死後 僧
荒れる大河の河川敷に、石を積んでは鬼に崩落させられる子供が見えた。
賽の河原。
向こう岸からは燃え盛る炎が暗闇を照らした。
地獄。
大河からは阿鼻叫喚の嵐が飛び交う。
三途の川。
赤と黒で構成された、江戸に作られたような橋の前に私は立っていた。橋には半裸の鬼が錫杖を突いて構え、こちらを見据えている。
此処があの世だと、僧侶の一人であった私は気付いた。
「よく来た、一介の僧よ」
半裸の鬼が私に話しかけた。
「此処は三途の川の前、此岸である。お前は人界より神仏に仕え、徳を積み満業を重ねず、悟り続けた。よって天界へと案内する。付いて来い」
そう言って鬼は私を手招く。死んだと異形の者から聞かされ、此処があの世と認識していても、私は狂乱する事はなかった。長年悟り続けた甲斐があったのだろうか。
「お前の死因は狂死か。天界では上手くやるといい」
と、鬼が呟いて、橋を歩き始めた。
橋を渡っていると、川から聞こえる阿鼻叫喚は気分悪く、思わず半裸の鬼に聞いた。
「この声は……何ですか?」
「三途の川は、畜生道と餓鬼道、そして修羅道の三つの界がある。だから三途なのだ」
「一番浅瀬は餓鬼道。妬み苦しむ子鬼の声。川の底では餓鬼が住み、その下に畜生、その下に修羅」
私が川を覗くと、小鬼がこちらを川の中から睨み、何百の小鬼と目が合った。恐ろしくて目を背けた。仏教典には記されてあったが、聞くと見るとではまるで違う。
「あれも元々人間。下卑た性を持ったが故に、それに相応しい姿に堕ちる」
「下卑た性とは?」
「あの餓鬼供は物を喰らった。豚や牛、動植物を貪った」
私は少なからずその言葉に驚いた。それはつまり、生きる事が罪と言い張るのと同義だ。いくら神仏といえど、それは横暴な考えではないだろうか。
「生きる為には仕方が無い事ではありませんか。それではほとんどの人が餓鬼道に堕ちる」
「俺に教えを説くな。釈迦に説法を知らんのか」
ぴしゃりと言い切られ、反論は許されない。
「大体お前は天界へ行くのだから、餓鬼に堕ちた亡者に、そこまで情けをかける必要はない」
「あの醜悪な餓鬼を見て、助けようと考えるのはむしろ異常だ」
私は黙ることしか出来なかった。あれが元々人間と言えど、堕ちたあれは余りに醜かった。
半裸の鬼が、錫杖の鈴を鳴らして立ち止まった。
「これより先は彼岸。此処から天界への輪廻を辿る。何か此岸へ言い残す事はないか」
見ると橋は途切れ、あの恐ろしい地獄の炎の海が見える。こちらの河川敷には石を積む子供はおらず、おびただしい数の彼岸花だけが燃え上がるように咲いている。
「……言い残す事ですか」
私はまだ生きていた頃を思い出した。僧として長らく生きて、妻と娘と幸福に生きた。そして妻が死んでしまい、私は狂って死んで……………。
そういえば妻は、何処へ堕ちる?
「……妻は何処へ堕ちますか?」
「三途の事か。物を喰らったなら餓鬼へ堕ちる。お前という僧を残して死んだら、最悪男女間の問題とみなされ、畜生へ堕ちる」
それを聞いた私は振り返り、走り抜けた。橋の中盤に差し掛かり、妻を探す為に三途の川へ身を投げようとした。
「待て!! お前は僧であった故に、救われる義務がある!!」
半裸の鬼は首を掴み、私を引き留める。息が止まり、橋の上で絶え絶えと頭を抱えた。そして私は不平を叫ぶ。
「私の幸福はこの三途の川にある! 天界には妻がいないじゃないか! 妻を助けなければ!」
「お前は、餓鬼供を救いたいかと聞いても、黙ったではないか。外見に依存したその考えで、妻を救うなど軽々しくほざくな! 貴様のそれは所詮、偽善に過ぎん。自身の矛盾に恥を知るがいい」
鬼は厳しく言い放った。私のような人間も少なくないのか、納得できる内容だった。
ただ、納得していも感情が消えるわけではない。妻の愛が今になって思い出し、私は悲しくなった。
「でも、私はどうしても、妻がいないと、駄目なんだ」
私は妻が死んで、狂死した事もある人間だった。妻の重要性は分かっていたし、彼女以上に大切な人は居なかった。
「……餓鬼に堕ちるぞ。お前も」
「構わない」
「何百年かかるか、分からない。妻を見つけられる保証もないぞ」
「それでもいいんだ」
鬼が再三繰り返す。私はそれに正しく応答する。
「そうか。ならば、餓鬼供と仲良くやるがいい」
私は半裸の鬼に投げられた。三途の餓鬼達と目が合う。水面に写る自分の顔は、餓鬼達と同じような顔をしていた。
入水した僧に、餓鬼が群がる。
「食い物に飢えるから餓鬼なのだ。此岸から離れて、あれ程愛に飢えるのは、餓鬼と同じだ」
半裸の鬼は呟いた。