴオン…ゴッ!ゴオン!…ゴォォン…
鐘楼の鐘が狂ったように連打されている。秩序を喪った乱れ音に歯が軋む。永遠の黄昏を彷徨う世界は、消え失せたのだから。夜が来る。暗闇がやって来る。嵐を連れて。嵐と人では、どちらが恐ろしいのだろうか。
「…曙は訪れるのか? 夜の後には曙刻が…夜明けが?」
「ああ。大地を踏み締めていた者にはな」
「ならば、足掻く価値があるな」
わたしは彫像のように動かぬ父王を一瞥し、憐れむような視線を寄越す魔女を見返して薙刀を構えた。無数の戦場を共にした刃に映る戦姫カルミア、黄昏を超えたカルミアの笑顔は、我ながら優美だった。




