第68話 ゲルマニアの首なし麗人⑥
タカシは息を飲んで勝負の行方を見守っている。
彼は時々皇女と将棋の相手をさせられる。
皇女に飛車角を抜かれる二枚落ちでもまるで歯がたたない実力である。
しかしそんな彼でも盤面の雰囲気は感じとれる。
「ヴィクトリアさんの銀が早い!このままじゃ和子様の角頭が持たないんじゃ…」
タカシの焦燥をよそに和子はさっさと指し手を進める。
和子は囲いを放棄して飛車を王の横に展開し、ヴィクトリアの玉頭に直接照準を定める。
(へえ…焦土戦術やね。うちの王さんの首を直接狙いに来たわけか。でもちょっと遅いんとちゃうかなあ)
ヴィクトリアは構わず和子の左辺を蹂躙する。
(嗚呼!あんなに駒を取られまくって…しかも和子様の王が薄い!端歩を詰められて右辺に逃げ道も無い…)
タカシは生きた心地がしない。
ヴィクトリアは9四歩を突き捨てて香車の吊り上げの味を作った後、豊富な持駒で和子の王を中段の危険地帯に誘導する。
(さあ…どうする姫さん?王さん風前の灯やで)
ヴィクトリアはゆったり椅子の背に持たれネクタイを直した。
パチンという駒音がして角が9三に置かれる。
ヴィクトリアはガバッと身を起こした。
(なんや…この角?何で8四と違うんや?その位置やと、▲9四香で田楽刺し食らうで。ええの?姫さん)
彼女は角頭の歩に手を伸ばしかけた。
(あかん!これ毒饅頭や!食ったら即あの世行きやで…)
ヴィクトリア慌てて手を引っ込め、和子の横顔を見た。
皇女は何食わぬ顔で盤面を静かに見つめている。
(この狸はんめ…香車走ったら角ブッチしてから走った香がそのままうちの王の脇腹を差す仕組みや…しかも角の利きが王さんを守って見違えるほど陣形が引き締まっとる。これが皇女和子の将棋か…)
将軍は微かに身を震わせる。
(しかし優勢は揺るがん!勝つのはうちや!)
ヴィクトリアは持駒の桂馬を連打し和子の王を下段に追い詰める。
「これで仕舞いや!」
彼女は気迫を込めて飛車を和子の玉頭に打ち据えた。
(△8一玉は△8三飛成て即詰み。△8二玉は▲9四桂、△9二玉、▲9三桂成以下、後手玉は一手一手や!)
ヴィクトリアは勝利を確信して拳をぎゅっと握った。
しかし和子は静かに王をつまみ上げるとニコリと笑ってこう言った。
「ヴィクトリアさん。貴方は阪田三吉翁に師事されたとおっしゃいましたね。私も指南していただいた方がいらっしゃいます。その名は木村康晴」
「き、木村康晴。14世永世名人やないか!阪田師匠を引退に追いやった奴や!」
「はい。そしてその方に教えていただいた言葉があります。『負けているようで負けて無い』です。私はこの言葉が大好きです」
そう言うと和子は手に持った王将の駒を静かに 8一に置いた。
その手を見てヴィクトリアは目を剥いた。
(はあ!姫さん一体何しとん。即詰みやないか!)
彼女は憤然として飛車を持ち上げ、8三に龍成りしかける。
(あ…ああ!終わった…)
タカシは唇を噛んでうつむいた。
(うう…和子様。で、でも…僕は勝負の行く末を見届けないといけない!)
タカシは恐る恐る顔を上げた。
(え!一体何が起きているんだ!)
タカシは面前の状況に我が目を疑った。
ヴィクトリアの体が飛車を握ったまま手を震わせて固まっているのである。
左脇の彼女の顔をみると愕然としている。
(アホな!こんなアホな事があってええんか?玉頭に龍が出来て▲8三桂不成から金も取れるのに…詰まへん…どうやっても詰みそうやのに詰まんねん!そうや!うちの玉はまだ詰まへん。もう1枚金を取れば…)
ヴィクトリアは即詰を諦め5三の金を取った。
その瞬間和子の手がさっと伸び、6一に銀が置かれた。
ヴィクトリアの顔から血の気が引いた。
(そんな!金二枚剥がしたのに…銀打ち一発で有効な攻めが無いんか…)
和子の胴体は背筋をピンと伸ばし、両手を行儀よく 膝に乗せて静かに座している。
(そうか…手が無いんか…)
苦しそうだったヴィクトリアの表情が徐々に穏やかになっていく。
彼女は姿勢を正し、静かに盤面に手の平を乗せた。
するとお互いの胴体がお辞儀をした。
(え!和子様が勝ったの?)
タカシはまだ煙に巻かれている様な表情である。
「姫さん。8一玉はどの辺で読んではったん?」
「端歩を突きこされた時…もしかしたらこの展開もあるのかなと思いました」
それを聞いてヴィクトリアは嘆息した。
「恐れ入ったわ。さすがはうちの憧れの皇女様やわ。あの…いろんな失礼な事を言うてすみませんでした」
「いいえ。わたくしも変にムキになったりして…申し訳ございませんでした」
「いえいえ。この勝負は完敗ですんで山田はんをベルリンに連れて行くのは諦めます」
そう言うとヴィクトリアはタカシから自分の首を我が手に戻した。
「山田はん。うち…悲しいけど、離婚やな」
「いえ。そもそも結婚してませんけど…」
「又真面目に返す!そこはちゃんと突っ込まな!」
「は、はい」
頭を掻くタカシ。
それを見て思わず和子は笑いが溢れた。
次回 皇女と将軍の休憩室談話




