生前
「あの世で魂が濾され、きっと極楽へ行けます」
「極楽の雲間から、あなたの幸せを見守るでしょう」
「失った直後は、抜け落ちた物がどうしようもなく自分の全てだと思われるかもしれません。補うまで時間がかかります」
そう言って、何度人を説いただろうか。
今回も同じだ。これからずっと、人を説いていく。人は必ず救われる。
私はそんな宗派に依った「教え」に従い、早朝から目を覚ます。知らない天井の筈もなく、天井の隅から隅まで、見知った物である。だが、梁の縁に蜘蛛が巣を張っているのが見えて、これは掃除をしなければいけないと思った。
廊下を歩いて畳部屋に入る。長机に置かれた簡素な食事を頂き、仏様の側に添えられた菊を眺める。黄色の菊もそろそろ色褪せてしまっている。秋ももうすぐ終わるのだろう。
食べ終わると、食器を妻に持って行く。正装に着替えて仕事へと向かう。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
妻が見送りをしてくれる。門扉は玄関から遠いだろうに。杖をつく妻は腰と脚が悪く、筋力は日に日に衰微してしまっている。
「無理をしてはいけない。食事を作ってくれるだけで、私は満たされている」
「役に立ちたいと思う事は性悪ですか? あなたの教本には死んだ後の事しか書かれていません。生きている間は、神様より自分の教えに従って生きます」
「役に立つ事が悪い筈はない。私は君が大切なだけだ」
「なら、大切な妻が見送りしてるのだから、素直に喜んで行きなさいな」
ああ言えばこう言う訳ではない。妻は確かに信念を持って、私に向き合っているだけである。家内にここまで大切されるのは、夫として、そして僧として、少し気恥ずかしいが。
「強情に全く……ああ行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
何だかんだ言っても、妻の見送りは私も嬉しい。あの寛容な笑顔に、毎日出迎えをしてもらえる自分は幸せ者なのだと思う。
見送り後、門扉を潜くぐって少し歩いた。門から広がる白い塀には、小さな汚れが目立つ。寺の中は綺麗だというのに。外がこれでは意味が無い。内面性の美しさを重く捉えるばかり、外面を疎かにする事はいけない。
塀の畔に散在した落葉が、木枯らしでくるくると回った。寺から伸びた桜を見て、枝の整備もしなければいけないと思った。
いずれ満開にするだろう桜を横目に、私はタクシーに乗り込んだ。
私はタクシーに乗り、死者を弔う読経を行う為、お通夜に出かけた。僧は、出棺と火葬の日々のため、人の悲しみを慰める日々でもある。
今日は、ALSの病魔に体を蝕ままれ、若くして亡くなった女性の式だった。遺族は少なく、弟と見られる男性と、車椅子に座った母親らしき女性だけが立ち会っていた。
重い寂しさを纏った弟が棺桶に手を置いているのに対し、母親は心ここに在らずの様子で、娘の死を上手く認識していないように思えた。
母は認知症なのかもしれない。見ていて痛々しい程の家族だった。
読経をし終わり、挨拶をして退出しようとすると、
「姉は、本当に、救われますか」
弟が縋るように言った。
「はい、必ず救われます。この世でどれだけ苛烈な思いをしていても、それだけ極楽では幸福が待っているということ。そして、残された貴方達もまた、幸せになるべき人なのです」
「姉は、優しい人です。ですが、どうしてもこの世から救われる事はありませんでした。どうして、あんな優しい人が酷い目に遭うのか、僕には分からなかった」
「あの世の事なんて誰にも分からないじゃないですか」
「本当に姉は、救われますか?」
この人は、自分の姉が幸せになる証明が欲しいのだ。この世で手に入らなかった幸福を、せめてあの世で手中に収めて欲しいと、切望しているのだ。
だが私には、それを証明する手段を持ち合わせてはいなかった。
「死んだ後の事はわかりません。ただ、亡き人に死後も幸福であって欲しいと、願う事は悪行でしょうか。信じるから仏様は存在するのです。信じるから、きっと極楽で幸せになっていると思えるのです」
「……僕には、分かりません。信じる事が、虚しく、残酷な事もありませんか」
「どれだけ闇があっても、光が必ずあります。これはキリストの教えでもあります」
私がどれだけ言っても、彼の姉の幸福は約束されない。だから、せめてこの人だけはこの世で救われて欲しかった。残された遺族の悲しみは計り知れない。
弟は、ありがとうございましたと言って、私を葬式場から見送る。母は私を見ていない。貴方の娘が死にましたよ。そう言えば分かるだろうか。悲しんでほしい訳ではない。ただ、慈愛の言葉もお悔やみさえも、母から何一つ死後も言葉を与えられないのは、余りに寂しい物だと思った。
そんな母を抱える彼の苦しみは、一体どうすれば無くなるだろうか。姉に会う事だろうか。それは、つまり死ぬという事だろうか。
極楽は一体存在するのだろうか。
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私は妻と、仏様に添えられた菊を片付けていた。畳に落ちた菊の花を、箒で二人掃いていると、思わずため息が出た。
「どうか、されたんですか?」
妻が、気遣いに依った言葉を投げかける。私は、今日の葬儀の事を話した。苦しんで死んだ女性がいた事。その娘を覚えていない母がいること。それに絶望した弟がいる事。
「それは……悲しい人達ですね」
「あの人達は、どうすれば救われるのだろうか。神の証明は、私には出来ない。極楽浄土も地獄も、あの世もあるのか分からない。私がしている死者への弔いは、自己否定を防ぐ為の自己満足に過ぎないのではないかと思うんだ」
「葬儀は死んだ者にするものだが、遺族の苦悩を出来るだけ抑える事が、役割の一つだと、最近感じてしまう」
私は無性に酒が飲みたくなった。仏も神も、一体何処にいるのやら。存在するなら、救いを与えないのはどうしてなのか。
「人を弔う事で、きっと遺族も亡き人も救われます。貴方がしている事は正しい事なんですから、しっかりと胸を張っていきましょう」
妻が私を慰めてくれる。自分の信仰は何処にあるのだろう。本当に神に向いているのか。私が信じているのは、妻の言葉ではないのか。
「ああ、人はきっと救われる」
そう、きっと。
菊の花の端が黒く染まっている。幾枚もの花弁を落とし終えた後、それは菊と言えるのか。
端と言えば、天井の隅に住んだ蜘蛛の事を思い出した。住居を汚される事を盾に、生き物を殺すのは、果たして善行と言えるのか。住居を無作為に奪われてしまうのは蜘蛛の方ではないのか。
悩みの病巣を身体に張られ、私は何が善行か、何を信仰すべきか、すっかり分からなくなってしまった。
極楽は存在すると信じる。
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私はやはり、愚直に教本を守り、早朝から目を覚ました。知らない天井の筈も無く、しかし隅に蜘蛛の巣が……見当たらない。蜘蛛の巣はどこかへ消えてしまった。
布団から起き上がり、体を起こすと背骨が鳴った。立つと足が鳴り、戸を掴むと指が鳴った。歳を自覚するには十分すぎる程の、体の老朽化だった。
「老朽化」は、老いて朽ち果て、化けると書く。
老いて朽ち果てるというのは、老衰という意味だろうか。老衰は幸福な死に方か。遅かれ早かれ人は死ぬ。長く生きれば、それだけ多くの人と関わり合い、死ぬ時悲しませてしまう。
「生きる」とは、難儀な事だ。いや、いつか死ぬ為に息をしているだけと、そう思わない為の人生なのかもしれない。極端な話、人生は自殺しない為にあるのではないか。
「おはよう」
廊下から畳部屋に入ると、誰も居ない。いつもこの時間には、妻が長机に朝食を置いて、私を待ってくれるのだ。そして、おはようございますと言ってくれる筈だった。
廊下へ出て台所に向かうと、朝食を作る音も聞こえない。どうしたものかと妻の部屋へと行くことにした。襖を開けて縁側を通って歩いていると、もうすっかり落葉を終えて、枝と幹だけになった桜が見えた。春の華を準備するつもりらしい。
妻の部屋の戸を叩く。返事がない。寝坊も珍しく、たまにはいい物だとはおもうが、仕方ないから開けることにした。私はせめて勤めをしてくるとだけ伝えるつもりだった。
妻は寝ていた。布団をかけて、眠っていた。そうして眠ってしまった。秋の乾いた陽光が部屋へと差していて、妻の白い顔がよく見える。
妻は、気丈に気高く昨日のまま、息をしていない。
私は信じられぬ物を見た思いだった。私は、どれだけの神が居ても、どれだけの閻魔が居ても、浄土の仏も、彼岸の犬も、他にどんな化け物が妻を襲おうと、妻を捻じ曲げてしまう事は不可能であると信じていた。妻の生はそれ程に美麗であった。
だがそれが、たった一夜で奪われた。
私は、叫んでしまっていた。膝を着いて、天井を仰いで、涙を流した。早朝の寺院に、僧の叫びが木霊する。
天井を仰ぎ続ける。蜘蛛の巣は張られていない。
上を向いて歩こう。そうすると前が見えない。それ以前に涙で何も見えない。
極楽とは一体、本当に存在するのか。
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二週間、妻の縁ある人に電話をかけては切り、かけては切る。自分の家族も呼んで、葬儀を開いた。
葬式に多く人を呼ぶ理由が分かるか。何かの作業に没頭している間は、亡き人を忘れられるからだ。葬式を開くまでの苦しみから逃れるためだけに、人を招くのだ。葬式を開けば、決別出来るとも分からずに、多く人を招くのだ。
時間が、濁流の如き早さで流れた。全てが味気なく、無価値な時間は記憶に残らないせいか、昨日が今日のようで、今日が明日のようだった。
私は不眠になってしまった。欠食も患ってしまった。朝起きる事が出来ず、昼頃に起きた。眠ると明日が来る事が恐ろしかった。眠る体力すら失ってしまい、そして眠るたびに疲労が溜まるようだった。
事務的に葬儀が始まり、そして何事もなく葬式が終わると、僧が話しだした。
「……きっと幸せになれます……」
あぁ、どうかそんな事言うのはやめてくれ。
「……極楽で見守り……」
何故? どうしてそんな事言うんだ。
「……残された方も幸せに……」
妻の死を簡単に諦めるな。
吐きそうだった。私は間違っていたのか? 一体今まで、何を、誰に、説いて来たというのだ?
「お父さん? 大丈夫?」
娘が心配をするが、それに構う気力がない。自分も涙を流しているのに、私の心配までしてくれる気心のある娘だ。
「少し、席を空けさせてくれ」
ごほんと咳を手が受けて、吐き気が限界まで募った。ここは、恐ろしい。私はすぐに葬式場から退出した。手で受けた咳が喀血であったら、どれだけよかっただろう。
白い塀に片手を張り付かせ、体を支える。私の寺と同じような風景だった。
妻は、どこだ。
妻は、救われるか? 本当に報われた死か?
『はい、必ず救われます。この世でどれだけ苛烈な思いをしていても、それだけ極楽では幸福が待っているということ。そして、残された貴方達もまた、幸せになるべき人なのです』
……黙れ。
『死んだ後の事はわかりません。ただ、亡き人に死後も幸福であって欲しいと、願う事は悪行でしょうか。信じるから仏様は存在するのです。信じるから、きっと極楽で幸せになっていると思えるのです』
…………黙れ。
『どれだけ闇があっても、光が必ずあります。これはキリストの教えでもあります』
黙るがいい。誰が私を救えるものか。妻を返せ。
私は塀に縋るようにして屈んだ。どれだけ苦しくても、どれだけ悲しくても、生きる活力が湧く虚しさ。
あの世には極楽があるのか。本当にあるんだな?
この世に極楽はどこにもない。光のない闇だ。この世は地獄だ。
もう、何がなんだか分からない。
「……お父さん。病院行こう。疲れちゃったんだと思うよ」
娘がどうやら追いかけてきたようだった。私の精神と身体、どちらの心配をしたかは知らないが、とにかく私は、娘に病院を勧められる程に、生に支障をきたしているらしい。死んでしまうのか。そうか私は。
頭を抱えると、剃り上げた頭から、変に長く伸びた髪が数本だけ生えている。それがどうにもみずぼらしく、滑稽な様だった。私は嘲笑を堪えられなかった。はは、とだけ笑うと、それがまた嘲笑を誘い、口角を際限なく吊り上げるのだった。
笑いは止まらない。半目から涙が溢れる。可笑しい可笑しい。あぁおかしい?
おかしいのは狂人の私だったのか。
「あははははは」
「あはははは」
「あははは」
「あはは」
「あは」
「あ」
「………………………………………………………?」