王子様とふたりの少女たち
アルバートから見た三人の話。
王子様、と言われ、好奇心丸出しの目を向けられた時は、「またこれか」と、正直うんざりした。
婚約者となるカンナ・グレンジャーは公爵令嬢と聞いているが、身分が高くても大して変わらない。誰も彼もが、自分を見ては容姿を褒め称え、同世代のこどもは理想の王子様像を押し付け、年の離れた大人達は、美辞麗句を並べ立てて、媚を売り機嫌を取る。
機嫌を取るだけなら害はないが、実際に囲い込まれてべたべた触られたり、僕より大きな自分の娘をけしかけて襲わせようとしたり、母と同じくらいの女性に口付けられそうになったり、ぞっとする出来事も味わってきた。
そんな日常を、必死で貼り付けた笑顔で乗り切りつつも、内心はずっと辟易していた。
そんな僕の周りで数少ない、心を許せる存在は、血を分けた兄と母だけだった。父は、少し緊張する。
その兄が、カンナとの顔合わせの前に言っていた事がある。
「どんな事情でも縁あって、アルバートの元にやって来てくれるんだ。お互いにとって、良い関係であるに越した事はない。良いところ可愛いところをたくさん見つけて、好きになれると良いね」
なるほど。兄上がそう言うなら。そう思って見るとどうだろう……。
でも、頑張って見つけるまでもなかった。
カンナは可愛い女の子だった。小さな顔に、ぱちくりとよく動く大きな青い目。肩までの栗毛の髪はつやつやと輝いているし、色白で華奢な手足は、一歳しか変わらないのにか弱く見えて、これから僕がこの子を婚約者として守るんだ、と僕の心を奮い立たせた。
まあ、実際のカンナはか弱くなんてなかったんだけど。
髪が短いのは、兄と遊ぶのに邪魔だから自分で切ったらしい。
自分で切ったって何? こっ酷く叱られたらしいけれど、僕だって聞いた時はつい、「危ないから二度としないで」って叱ってしまった。
大体、兄と遊ぶのに髪が邪魔になるってどういう事?
その疑問は、グレンジャー家に遊びに行くようになって、すぐに解消される。
カンナの兄ライトは、活発の一言では済まないくらい、縦横無尽に動き回って遊ぶ。いや、縦横だけでは済まない。上下にも激しく動く。木にするすると登って、木から木に飛び移って行った時には、驚きを通り越して呆れた。
「私、どうしても怖くて飛び移れなくて」
いやいや、カンナ、飛び移る必要なんてないから。
「私も。一回落ちてからはもう無理」
一回飛んだのか、ユリア。
ちなみにユリアはカンナの二歳下の妹だ。ライトは時に枝に体重を掛けて、ばねのようにして少し離れた木まで飛び移るらしい。それを真似したユリアが、かなり先端まで行って飛んだせいで、枝が折れて落ちたのだとか。何してるの、この兄妹。
けれど、そんな滅茶苦茶なグレンジャー兄妹と遊ぶのは、刺激的で楽しかった。
王宮では、可愛いけれどどこか大人しくて上品に振る舞うカンナが、思い切り笑う顔が見られるのも良かった。
ただ、そこに当たり前のように、カンナの親友だというエリカ・リーズリーがいる事だけが、僕の気を重くさせた。
エリカは、その頃既にその美しい容姿から「妖精姫」とか呼ばれて、貴族の垣根を超えて国内で広く名を知られる存在だった。
僕も知っていた。いつか母にどこかのお茶会に連れて行かれた際に、二人並べられて「お似合い」だとか「絵になる」だとか言われて、その日はずっと彼女が隣にいた。
エリカが自慢気に僕にべったり張り付いていても、「微笑ましい」と誰も止めないし、やんわりと離れるように言っても聞かないし、挙句、どこかの夫人にこのまま婚約したらどうかなんて軽口まで叩かれてしまう始末だった。
僕も拒絶できなくて、「貴女のような美しい人が婚約者となる者は、きっと幸せ者ですね」なんて中途半端な逃げ方をしてしまった。
これが、この後八年も自分の婚約者を悩ませる事になるなんて、微塵も思いもしなかった。九歳の僕の馬鹿野郎。
公爵家でも、エリカは遠慮なく僕に張り付き、カンナと僕の会話も遮り、時に僕の腕に自分の腕を絡めて来ようとした。
この無遠慮で不躾なところが苦手だ。そもそも、幼少期のあれこれで、ぐいぐいと詰め寄ってくる女性が苦手だ。
でも、あの初対面のお茶会とは違う。僕には正式に、婚約者がいる。彼女を拒絶しなければならない、大義名分がある。
だから、不必要に距離が近いエリカに、「婚約者でもないのに迷惑だ」とはっきり告げ、「気安く触るな」とも言った。
カンナを怖がらせたくないと、カンナに直接聞こえないように気を付け、多少の加減はしたが、はっきり不快だと表情にも態度にも示したつもりだ。
だが、エリカの馴れ馴れしさは変わらなかった。
それよりも一番気になったのは、エリカの態度を笑顔で許してしまっているカンナの様子だった。
普通、婚約者そっちのけで別の女の子がくっついていたら、焦りなり怒りなり悲しみなり、負の感情が浮かぶものではないのか。
自惚れかも知れなけれど、カンナが、僕を嫌っているとは考え難い。初対面の、あの憧れと好奇心を詰め込んできらきらした目。婚約者となった今も、さほど変わらない目を向けてくれているように思うのだ。
でもそれは、あくまで“王子様”への憧れであって、僕への恋愛感情ではないのかも知れない。
それに気付いて落胆した時、初めて、僕は僕だけがカンナに恋をしているんだなって痛烈に思い知った。
それはそうと、現状を何とかしたい僕は、ライトに僕が公爵家に来る時は、最初から同席してほしいと頼んだ。
ライトは、「何故」とも聞かず、「ああ、いいよ」とあっさり了承してくれた。
破天荒に見えて、ちゃんと公爵家嫡男だったライトは、素知らぬ顔をしながら、しっかりエリカの事も把握していたらしい。
「カンナはさ、アルバートとエリカが互いに想い合ってると思ってるんだよ」
次に会った時、木の上でライトはそう教えてくれた。
エリカは木に登れない。なので、エリカが来ている時は、カンナも木の下で遊んでいる。何故かユリアは木に登ってきているけれど。
「え? なんで?」
「さあ。でも、アルバートとエリカは相思相愛で、いつか自分は身を引く時が来る。仮初の婚約者なんだってさ」
「そんな馬鹿な」
僕とカンナの婚約は、王命により正式に結ばれたものだ。仮初なんてあり得ない。
ああ、でも、そう思っているなら説明がつく事はいくつかある。
カンナの前でエリカが僕にべったりくっついて来てもにこにこしている事とか、僕とカンナの話にエリカが割り込んでくるとすぐに引く事とか。
もしかして、僕が公爵家に来るたびにエリカがいるのは、カンナが彼女に知らせている、という線もあるのか?
大体、エリカもエリカだ。普通は、婚約者がいると分かれば、いくらカンナがそう言ったとて、遠慮するのが筋というものだろ。
まあ、エリカのこれまでの言動を見れば、婚約者の一人二人で遠慮する人間とは思えないが。
誰か、エリカにも婚約者がいたら違うのかな……。
と、隣に座るライトを見る。
「え、俺? 嫌だよ」
ぶつぶつと考えていた事を全て声に出していたらしい僕の視線に、ライトがあからさまに顔を顰める。
「何故? 爵位も釣り合うし、何より相手は妖精姫だぞ」
「お前、あのエリカを見て本当に妖精だとか思えるの?」
「いや……」
「親しくなっても騙されるのなんて、カンナくらいだよ。ユリアだって逃げてる。確かに顔も仕草も可愛いんだけどなー……」
ゆっくり木に登って来ていたユリアが、やっと僕達の座る枝までやって来て、ひょこっと顔を出す。
カンナとよく似た、可愛らしい顔だ。カンナと同じく、肩まで髪を切り揃えているのが、グレンジャー公爵家らしい。というか、ライトの妹らしい。まあ、僕にはカンナの方が可愛いんだけど。
でも、そのカンナは僕が一番じゃなくて、僕には別の好きな人がいると思っているのに、それでも平気でにこにこ可愛く笑ってて……。あ、駄目だこれ。どんどん落ち込む。
「まあ、王宮ならカンナと二人で話せるだろ。俺と木登りは出来ないけど」
何だそれ。ライトとの木登りが、どれだけ大切なんだよ。
と思いつつも、ライトという友人と遊ぶ時間も捨て難く、幼い日の僕は、それからもしばらく公爵家に遊びに行ってしまった。
***
それから、八年経った今も、カンナが僕に心から振り向いてくれる素振りはなかったけれど、それなりに良好な関係を築いていた。
カンナは僕の顔が好きだ。多分、声変わりしてから、幾分か低くなったこの声も好きだ。
この外見のせいで煩わしい事も少なくなかったけれど、カンナに対してこの外見が武器になるなら、最大限使ってやる。
そうして、惜しみなくカンナに優しく甘く振る舞い、少しずつ距離を縮めてきた。
今は彼女の髪に触れ、頭を撫でる事も出来るし、少しくらいなら肩を抱く事だって出来る。
ちょっとくらい意識してくれているんじゃないかな、と思う瞬間もある。昔みたいにただにこにこ微笑んでいるだけではなく、恥じらうように頬を赤らめてはにかむなんて、これまで見た事がなかった。
でも一方で、カンナの側からエリカの影が消えた訳ではなかった。
僕が公爵家に足を運ぶことがなくなり、代わりにカンナが王宮に通う機会が増え、カンナとエリカの接点は減ったと思う。僕とエリカの接触について言えば皆無だ。
それでも、カンナが未だにエリカと僕が結ばれるべきと考えているという事は、留学したライトの代わりに、僕に情報を流してくれるユリアから聞いている。
どうしたら、カンナがその思い込みの世界から戻って来てくれるんだろう。
エリカがカンナにしてきた事は、洗脳に近いと思う。
抜群に美しい容姿のエリカは、栗毛に青い目という有り触れた色調のカンナを、ずっと「凡庸」だと言い続けていた。
実際のカンナは十分美しい顔立ちをしているし、何より直向きに王子妃教育を受け続け、教養も気品もある。
けれど、幼い頃に絶世の美少女と謳われたエリカから下された「凡庸」という評価は、カンナの胸に深く刻まれ、未だに拭う事が出来ない。
いかに、僕がカンナに「可愛い」とか「好きだ」と言い続けても、届かないのがもどかしい。
しかも、エリカはカンナの口から、僕に婚約解消を言わせようとしている。
嘘がつけない、根がどこかぼんやりしたカンナだから、僕は何とかそれを言葉にさせずに、今まで凌ぐ事が出来ている。
言わされている言葉だとしても、いざカンナの口からそれを聞けば、きっと平常心ではいられない。
僕とエリカは立場は違えど、きっと似たような境遇だった。
年端も行かぬ頃から、その美貌を褒めそやされ、数え切れない美辞麗句に埋もれて育ってきた。
もちろん良い事ばかりではない。妬み嫉みもあれば、貞操の危機という実害を被りそうになった事もある。
僕が救われていたのは、優秀で寛大な兄がいた事だ。お陰で僕は「優れているのは顔だけ」なんて言われたりもしたけれど、平気だった。僕は一生兄を支え、兄の治世を助ける一翼となる。心の底からそう思えた。
エリカがああも自信に満ち溢れていたのは、彼女が一切の危機から守られていたせいかも知れない。
そうして賛辞を受け続け、隣には格上の公爵令嬢でありながら、自分を慕うカンナがいた。エリカは自分への悪意には目を背け、自分を全面的に肯定してくれるカンナに依存しているように見える。
でも、その歪んだ関係は、断ち切らないといけない。
日頃王宮に現れる事が滅多にない、エリカの姿を遠目に眺めつつ、僕は改めて自分に言い聞かせる。
* * *
エリカが王宮にいたのは、父である侯爵と共に、エリカの縁談について話すためだった。
リーズリー侯爵は、エリカと僕が恋仲だと信じている一人だ。あらゆる国内貴族からの縁談を片っ端から断りつつ、「娘には、想い合う殿方と添い遂げてほしいもので」と、含み笑いを浮かべつつ、こちらを窺ってくる。
それが僕だと言わんばかりの視線だが、僕ははっきりとカンナ以外と結婚するつもりはない事を明言している。
ただ、カンナ自身にも言っているのに届かないのだから、リーズリー侯爵親子に伝わらないのも無理はない……。事実、僕とエリカの秘めたる恋、なんていうのを信じている人間も、一定数いるようだった。
「リーズリー侯爵家の妖精姫、ね。俺も縁談を申し込んでみようかな」
そう言い出したのは、隣国から留学してきているレグリスだ。
レグリスは、両国親睦の武術大会を経て、交換留学という形で王宮に住み、騎士団で訓練に参加している。ちなみに我が国からは、身体能力の化物であるライトが隣国に留学中だ。
肩書は辺境伯家の令息であるレグリスが、貴賓として王宮にいるのには、彼の生まれに理由がある。
現在は辺境伯家の養子となっている彼は、元は、国王の側妃が産んだ第一王子だ。しかし、母の実家の没落とともに王宮を追われ、辺境伯家の養子となった。
とはいえ、まだまだ安心出来ない身の上だ。そこで父である国王から内密に頼まれ、留学という形で我が国が保護する事になったのだ。
そんなレグリスの婚約とは。
「ややこしくなるだけだろ。それに、エリカ嬢に君は勿体ない」
「そうかな。十中八九、断ってくると思うけど」
レグリスが元王子である事は、公には伏せられている。
レグリスは、単に辺境伯家との縁談になれば、エリカもリーズリー侯爵も断ると読んでいるのだ。
そして案の定、リーズリー侯爵家は、レグリスとの縁談を断った。
だが、思わぬところで彼に食いついた者がいた。
他ならぬ、カンナだ。
元々カンナは、レグリスに好印象を抱いている様子だった。
それが、カンナからすればレグリスは、エリカと僕の婚約の障害となる存在になったのだ。
エリカに振り向いてもらえないレグリスに同情したらしいカンナは、よりによって、僕にも話す事がなかった、僕達三人の事情、とやらを話して、エリカから手を引いてこのいざこざに巻き込まれないようにした方が良い、と告げたらしい。何だそれは。
でも、レグリスから聞いたその話で、ようやく全て理解が出来た。
そもそも、僕との婚約前から、カンナはいつか別れる仮初の婚約者のつもりだったのだ。道理で、なかなか靡かない訳だ。
そして、そもそもの発端は、あのエリカと最初に会ったお茶会で、彼女をはっきり拒絶出来なかった僕にあった。
あの時、僕がはっきり断っていたら、今が違ったんだろうか? あの時、何て答えれば最善だったのだろうか?
僅かにでも期待を持たせてしまった僕に責任があるのなら、僕がカンナを諦めて、エリカと結婚すれば丸く収まるのか……。
いやいやいやいや。そんな馬鹿な。
仮にそうだとしても、八年も前に正式に、王家と公爵家両者合意の上で婚約は結ばれている訳だし。
その上で、勝手に横槍を入れてきて、特に問題もないのに勝手に婚約を反故にしようなんて、おかしな話だろ。
問題といえば、当事者のカンナがそれを言い出しそうな事だけど。
しかも、僕と婚約解消になればきっと、レグリスはカンナを連れて行ってしまう。今は誰にも気のない素振りをして、噂の妖精姫に粉かけてみようという軽薄っぷりだけど、彼がカンナを憎からず思っているのは明白だ。
カンナだって、今はちょっと素敵だな、と思う程度かも知れないけれど、何の障害もなくなったところでレグリスに求婚されれば、きっと簡単に頷いてしまう。
自分で自分の事を障害とか考えてしまう自分に、嫌気が差す。けれど、そのくらい僕には自信がない。
だから、そんな事態にはならないように、足掻くだけだ。
* * *
レグリスやユリアの情報から察するに、僕達の情報をエリカに流している内通者が、公爵家に潜んでいると僕は踏んだ。
それが誰かなんて、今はいい。むしろそれを逆手に取って、情報を与える事にした。
次の夜会の衣装は青にしようかな、とそれだけだけど。
念には念を入れて、母にも協力してもらってカンナの準備を王宮内でさせ、わざわざ青い上着も用意した。
カンナにも内緒で準備したから、ドレスも髪型も、僕がこんな風にして欲しいって伝えて、カンナの侍女はそれに応えてくれた。
八年前よりもずっと長くなった栗色の髪は、綺麗に編み込まれていて、本当に、本当に可愛かった。
きっと、上手くいく。だからカンナはずっと僕の側にいてくれるはずだ。
けれど、僕はカンナの親友を奪ってしまうかも知れない。この夜会が終わった時、僕達の関係は、仮初の方が良かったと思うくらい変わっているかも知れない。
銀色の衣装で揃えて入場した僕とカンナに、青いドレスを纏ったエリカは、怒りとも驚愕ともつかない表情で固まった。
僕はそれを一瞥しただけで過ぎたが、カンナはずっとエリカから目を逸らせずにいたようだった。
やっぱり揃えてきたか。妙な噂が立っているところに、意味深な揃いの衣装で登場したら、ややこしい事この上ない。
そして、一通り挨拶を終えた頃、エリカに声を掛けられた。
「アルバート様、カンナ、ご機嫌よう」
来た。大体、どうして婚約者のカンナが“殿下”呼びなのに、エリカが僕を名前で呼ぶんだ。
でもまあ良い。それも今日までだ。
青いドレスに翡翠のネックレスを身に着けたエリカが、この夜会で僕の本命の女性の如く振る舞い、それを信じる幾ばくかの周囲の人間の手を借り、僕達の婚約を破綻させようとしていた事は、何となくだが察しがついた。
一部の人間の間で囁かれていた、僕とエリカの噂が、ここ最近大きくなりつつあったし、ユリアからも、数日前エリカが訪ねて来た後から、カンナが何か思い詰めている様子だと聞いている。
「毎度、侍女1人を残して人払いされるから、何を話しているかは分からないのよね。きっとあの侍女がエリカの手の者だわ。お姉様も私なんかが……って言うだけだし」
と話すユリアは、天井裏に忍び込む事も考えたらしいが、侍女長に怪しまれて断念したらしい。……変わってないな、ユリア。
正直、エリカが執着しているのは僕じゃなくて、カンナにだと思う。
こどもの頃はがっちり守られていたエリカも、年頃になり色んな誘惑の全てから身を守る事は出来なかったらしい。守る守らないというよりも、自ら飛び込んで行き、既に彼女の貞操は失われている、と調べがついている。
他人の婚前交渉まで否定するつもりはないけれど、それでも少なくとも王家に妃として嫁ぐ事は出来ない。
僕だけはない、レグリスにだって当然無理だ。これは、互いの父である両国の国王に報告済みだ。
その時点で、カンナを迷わせ、僕たちの婚約に茶々を入れる権利はないのだ。
後は、カンナの呪縛を解くだけだ。
お願いだから、僕を見て、カンナの意志で、僕のもとに来て欲しい。
* * *
あの夜会の後、リーズリー侯爵親子の聴取により、エリカは自分を拒絶する男などいないと思って、本当に僕がカンナよりもエリカを選ぶと思っていたらしいと聞いた。
容姿でちやほやされていても、それだけではずっとは続かない。成長しても、無条件に自分を甘やかしてくれる人間に気を許した結果、次から次へと不特定多数の男と関係を持つ事になってしまった。
父である侯爵は、例の茶会での様子を夫人から聞き、また、カンナを通してエリカと交流があった僕が、本当に密かに思い合っていると信じていたらしい。
エリカの妊娠を知り、僕に責任を取って王子妃として、側妃あるいは愛妾として娶らせようと考えたらしいが、子ができたエリカを連れ、落ち着くまで領地へ行くことになったようだ。
調査結果から、父親と疑わしい男の正体も分かると告げたが、どうせろくな貞操観念の持ち主ではないと、聞こうとはしなかった。
そもそもあの夜会は、兄である王太子夫妻に男の子が生まれた祝いの席でもあった。
その子が立太子するようになるまでは、まだまだ年数を要するが、王位継承権からも遠ざかり、いずれは臣籍降下したいと申し出るつもりでいる。
公爵となる王子に側妃なんておかしいだろ。カンナ一人いれば良い。カンナしかいらない。
あれから、カンナは戸惑いつつも、僕に照れたり恥じらったりして、可愛い顔をたくさん見せてくれている。
「あの……、殿下、ちょっと落ち着かないです……」
「え、そう? 僕はこうしてると落ち着くけど」
カンナを膝の上に横にして抱えて、その頭を撫でたり、茶色い艶々の髪を梳いたり摘んだりしていると、真っ赤な顔で狼狽えるカンナが、降りようともがいているので、離れないようにぎゅっと抱き竦める。
「いやいや。重いだろ」
「カンナは軽いよ」
「重いのはアルバートの方だよ。人前なんだから、もう少し自重しろよ」
「何で来てるの?」
「今から訓練に行くから誘いに来たんだろ」
もうそんな時間か、と舌打ちをしたくなる。
「じゃあ、カンナ嬢、またお会いしましょう」とにっこり笑うレグリスに、今度こそ舌打ちをする。
「余裕がないな、婚約者のくせに」
「別に。そんな事はない」
レグリスは、先日の夜会後、国賓として参加していた弟の王太子と話し、国内の情勢が落ち着くまでしばらくこの国に留まることになった。若い王太子が、その地位を盤石にできるまで、となると先が長そうだ。
「カンナによく似た顔で、ライト・グレンジャー仕込みの勇敢な公爵令嬢がいる」
「ライトが仕込んだ妹君か……。なかなか」
「姉を心配するあまり、天井裏に忍び込もうとするくらいだからな」
カンナに気があるのではないかと疑わしいレグリスに、ユリアを紹介しようとか考えてしまうくらいには、余裕がないかも知れない。
もっとも、ユリアは兄くらい強い人でなければ嫌だ、と縁談を突っぱねているので、レグリスでも諾と言ってくれるかどうか……。
「心配しなくても、邪魔したりしないよ。俺としては、二人がようやくちゃんと婚約者らしくなって、喜ばしいよ」
「あ、そう……」
見透かされたようで、気恥ずかしいな。
そうだ。ようやく。これまでの霞を掴むような手応えのない片想いを抜け、やっとカンナがこっちを見てくれた。
八年経って、やっとちゃんと婚約者になれた。もう余所見はさせないし、大切にする、と八年前と同じ思いを改めて言い聞かせる。
カンナが既に自分に恋をしてくれていたなんて知るのは、もっとずっと後の事。
ありがとうございました。