夢見鳥
その街には、「夢を食べる鳥」がいるという噂があった。
それは人の目にほとんど見えない。けれど、夜の片隅や、夢の終わり際に、その気配だけを感じることがあるという。
夢の中に現れて、そっと夢をくわえて飛び去っていくのだそうだ。
高校生の志織は、最近まったく夢を見なくなっていた。
眠るたびに深く落ちて、朝、目を覚ますと何も覚えていない。
もともと夢を見るのが好きだった。特に子どものころは、毎晩のように夢の中で空を飛んだり、不思議な動物と遊んだり、知らない国を旅したりしていた。
「夢を見なくなるのは大人になった証拠だよ」
と母は笑ったけれど、志織はどうしてもそれが寂しかった。
悪夢も見なくなったけれど、何度も繰り返し見ていた幸せな夢も見なくなった。
ある夜、眠れずにいた志織は、窓を開けて夜空を眺めていた。
雲が風に流れていき、満月が顔を出す。
すると、すっと、影がよぎった。
鳥だった。
小さな、けれど不思議な鳥。
羽は夜空の色をしていて、目はきらきらと星のように輝いていた。
「……夢見鳥?」
思わず呟いたとき、鳥がこちらを見たような気がした。
志織の心に、なぜかふっと声が響いた。
「……夢、なくなったね」
翌日、志織は放課後、図書館へ向かった。
気になって、「夢見鳥」の伝説について調べてみた。
すると古い民話の記録が一つだけ見つかった。
夢を食べる鳥は、人の心に引き寄せられる。心の中にある大切な夢を、そっと食べて消してしまう。
だが、夢を返してほしいと願う者には、一つだけ夢を返すことがある。
「夢を、返してもらう……?」
ページの隅に、赤いインクで書き足された言葉があった。
その時、鳥は問いかける。
『一番、消したくなかった夢は何?』
その夜、志織は決意して眠りについた。
夢は、なかなか訪れなかった。
それでも、まどろみの中で、ふと気配を感じた。
また、あの鳥だ。
闇の羽を震わせ、枕元に降り立つ。
「夢を返して」
志織は心の中で願った。
すると、鳥が問いかけた。
「一番、消したくなかった夢は?」
志織は少し考えて、そしてこう答えた。
「お母さんと、一緒に笑ってた夢」
鳥はしばらく志織を見つめていた。
そして、静かに翼を広げ、光の羽を一枚、志織の胸に落とした。
その瞬間、夢が始まった。
春の公園。桜の下。手を繋いで歩く二人。
幼い志織と、優しく笑う母。
忘れていた声。香り。あたたかさ。
夢は短く、そして深かった。
朝。目が覚めた志織は、久しぶりに涙を流していた。
でも、それは悲しい涙ではなかった。
ありがとう、と志織は小さく呟いた。
そしてふと、窓の外を見た。
街路樹の枝に、一羽の黒い鳥がとまっていた。
それは風に乗って、ふわりと空へ飛び立っていった。
志織は、そっと笑った。
もう一度、夢を見てもいいのかもしれない。
空を飛んだり、不思議な動物と遊んだり、知らない国を旅したりしなくてもいい。
ただ幸せだった時の夢をもう一度。 自分の心の中で、夢はまだ咲いているのかもしれない。
そう、思った。