チラシの裏 補足(いじめ問題の難しさ)
字下げ(段落)つけただけの更新です。2024.1.25.
加害側だけ悪いって言ってるんじゃないよ〜!
と、投稿したあとに思いつく。
相性の悪い環境から離れるのが一番。でも離れられない事情とかあるなら、被害を感じている側が「大したことはされてないのになんで……」なんて自分を責める必要はないって意味でした。
相性の問題なのよ、善悪ではなくて。
だって人間みんな、いいところとだめなところがあるじゃない? それを全部他人がジャッジしていたら、『正しい』人なんていないのよ。人類のすべての罪を背負って磔刑を受けたキリスト様とか、悟りを開いたお釈迦様とか、すべての衆生を救済する菩薩様とか、じゃないんだからさ。一神教から見たら多神教の神様は悪魔だったりするし、神様すら絶対的に正しいものではない。評価する人間による。
だから他人をジャッジするなと考えるし、あの人のこういうところは好きになれないと感じるのは批評とは違うのかと自問する。行動を起こさなければ、内心は自由だけどね。完璧を目指しても病むだけだ。
で、多数派が必ず善ではないのだけれど、ならば少数派だけど善、が成り立つのかといえば、それもまた違うんだよな。
わたしはわたしに罪はないなんて思わないけど、よかれと思ってやったことと、良くないと思っていてもできないことはできない、って悩みながら生きているだけ。みんなそういうものなんじゃないの?
だから、他人を犠牲にして自分たちの快適さを得る方法が許せないと感じる。やめてくれないかと思う。自分が犠牲になるもの嫌だが、別の人が犠牲になっているのを見るのも嫌だし見過ごすのも嫌だ。
けれどそういう方法でも快適に過ごしている人たちにとっては、批判的なわたしが敵だ。敵なんだから嫌われるだろう。たとえそれが『誰か』の『あいつ嫌い』から始まっていたのだとしても。
人を好きになるのも嫌いになるのも、ごく個人的な体験だとわたしは思うんだ。
「私の友だちがあいつキライって言ってた」っていうのは、友だちとは価値観似ているから友だちなんだろうし、「わたしも嫌いだわ」ってなる率は高いと思う。でも『わたし自身』が「この人嫌いだわ」って体験をするまでは、「まああんまり近づかんとこうか……」でよくない? 一緒になって批判し始めるのは、違わない?
まあ、高望みなんだろうね。人間は感情の生き物なので。
わたしはこういうわたしを恥じてはいないが、疑問なく多数派に所属できるような性格だったら良かったなぁとかの、ないものねだりはある。いまのわたしはあの人たちの中に混ざることはできないと強く感じるので、いまのわたしが手に入れることはできないんだが。
で、ちまちました至らなさを攻撃されることがあるため、自分磨きに余念のない日々です。ますます遠くなるな……。
多数派のほうが生きやすい国なのにな。




