1 少女たちの約束の王子様
よろしくお願いします。
きらきらと揺れる鮮やかな金髪、その目から溢れんばかりに大きく輝く瞳は琥珀色、透けるように白い肌は化粧など施さなくても薄紅色の頬と唇を際立たせる。
彼女がふわっと微笑むさまは、まるで妖精のよう。
公爵家に生まれながら、地味な見た目にのんびりした性格で、親しい友人も出来ずにいた私に、一つ歳上の彼女は優しく微笑みかけてくれて、「カンナはぼんやりしてるから」とこの手を引いて遊びに連れ出してくれた。
そんな、ずっと憧れてやまない、姉のような幼馴染のエリカ様が私に言う。
「私にアルバート様を譲ってちょうだい」と。
アルバートって誰だっけ? あ、そうだ、アルバート様とは、この王国の第二王子だった。
癖のない黒髪に、切れ長の凛々しい翡翠色の目、体格こそ兄である第一王子に及ばないが、その美貌は九歳にして、美男美女揃いの王家にあって随一だと名高い。
そんな第二王子に、婚約の噂があるのだ。そう、私と。
「カンナはじきアルバート様と婚約するでしょう? でも、アルバート様は私を望んでいると仰っていたの。貴女は病弱そうだから、然るべき時が来たら、体力に自信がないとか適当に言って辞退するのよ。それまでは私達の隠れ蓑として婚約者でいさせてあげるわ」
「えっ? 最初からエリカ様と婚約なさったら良いのでは……」
「一歳下に公爵令嬢のカンナがいるのだもの。王家は侯爵家の私よりも貴女を選ぶに決まっているわ」
エリカ様は相変わらず妖精のお姫様ような笑顔で話す。声は鈴のように可憐で、話し口調も柔らかくおっとりしていて、私はすっかり可愛らしいエリカ様の虜なのだが、今日の話はちょっと分かり辛い。
「えっと、そうなのでしょうか……。すみません」
でも、可愛くておっとりしているけどしっかり者のエリカ様が言うならそうなのだろう。公爵家に生まれてきてごめんなさい。
相思相愛の二人を、公爵家に生まれたばかりに、私が引き裂いてしまうのは忍びない。私は、エリカ様のお願いに頷いた。
* * *
第二王子のアルバート殿下と実際に会ったのは、その二日後の王宮での事。
噂に違わぬ美少年っぷりに驚く。切れ長の大きな目はちょっと怖いけど、こんなに綺麗で格好良い人は初めて見た、と思わずじっと見てしまった。
そんな私の不躾な視線に気付いても、不機嫌な様子なんて微塵も見せず、にこりと笑顔を返してくれる。見た目だけじゃない。良い人だ。それとも王家だから、感情を悟られないように、とか教えられてるのかな……?
そうして私と婚約したアルバート殿下は、実は心の内でエリカ様と想い合っているなんて、おくびにも出さないで、私に優しく振る舞い良き婚約者を演じているようだった。
王子妃教育の授業の後には必ず、私とのお茶の時間を取ってくれて、その間もいつも楽しい話を聞かせてくれる。
最近読んだ本の事、仲が良い第一王子との話、元騎士団長との剣の練習の話、お忍びで城下に遊びに行った話……。アルバート殿下の話はどれも面白く、王子妃教育に明け暮れる日々の癒やしだった。
厳しい元騎士団長に、もっと幼い頃、第一王子と一緒に悪戯したという話に、「そういえば元騎士団長は、父の古くからの友人です」と話すと、「公爵には言わないでね」と罰の悪そうな顔になったのは、不敬にもちょっと可愛かった。
こんな素敵で、賢くて、面白くて、可愛らしいアルバート殿下と想い合っているエリカ様が、ちょっと羨ましい気がした。
そのうち、アルバート殿下は、私の登城予定がない日に、しばしば我が家にも会いに来てくれるようになった。
すると、決まってエリカ様も来た。
「王宮では堂々と会えないでしょう? だから、アルバート様はこうしてカンナに会いに来る振りをして、私と会う事にしたの」
と嬉しそうに話すエリカ様の笑顔を見てはっとした。
そうだった、私は仮初めの婚約者だったと、改めて気付かされた。幸せそうなエリカ様の笑顔は、いつもよりも一層美しい。きっと、殿下と想い想われているという事実が、彼女を美しく輝かせているのだと思った。
実際、私とアルバート殿下とエリカ様とで会うと、殿下とエリカ様の二人で話す時間が多い。
と言っても、まだ幼い私達が会う時には、大抵、兄や妹もやって来て、最初は穏やかにお茶をしていても、最後には庭で走り回っている。
兄も、初めの頃は遠慮していたくせに、アルバート殿下と意外と気が合うと分かると、堂々と最初から同席するようになった。
それにしても、アルバート殿下は大した役者だと思う。
愛するエリカ様が目の前にいても、変わらず私に優しい。私は事情を知っているから、遠慮せずエリカ様と仲良くしてくれて良いって何度か言おうとしたけど、結局、みんなで揉みくちゃになって遊ぶうちに言いそびれた。
まあ、公爵家の手前、エリカ様を露骨に愛でる事も出来ないんだろうな。
でも、ふと気付いた事もある。
いつも優しいアルバート殿下だけど、時折、エリカ様には違う顔を見せるのだ。
エリカ様が思い余って、アルバート殿下の腕に触れたり、抱きつこうとすると、それを制止してエリカ様の耳元で何か囁くのだが、その時の殿下の顔は笑顔だけど意地悪っぽくて、私が見た事がない顔になった。
何となく、いつも王子様スマイルの殿下よりも、そっちの方が彼の素顔に見えた。
ああ、エリカ様にはこんな顔もされるんだ。
大方、私や公爵家の面々の前で、過度に触れ合う事は得策じゃないと、エリカ様を制止したのだろうけど、私がいない別の場所なら、殿下はエリカ様と腕を組んだり抱擁したりするのかと察せられて、分不相応にも落ち込んだ。
絶世の美男美女カップルである、アルバート殿下とエリカ様の、ありふれた隠れ蓑に過ぎない私なんかが、こんな事で落ち込むなんて、隠れ蓑失格だ。
* * *
そうして三年経った頃、やっと気付いた。
私、このままアルバート殿下とエリカ様の隠れ蓑になってて、いざ適齢期になった時に婚約解消なんて事になったら、その後の人生、碌な事ないんじゃないか、という事に。
アルバート殿下に悪い評判など、微塵もない。
三年経った今も、絶世の美少年っぷりは健在だ。声変わりしたせいで凛々しさが増し、むしろ以前よりも女性人気が高まった気がする。
一方で、その婚約者である私といえば、相変わらずの凡庸っぷり。身分だけは平凡ならざる公爵令嬢なので、表立って軽蔑されることはないし、どちらかといえば社交辞令で「アルバート殿下とカンナ様はお似合いですね」なんて言われたりする。
そんな訳ないでしょうよ……。あ、主従っぽい感じでお似合いなのかな。
そして、もう一人の超絶美貌の持ち主である、エリカ様も順調に美しく成長されている。
アルバート殿下と二人が並ぶ姿なんて、美しすぎて溜息が漏れてしまう。まるで一枚の絵のよう……、という雰囲気ではなかったが。
アルバート殿下と一緒の時のエリカ様は、喜びと幸福感が隠しきれない様子で、本当に可愛い。アルバート殿下も、エリカ様の前では、色んな表情をされて、活き活きしている二人は絵よりも尊いと思う。
そんな状態で、もう数年したら私は、病弱を理由に婚約辞退を申し出るのだ。
王子妃候補になりながら、病弱で使い物にならないかも知れない公爵令嬢なんて、扱いにくい事この上ない。傷物のくせに、安く扱う事も出来ないのだ。
嫁ぎ先なんて、そう簡単に見つからないかも知れない。
その頃から、私は婚約解消後の自分の身の振り方について、真剣に考えるようになった。
* * *
そしてまた、時は流れて五年。
私は十六歳、アルバート殿下とエリカ様は十七歳になった今も、私達の関係性はそう変わっていなかった。
アルバート殿下は、いつだって私に優しい。ただ、たとえ仮でも婚約者を八年続けているからか、以前よりもずっと、そのよく出来上がった王子様スマイルの中にも、親しみが感じられるようになってきた。
「カンナ、今日はカンナが好きなチーズケーキを作ってもらったよ」
あと、アルバート殿下は私の名を呼び捨てするようになった。殿下はそう言ってにっこり笑いながら、私にソファの隣に座るように促す。
チーズケーキだ。テーブルの上に、二つ並んで出されたチーズケーキの皿に、思わず目を奪われる。王宮のチーズケーキは、その固さも焼き加減も絶妙なのだ。仄かに香ってくるレモンの風味がまた良い!
「ははっ、本当にカンナはチーズケーキが好きだよね。僕のも食べる?」
隣でアルバート殿下が吹き出す。そして、自分のチーズケーキを一口分乗せたフォークを「はいどうぞ」と私の方に差し出す。
「……いえ、食べませんよ!」
「なんだ、残念」
そう言って、私の頭を撫でる殿下との距離は、間に人一人分もない。この八年で、物理的な距離は近付いた気がする。
今日は、いつもの王子妃教育で王宮に来ている。ここ最近、授業後のお茶の時間も、アルバート殿下の私室や執務室で過ごしている。今日は、殿下の休日らしく、私室に招かれている。
二年程前から、王宮に通う日が増えた。
そして私の王子妃教育は、より具体的な王国の政治や王宮の運営に関わる講義が増え、これはちょっとまずいと焦っている。あまり王室内部の事を知り過ぎてしまうと、穏便な婚約解消が出来ないかも知れない。最悪の場合、無事婚約解消出来たとて、一生王室の監視下に置かれるか、命の保証もないかも知れない。
私が王宮に通う頻度が高くなるに連れ、アルバート殿下が我が家を訪ねてくる事は少なくなった。
昨年、兄が隣国に留学してからは皆無と言っていい。もしかして、殿下は私やエリカ様よりも兄に会いに来ていた?
エリカ様は、今も誰とも婚約していない。
高位貴族の令嬢となれば、十代前半で婚約している者がほとんどだ。世間では、あれだけ美しく育ったエリカ様の事だ、きっとエリカ様の父であるリーズリー侯爵は、より良い縁談を結ぶべく吟味しているのだと言われている。
実は、エリカ様本人には、そろそろ婚約解消に向けて動いてほしいと言われている。
国内の年頃の貴族令息は、これまで名だたる方々が縁談を申し込んでも、リーズリー侯爵という壁の高さに玉砕しているのを知っている。
だがそこに、隣国の王室経由で、隣国の辺境伯嫡男との縁談がやって来た。両国間は、近年目立った諍いもなく落ち着いているが、その関係性を確固たるものにしようという意図があるらしい。侯爵令嬢とはいえ、国内外に絶世の美女と名高いエリカ様に、その白羽の矢が立ったのだ。
しかしそれは、幼少期から一途に想い続ける方がいるエリカ様には、とてもではないが耐えられない事だった。
「こういう場合、普通は王族と婚姻を結ぶものではなくて……? 辺境伯だなんて。きっと田舎者の野蛮な方だわ。しかももうアルバート様に簡単に会えなくなってしまうなんて、絶対に嫌よ……。カンナ……、もうそろそろ頃合いだわ。婚約解消に向けて動いてちょうだい」
王命ともいえる縁談を、断る事なんて出来るのかな。
でも、エリカ様の宝石のような水色の目から、はらはらと涙が流れるのを見ていたら、エリカ様を何とかして助けてあげたくなった。
「カンナ、どうしたの? 表情が優れないみたいだね。どこか体調が悪いかな?」
ふと、どうやって婚約者を辞退したいって言おうかと思っていると、私の顔を覗き込むアルバート殿下と目があった。
あ。これチャンスかも……。
「いえ、最近急に疲れやすくなったというか、体調もいまいちで……。あの……」
「やっぱり。様子がおかしいと思ったんだ。そうだ、紅茶を淹れ直してあげよう」
そう言うと殿下は立ち上がって、侍女に何やら指示すると、自分で茶葉を選んでポットにセットする。え、そんな。第二王子にお茶を淹れさせるなんて。
そこに戻ってきた侍女から渡された何かをティーカップに入れ紅茶を注ぐと、それを自ら私の前に置く。そして、またあのきらきらと美しい笑顔で、
「疲れた時には、香りのいい紅茶が効くよ。あと蜂蜜と果物も良いんだ。僕はこうして乾燥させた果物をいくつか執務室に置いて、忙しい時に摘むんだ」
「そうなのですね……。ありがとうございます……」
殿下の言葉を受けて紅茶を鼻に近づけると、紅茶がふわっと香ってきて、ほっとするような、肩から力が抜けるような……。ああ、癒やされるかも、これ。
一口飲むと、蜂蜜の優しい甘さにまた癒やされて、殿下が蓋を開けて差し出す小瓶の中の、乾燥させた杏を一ついただく。美味しい……。
そうして、お土産にといくつかのドライフルーツを持たされて帰宅すると、はっとまた今日も婚約解消を言い出せなかった事を思い出す。
エリカ様に、そろそろ頃合いと言われてからというもの、幾度となく婚約解消を切り出そうとするのだが、その前振りの段階で、あっさりと躱されてしまい、未だに婚約解消のこの字も言い出せていない。
体力がないと話せば、一緒に体力づくりをしようと騎士団の訓練に連れて行かれ、簡単な運動を教えてくれた。体を動かすのは、案外楽しくて、それから時々通っている。
王子妃教育が難しいと言えば、何故か王妃様と一緒にお茶をすることになり、「カンナはよく頑張っているわ。私なんてこどもの頃は何度も授業から脱走して……、それでもこうして王妃だもの」と励まされた。今でこそ賢妃と言われる王妃様も、五歳かそこらの頃は随分お転婆だったらしい。ちょっと親近感を感じてしまう。
何故か、こうして着々とアルバート殿下の周囲と親交を深めつつある。
ああ、これじゃいけないのに。だから私はいつまでも凡庸だって言われるのだ。
ある日、エリカ様を王宮で見かけた。
思い掛けない所で会ったので、つい嬉しくて声を掛けようと近付いて行った所で気が付いた。
私とは離れた所から、エリカ様をじっと見つめるアルバート殿下の姿に。
何か思い詰めたように、真剣な眼差しをエリカ様に向けるアルバート殿下の顔を目の当たりにして、改めて思った。
早く、私が婚約者の座から下りないと。
* * *
それにしても、エリカ様が田舎者呼ばわりした、隣国の辺境伯嫡男であるレグリス様は、決してエリカ様が言うように野暮ったくも野蛮でもない。
「お、カンナ嬢。こんにちは」
「ご機嫌よう、レグリス様」
彼は、一年前から留学生として王宮に滞在しており、同じ年のアルバート殿下とも親しいため、自動的に私とも交流をもつようになっていた。
「……その様子だと、今日も失敗したみたいだね」
レグリス様は、私が抱えた本を見てふっと笑う。
隣国では王家を始め貴族にも多く見られる赤髪のレグリス様は、アルバート様とは違った魅力の容姿端麗な美青年だ。武力を誇る辺境伯家の嫡男だけあって、よく鍛えられた体躯とその容姿で、王宮で働く女性達に一躍人気となった。
エリカ様は、レグリス様を知らないのかも知れない。
実際のレグリス様を見たら、エリカ様の気も変わるのではないか。
いや、そんな事はない。レグリス様云々ではなく、エリカ様はアルバート殿下を愛しているから、レグリス様との婚約から逃げているのだから。
レグリス様は、私達の事情を知っている。
エリカ様との縁談が進まないので、エリカ様と私が親しいと知ったレグリス様が、エリカ様について聞いてきたのだ。
私達の事情に巻き込まれて、レグリス様に不利益があってはならない、とこっそり教えてしまった。
「今日は、何て言ったらそんな本を持たされたの?」
「外国語が苦手だと。殿下の妻となる者が、諸国の言葉も分からぬようでは勤まらないと言ったら、各国の小説を貸して下さりました。面白い物語だと読みやすいよ、と……」
「はは、もう諦めたらいいのに。カンナ嬢ではアルバートには勝てないよ」
「でも、そんな訳には……」
私の手には、この王国と隣接する三か国それぞれで人気だという小説がある。レグリス様に促されてそれらを見せていると、レグリス様はそのうちの一冊を手に取る。
「カンナ嬢は外国語だって堪能でしょう?」
「いえ、それ程では……」
「この小説は妹も読んでいたよ。随分人気らしい」
「……そうなのですね」
レグリス様が手に取ったのは、レグリス様の国で流行りの冒険小説だ。わりとこども向けの話なので、アルバート殿下が読んでいたとは意外だった。
レグリス様は私と一つしか違わないというのに、落ち着いていて大人びて見える。私よりも遥かに、アルバート殿下と比べても少々背が高いせいかも知れない。
私達の事情を打ち明けた時も、少し驚いたように目を見開いたくらいで、何も動じる様子もなかった。もしかしたら、馬鹿にするなと激昂される可能性も考えていたのに、彼は「へえ、そうなんだ」と呟いて、「とりあえず父には静観するよう伝えておくので、また進捗状況を教えて下さいね」と微笑むだけだった。
彼は、自分の婚約についてどう思っているのだろう?
自分とは関係のない事情で待たされて、決して良い気分なはずがない。
いっその事、アルバート殿下とエリカ様がちゃんと結ばれた後は、私をエリカ様の代わりにもらってもらえないだろうか……。
なんて、到底叶わない話だ。エリカ様を望む辺境伯家が、私なんかで許せるはずがない。都合の良すぎる話だ。
そんな事を妄想しては打ち消しているうちに、私はレグリス様をじっと見つめるようになっていたらしい。
レグリス様は、一瞬たじろいだようにも見えたが、すぐにふっと優しい微笑みを見せ、「どうかした?」と聞いてきた。それで、はっと私は目を落とす。
「何となく、考えている事も分かるけれど、滅多な事は口にしない方が良いよ。特に王宮ではね」
そうだ。私は今はまだれっきとした第二王子の婚約者。
私が変な事を口にすれば、私だけではなく、アルバート殿下やレグリス様の名誉まで傷つけてしまう。
この将来有望な、素敵なお方のためにも、早く決着をつけなければ。
* * *
「カンナ。貴女、まさかアルバート様との婚約が惜しくなったのではなくて?」
そろそろ頃合い、とエリカ様に言われてから半年が経っても、何も事態が変わらなければ、当然、エリカ様も私に不信感を持つ。
最近は何かと忙しく、エリカ様と会う機会もめっきり少なくなっていた。今日も、特に約束をしていた訳ではないのだが、偶々、用事から帰宅したところにエリカ様が訪れ、久々に顔を合わせている。
相変わらず美しい。妖精に例えられる清らかで可憐なな美貌でありながら、ふとした瞬間に大人の女性の色香を漂わせる、妖艶さすら感じさせる魅惑的な美しさだ。
そのエリカ様が、潤んだ瞳を私に向け、不安げに声を震わせている。私は途端に、彼女に応える事が出来てない不甲斐ない自分に、激しい罪悪感を覚える。
「貴女が、本当にアルバート様を慕っているのなら、良いのよ……。公爵家の貴女と結ばれる方が、アルバート様の将来のためには良いもの……。でも彼は……」
「そんな、私は……」
そうだ。アルバート殿下が私に優しくしてくれるのは、婚約者だから。そしてその婚約は、王家と我が公爵家との間に結ばれた、政略的な婚約。
本当に、彼が想うエリカ様と添い遂げるのが、二人の幸せなのだ。
公爵家の後ろ盾が必要なら、それは心配ないと伝えないと。殿下と友人でもある兄は、きっと殿下を支持すると。
「でも、いつまでも婚約者の地位にしがみついているのは、アルバート様が好きだからでしょう?」
いえ、それは私がぽんこつだから。いつも一枚も二枚も上手な殿下に、婚約解消なんて話のきっかけすら躱されているからですよ。
……でも。
本当にそれだけなのかな。私は、エリカ様が言うように、アルバート殿下をお慕いしているのかな。
いつだって王子様として完璧な笑顔で、でも顔だけと言われるのが本当は嫌で、実は必死で努力も重ねていて。
兄である王太子殿下の事も大切にされていて、第二王子として出しゃばり過ぎる事もなく補佐をされて、騎士団での訓練も怠ることがなく、いざという時には前に立ち堂々と指揮も取れる。
……うん。立派過ぎるわ。私にはもったいない。
「私のような、爵位だけの平凡な者には、殿下の隣に留まり続けるなんて、烏滸がましい事ですわ……」
「……そう。それなら良いわ」
エリカ様は、そろそろ待ち続けるのも限界なのではないかと思った。あんな風に声を震わせて、余裕をなくして、私に縋りつくように目を潤ませて。どれだけ思い詰めているのだろうと思うと、胸が締め付けられるようだ。
* * *
「カンナ。明日の夜会では、僕の側を離れないでね」
「え。はい……?」
ある日の事、いつものように王宮での授業の後のお茶の席でアルバート殿下は、いつもの笑顔を隠して、真剣な表情でそう言った。
何故だろう。いつもだって、大体側にいる事が多いというのに。
「分かってる? 片時も離れないで、って言ったんだよ」
「え。でも、お化粧直しとか……」
「ついて行く」
「え?」
トイレの前までついて来ると言うとは。いよいよどういう事なのか、訳が分からない。
まるで、誰かに命でも狙われているのか……、とまで考えてはっとした。
アルバート殿下と兄である王太子殿下は、仲が良い兄弟で、アルバート殿下は王位継承には興味がなく、兄を補佐するつもりでいる。
しかし、中には彼を担ぎ上げ、現在の体制を変えんと企む一派があるとは聞いている。そういう連中からすれば、保守派の筆頭である父の娘である私が婚約者である事は不都合だ。また、王太子殿下を何が何でも守ろうとする者の中には、いっそ対抗馬となりうるアルバート殿下を亡き者に、と謀る者がいても不思議ではない。
私も、殿下を守らなければ!
「分かりました。必ずや、殿下の事をお守りいたしますね」
「え? いや……、まあいいか。うん、よろしくね」
そうしてやって来た翌日の夜会は、隣国から王太子殿下も出席される大規模なもので、国内の貴族はほぼ全て出席する。
エリカ様も、きっと出席される。着飾ったエリカ様は、きっと、この会場一美しいだろうな。
いつもなら、公爵家で準備をして、アルバート殿下の迎えがあって王宮に上がるのだが、今日は、どうしても朝のうちに王妃様が私に用事があるとの事で、朝から王宮にいる。
ついでにそのまま王宮で準備をしたら良いと、侍女もついて来て、王宮の一室を借りて着付けや化粧もしてもらった。
「カンナ、綺麗だね。ドレスもよく似合ってる」
あ、エリカ様と一番を競う美しさを持つ人がここにもいた。
綺麗だね、と私に微笑むその人こそ、他の誰より美しい。
青い正装に身を包み、私を迎えに来たアルバート殿下は、いつも以上に王子様らしさ全開で、もういっそ攻撃的なくらいに眩しい。
私はといえば、殿下から贈られたという銀色のドレスに、髪は編み込んでサイドに垂らし真珠を散りばめている。いつものまとめ髪と違って、自分としては新鮮な気持ちになるけれど、殿下にしてみれば取るに足らない違いかも知れない。
「じゃあ、行こうか」
そう促されて、会場まで移動する。人並みの中に、エリカ様の後ろ姿が見えた気がした。私の背ではちゃんと見えないけれど、殿下も同じ方向を見ていた。エリカ様の背を、真剣な眼差しで見送っていた、気がした。
「カンナ、このネックレスも似合ってるけど、今日はこれを着けて」
会場に入る直前に、アルバート殿下はポケットから大きな翡翠のネックレスを出し、私に着けるよう後ろの侍女に指示を出す。
そうして私のネックレスを着け替えている横で、自分は侍従に指示を出し、上着を着替える。
ああ、そう言えば、正装だというのに何故上下で色が合っていないのかと思っていた。それはそれでお洒落にも見えていたから、大して気にしていなかったけれど、上下の色が揃ってやっとしっくり来た。
理由が分からず、殿下のその一連の動きを眺めていたけれど、呆気に取られる私に、殿下はにっと笑ってみせ、「行くよ」と手を差し出す。
アルバート殿下のエスコートで会場入りすると、大きな拍手で迎えられる。
けれど私は、その中でただ一人、顔を強張らせて固まる彼女に、私の視線は縫い止められるように、目を動かせずにいた。
王太子殿下と妃殿下、国王陛下と王妃殿下が入場し、夜会が始まる。
挨拶に伺ったり、挨拶を受けたり、私はアルバート殿下の言う通り、片時も離れずに殿下について回った。と言うより、殿下が私の手を握って片時も離さない。
隣国の王太子殿下にも、挨拶をさせていただいた。
レグリス様とよく似た赤髪と、若草色の瞳。レグリス様と比べると、柔和な雰囲気で、年も私の一歳下の十五歳とあって、少し幼く見える。
あ、隣国の知り合いなんて少ないから、つい、ちょっとだけ似ているレグリス様と比べてしまった。
アルバート殿下も初対面らしく、「初めてお目にかかります」と丁寧に挨拶を交わしている。
そんな風に殿下が数多の人々と挨拶を交わす傍らで私は、誰かアルバート殿下を狙う怪しい視線がないか、様子を窺ったりもした。
「まるで、誰かを狙う刺客のようだね」
そんな事をしていたら、どうやら私の方が怪しく見えたらしい。
「そんなに怪しかったですか?」
「いや、俺は事情を知っていたから、ついそう見えてしまっただけで、他には怪しまれていないと思うよ」
私を怪しいと笑いに来たのは、レグリス様だった。
いつもは騎士服のレグリス様も、今日は正装をして、髪を後ろに撫でつけている。
依然、私の手を握ったままのアルバート殿下は、そんな彼を誂うように挑発的な笑みを向ける。
「そんなご機嫌な顔して、王家主催の夜会で僕より先にカンナに声を掛けるなんて、良い度胸だね」
「うわ、怖。悪かったよ。もう堅苦しい挨拶は疲れてさ、アルバートとカンナ嬢の前くらい、気楽でいさせてよ」
「ふーん、まあいいよ」
アルバート殿下とレグリス様は、気のおけない間柄だ。そんなアルバート殿下と並んで、私まで友人扱いしてもらえるなんて、光栄だ。緊張で張り詰めていた心が、ちょっとほっと和らぐ。
「さっきから見てると随分、苛々しているみたいだ」
「この夜会は、兄上の祝いの席でもあるからな。ぶち壊されないと良いが」
まあ、無理かな、とアルバート殿下は、聞こえるか聞こえないか分からないくらいの小声で呟く。
レグリス様の言う、苛々しているのはアルバート殿下……? と考えて、私はすぐにもう一人の不穏な気分でいるだろう人を思い出す。
こんな風に、一見仲睦まじく手を繋いで歩く私達を、きっと彼女は、身を斬られるような辛い思いで見ている……。
「アルバート様、カンナ、ご機嫌よう」
不意に声を掛けられ、弾かれたように振り向く。
思った以上に近くにいるエリカ様に驚き、目を見張る。
エリカ様は、「妖精姫」という自身のイメージもあって、いつもは淡い色のドレスを着る事が多い。
こんなに鮮やかな青色のドレスは初めて見るが、美人は何を着ても似合う。思わず、感嘆の息が漏れてしまう。
「エリカ様、ご機嫌よう。青いドレスは初めて見ますけれど、とてもお綺麗ですわ」
「ふふ、ありがとうカンナ」
それにしても青。青といえば、会場入り直前までアルバート様も……。
あ、さすがに会場内でお揃いは人目があって出来ないけれど、せめて会場の外までは、という……?
「何考えているか大体読めるけど、違うからね」
痛い痛い。アルバート殿下に、ぎゅっと強く手を握られて、思わずその顔を仰げば、殿下のいつもの王子様スマイルの中には、僅かに険がある。
え。いつもとちょっと雰囲気が違う。
「カンナのドレスも綺麗だわ。さすが公爵家ね」
「あ……」
「カンナのドレスは僕が見立てて、僕が贈ったものだよ」
「……そう。アクセサリーも素敵ね。アルバート様の瞳の色と同じね」
そう言いながら、エリカ様は自分の胸元に手をやる。彼女の首にも、大きな翡翠のネックレスがかかっている。
アルバート様の瞳の色と同じ、翡翠の、
「ほらまた。あれは僕が贈った訳じゃないから」
いたたたた。アルバート殿下の手に、再び強い力が籠もる。
どういう事? エリカ様のネックレスは、アルバート殿下の瞳に合わせて、殿下が贈ったものではないの?
「今日は、私に優しくして下さらないのね、アルバート様。王宮で多くの人目があるからかしら?」
「僕が君に優しかった事など、一度もないつもりだけどね」
「そんな事を仰って。カンナの前だから カンナも貴方様が私を愛している事を承知ですわ」
「うわぁ……」
その声はアルバート殿下の向こうにいるレグリス様から漏れたものだが、隣のアルバート殿下の周りの空気が一気に冷めて、殿下が一歩後退りしたのが分かった。
周囲の人達にも、私達の遣り取りが聞こえているらしく、エリカ様の言葉に、少々ざわめく。「第二王子殿下は実はリーズリー侯爵令嬢を寵愛されているって噂、本当だったの?」という声が聞こえてきた。
やっぱり、こんなにも長い間人々の目から隠し切れるものではなかったのか。きっと知る人ぞ知る、公然の秘密だったのだ。
そんな中、
「婉曲な言い回しを上手く利用されたのかと思っていたけど、まさか本気でそう思っているのかな……」
というアルバート殿下の小さな呟きに、私はふと違和感を覚える。どういう意味?
「……僕は、婚約者一筋です。僕が貴女を愛しているなんて事実、どこにもありませんよ」
アルバート殿下は、エリカ様の方に向き直ると、淡々と、感情の籠もらない平坦な口調でそう言った。決して大きな声ではないけれど、静かにざわめく聴衆にも届くくらいのよく通る声で。
「酷いわ。昔から、いつだって私を優先して大切にして下さったではありませんの。カンナよりも私の話を楽しそうに聞いて下さって」
エリカ様は、真顔のアルバート殿下に一瞬表情を強張らせたものの、すぐにいつもの可憐な微笑に悲しみを滲ませて、一粒の涙を零す。
エリカ様が悲しんでいる。こんなにも綺麗な涙を流して、所在なさげに華奢な肩を震わせて。
アルバート殿下が表向きには婚約者の私の前で、堂々とエリカ様を守る事が出来ないなら、私が彼女を守らないと。そう思って、咄嗟にエリカ様に向けて手を伸ばしかける。
でも、その私を、ぐっと手を引く形でアルバート殿下が引き止める。
「言ったよね、片時も離れないでって」
「え、でも……、エリカ様が……」
「例外なんてないから」
非情にも聞こえるアルバート様の制止に動けず、でもエリカ様が気になっておろおろする私に、更にアルバート殿下が言う。
「大体、何の話? 僕がカンナよりもあの人を優先して楽しそうにって」
「えっ。殿下が公爵家にお忍びでエリカ様に会いに来られて、お二人で楽しそうに過ごされていたではありませんか」
「公爵家に……。ああ。毎回何故かいて、カンナとの話によく割り込んできてたよね。カンナより優先っていうか、あの人が割り込んできたら、カンナがすぐに引いてしまうから」
「え……」
何? どういう事? ていうか、あの人って。
「殿下は、ずっとエリカ様と想い合って、親交を深めて来られたのでは?」
「僕が? 全然。公務と授業と訓練以外で、カンナ以外に割く時間なんて僕にはないよ」
「え……?」
「君と婚約して八年間、ずっとね」
「えっ、それは……?」
エリカ様は、私とアルバート殿下が顔を合わせる以前から、お互い想い合っていて、私は二人が愛を育む間の隠れ蓑で、私と殿下はいずれ婚約を解消して別れる決まりで……。
ああ、もうよく分からない。
「僕は、君がそれを信じられないくらい、君に誠意がない男だったかな?」
いや。断じて、そんな事はない。
アルバート殿下はいつだって優しくて、私を労ってくれて、大切にしてくれた。でも。
「でも……、私のような凡庸な者が、アルバート殿下に釣り合うとは……。身分だけで王家に嫁ぐなんて……」
私には、エリカ様のように万人引き付ける美貌も、卓越した何かがある訳でもない。
平凡な外見に、人並みの能力に、高い爵位があるだけだ。
そんな私に、アルバート殿下が悲しげな目を向ける。
「凡庸とか、そんな事は考えた事ないな。カンナは十分美しいし、王子妃教育も頑張ってくれて、未来の王子妃としては十分過ぎるくらいだ」
「そんな……」
そんなはずは……。
「僕は、折に触れてカンナにそう伝えてきたつもりだけど、君には全然届いていなかった?」
「そんな事は……」
あるかも知れない。ずっと、婚約者としての義務だと、気を遣ってお世辞を言ってくれているのだと、そう思っていたかも知れない。
「だとしたら、それは何故? 誰が君にそんな事を思わせたの?」
誰がって、別に誰も。だって、エリカ様が。こんなにも美しくて、可愛らしいのにしっかり者で、完璧なエリカ様がそう、
「言っておくけど、そこのエリカ嬢よりも、カンナの方が余程美しいし、優秀だからね」
「…………」
「何ですって……?」
必死で頭の中を整理しようとする私に、畳み掛けるように言葉を被せてくるアルバート殿下に、怪訝な反応を返したのはエリカ様だった。
「美しさなんて、造作の良し悪しだけじゃない。カンナの人柄も品性も、カンナを美しく見せていると思うよ」
エリカ様を顧みることなく、噛んで含めるように私にそう言い聞かせるアルバート様は、私を優しい目で見ている。
そして、にっこり笑うと、
「もっとも、僕は最初から可愛いと思っていたけどね。多少ぼんやりしてるけれど、それもカンナの愛嬌だよね」
と言うので、思わず恥ずかしくなって目を伏せてしまう。
「カンナは、本当に僕から離れて平気? 心から僕とエリカ嬢を祝福できるの?」
それはもちろん……。だって、今までずっとそのために……。
でも。いつか彼の隣に立つだろうエリカ様が、ちょっと羨ましくて。今、私に向けられるあの笑顔がなくなってしまって、私の手に髪に触れるその手が、誰かを愛おしそうに触れるようになって……。それを考えるのは、何だか、寂しい。寂しいし、何だか苦しい。
「私のどこが、カンナよりも劣っていると言うのよ。酷いわ……、アルバート様。あんなにも君が一番美しいって、身も心も愛して下さったのに……」
エリカ様の声にはっとする。
怒っても、エリカ様は美しい。でも、いつも優しいエリカ様を怒らせてしまった。その事実に、私の心はどうしようもなく、きりきりと締め付けられる。
そんな私にアルバート殿下は、「大丈夫。君が怒らせたんじゃない。僕が怒らせたんだから、君は悪くない」と囁く。その声で、少しだけ息が楽になる。
けれど周囲は、そんな事よりもエリカ様が発した言葉の内容に、より一層ざわついていた。
身も心も愛したとは一体。
「いかにアルバート殿下が婚約者殿第一とといえども、我が娘を傷物にされたと合っては、私も黙ってはおれませんな」
「リーズリー侯爵。……なるほど」
人垣の中から、エリカ様の父親であるリーズリー侯爵が現れ、エリカ様に寄り添う。エリカ様も「お父様……」と涙を溢しながら、侯爵に凭れ掛かる。
「まさかアルバート殿下が……」「いや相手がエリカ・リーズリー嬢なら……」と、二人について囁くざわめきに耳を傾け、アルバート殿下が小さく溜息をつく。
常日頃から、不快な感情なんて人に見せることがないアルバート殿下が、不機嫌を隠そうともせず顔を顰めた。
やがて、その美しい口を開く。
「残念です、侯爵。僕は貴方が思う以上に、違う意味でご令嬢に興味がありましたよ。なので、エリカ嬢のお相手が誰かも、何人いるのかも知っています」
不愉快そうに、けれど口元だけには笑みを浮かべて、ぞっとするような美しくも威圧的な目で、アルバート殿下はリーズリー侯爵とエリカ様を射抜く。
「なっ、何を……」
「まあ当然、侯爵もご存知でしょうね。既に関係が切れた者も含めれば、その数は片手では足りない」
「何だと!?」
狼狽えて、激昂しかけた侯爵は、殿下が続けた言葉に色を失い、隣に立つ娘のエリカ様を振り向く。
周囲の人達も、「えっ、どういう事?」「まあ……」とそれぞれが驚嘆の声を上げている。
アルバート殿下は「何だ。やっぱり知らなかったのか」とつまらなさそうに呟く。
私もよく分からず、どういう事、ときょろきょろと辺りを見回せば、「知らなくて良い」と、首を横に振るレグリス様と目が合った。
「エリカ嬢がこの場でこんな無謀な手に出たという事は、子でも出来ましたか? 本当に、ご令嬢の言う、僕のエリカ嬢への懸想を信じましたか? いずれにせよ、事実無根です。後で王室による調査結果をお見せしましょう。疑わしきを晴らせなければ、何とかなると思っていたなら浅慮でしたね」
* * *
夜会が始まってから、エリカ様とリーズリー侯爵が事情聴取にと連行されるまで、ずっとアルバート殿下に握られていた右手を見る。
ずっと握られていたからか、左手にはない温度と湿度と上手く力を込められない脱力感と。色んな複雑な感覚が残っているような気がする。
「お疲れ様、カンナ。これどうぞ、さっぱりするよ」
控室に戻ってきたアルバート殿下から、薄荷水の入ったグラスを差し出され受け取る。
襟元を緩めた殿下は、はーっと大きな息をつく。「気を抜きすぎだろ」と、一緒に並ぶレグリス様に小突かれている。
「エリカ様は……」
「気になる? 体調の事もあるから、今日は客間で休んでもらってるよ。監視付きだけど」
「……そうですか」
まるで何でもない事のように言う。アルバート殿下にとって、エリカ様の事が他人事のようだ。
「何? まだ僕とエリカ・リーズリーの事が気になる?」
殿下を見ながら、物言いたげな顔になっていたかな。慌てて首を振る。
「まあ、信じて欲しいとしか言いようがないね。ただ、僕としては、あの人と疑われるのは嫌だけど。昔から苦手だし」
「え。そうなのですか?」
意外だ。エリカ様が嫌いな人なんていないと思っていた。
「そうだよ。だから、公爵家に行ってもなるべく皆でいるようにして。いっそ行くのを辞めようかとも思ったけど、君には会いたいし」
「そうだったのですね……」
「そうやって、カンナがエリカ嬢を全面的に受け入れてるから、エリカ嬢は君に執着したんだろうね……」
執着か。思えば、エリカ様が一番で、と私こそ彼女に執着していたのかも知れない。誰よりも彼女に、何よりも美しい妖精姫を強要してしまったのかも知れない。
こんなに視野の狭い私が、このまま王子妃に……。
「……何か、また後ろ向きな事考えてる?」
「いいんじゃない? アルバートの妃が重荷なら、辺境伯の妻という道もあるよ。カンナ嬢の副業のためにも、その方が都合が良いだろ?」
「…………」
さらりと爆弾発言を突っ込んできたレグリス様に、開いた口が塞がらない。爆弾は辺境伯の妻じゃない。私の副業だ。
「どうせ、エリカ嬢の目論見通りになっていたら、国外に出て作家として自立しようと思ってた、とかそんなところかな」
「何故。何故知って……」
十一歳で、婚約解消後の私に明るい未来はないと悟ってから、何か道を探さないとと思っていた。どこかで、何からも逃げ出したくなって、小説の世界に没頭した。いよいよ時期が近付いた、と思った時、それを出版社に送ってみた。どうせなら、第二の人生は知らない所が良いと、隣国を選んだ。
「カンナ嬢、隣国の誰を頼って出版社に持ち込んだの? 留学中のライトは君の兄だけど、公爵家の跡取りでアルバートの味方だよ」
「えっ、アルバート殿下も……!?」
はっと思い出す。殿下から借りた冒険小説。こども向けの話だから、もう殿下は読まないと思っていた。けれど、私が書いたその小説を、殿下の手から借りたという事は、きっと私が書いたものと知って読んでいたという事……。あれは、全て知っているって牽制だった?
ああ、こどもの頃から兄とアルバート殿下は仲が良かった、よく二人で木に登って……、とかどうでも良い事まで思い出される。
「何とか引き止めたのに、レグリスなんかに譲る訳ないだろ。君は国に帰ったら、カンナと出版社の中継でもしていたら良い」
アルバート殿下は、ソファの私にくっつきそうなくらい近くに腰を下ろすとそのまま、頭の先から爪先まで恥ずかしくて真っ赤になって固まる私を抱き竦める。
「立場も弁えた上で目一杯、好意を示したつもりだったけど、全然届いていなかったみたいだから。これからは遠慮なんてしないって決めたから」
アルバート殿下はそう言いながら、私の頭を自分の胸に押し当て、自分の顔は私の上に埋める。近い。これまでになく近い。
「あの、お手柔らかに……」
「どうしようかな。もう八年ものんびりしてたから」
「…………」
そういえば、夜会中私の手を握っていた手は、優しかったかと思うと、時に不安げに力が込められたり、震えていた気がする。
ともすれば、アルバート殿下を置いて、エリカ様に駆け寄っていきそうな私を、切実な思いを込めて引き止めたのもその手だった。私は、知らず知らずのうちに、彼を不安にさせていたのかも知れない。
それで、夜会中片時も離れない、とそんな約束を。
「ずっと、片時も離れずに側にいてくれるなら、それで良いよ」
そして、一生離れない、そんな約束に形を変えて。
もう、躊躇わずに彼を好きだと思って良いのだと、慣れない想いに戸惑いながら、この先のことを思った。




