9.朝は白霧に包まれて
ゆっくりと意識が浮上する。
夢と現実をさまよう気怠くもある曖昧さ。
瞬きを何度か繰り返したわたしは上体を起こし、周囲を見回した。
爽やかな青色と檸檬色で纏められた寝具。ふかふかとした柔らかなベッド。しっかりと閉じられたカーテンが外からの光を遮って、部屋の中は薄暗い。
「……そうだった、フェルザー将軍のお屋敷にお世話になっているんだった」
両手を大きく天へと伸ばし、深呼吸をする。
昨晩は美味しい食事を頂いて、ゆっくり湯浴みもさせて貰って、気持ちのいいベッドで眠れたお陰か、久し振りに体の調子がいい気がする。いつもより魔力の巡りが良いのは、気のせいではないだろう。
わたしはベッドから降りると窓辺へ近付き、カーテンをそっと開いてみた。夜明けを迎えるにはまだ早いようで、遠くの山の向こうが仄かに薄く朝色に染まっているくらいだった。
白い霧がこのお屋敷周り、それから皇都にもかかっていて、街灯らしき等間隔の明かりだけがぼんやりと光を放っている。
これならカーテンを開けても大丈夫そう。
そう思ったわたしはカーテンを大きく開き、ついでに窓も少しだけ開けた。ひんやりとした朝の空気が部屋の中を巡っていく。
わたしは胸一杯にその清々しい風を吸い込んでから、その場に膝をついた。
両手を胸の前で組み、目を閉じて祈りを捧げる。
どうか、グラナティスにいる民達が辛い思いをしていませんように。
どうか、わたしが無事である事が伝わりますように。
体から魔力が抜けていく、慣れた感覚。
今日は魔力の巡りが良い事もあってか、いつもより多く魔力が放出されたようだった。きっと今まで以上に上質な宝石が、数多く実った事だろう。
森に実る宝石を見続けているグラナティスの人達なら、きっと今朝の宝石だけでわたしの現状に気付くだろう。わたしは無事で、健やかに過ごしているのだと。
そう願いながら立ち上がり、ゆっくりと窓を閉めた。
浴室の洗面台を使って顔を洗ってから、クローゼットの前に立つ。両手で大きく扉を開くと、中には色とりどりのドレスが綺麗に収まっている。
わたしが夕食を頂いている間に、必要なものを全て揃えてくれていたらしい。既製品で申し訳ないと恐縮するイルゼさんだったけれど、こんなにも揃えて貰って有り難い以外の言葉なんてない。
まだ買いそろえようとするイルゼさんを押し止め、いるいらないのやり取りをしている間に可笑しくなって、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。そんなやり取りを誰かとするのも久しぶりで、それが何だか嬉しくて、切なくて、胸の奥が苦しくて。
感傷的な自分を少し笑ってから、わたしは紺色のデイドレスを選んだ。
用意されているドレスはほとんどが長袖で、露出の少ないものばかりだ。袖が短いものには揃いの長手袋や、首周りを覆う薄いケープも用意されている。これはきっと、わたしが日光に当たらないようとの気遣いなのだろう。
ドレスは一人で着られるものだった。これなら身支度も自分だけで出来る。イルザさんの手を煩わせなくて済むのはありがたいと思いながら、わたしはドレッサーの前で髪をとかした。邪魔にならないように高い位置でひとつに纏め、毛先はそのまま背中に流す。
一式揃えてくれた道具で軽くお化粧をしてから、わたしはそっと部屋を出た。
廊下にある窓の鎧戸は全て開けられている。
そこに昨晩まではなかったはずの、レースで織られた薄手のカーテンが掛けられていた。これもわたしの為にしてくれたのだろうと思うと、有り難さと申し訳なさで小さな息が漏れた。
後で必ずお礼を伝えなくては。フェルザー将軍にも、グレンさんにも、イルゼさんにも。
階下から人の気配がする。きっとグレンさん達はもう起きているのだろう。何かお手伝い出来る事があるかもしれない。
お屋敷に置いて貰うのだから、出来る事は何でもするつもりだった。
階段を降りて、微かな物音のするキッチンへと向かう。
その時だった。ひんやりとした清々しい風が頬を擽ってくる。
「……どこか開いているのかしら」
キッチンへと向かっていた足を、その風の方へと向ける。
廊下を少し歩いた先、裏庭へと繋がるガラスのドアが片方開け放たれていた。
風に乗って芳しい程の花香が誘ってくるようだった。
空を見上げれば陽は上り始めているようだけれど、深い霧に阻まれて陽光は届いていない。
今なら大丈夫そう。明るい内に陽光を気にせずに、外に出られる機会なんてそうそうない。
わたしは胸が弾むのを自覚しながら、裏庭へと足を踏み出した。
様々な色の石が美しく敷かれた道の上を進む。
中庭には色とりどりの花が植えられていて、朝露に濡れた花びらからは甘い香りが漂っていた。
「綺麗……」
ゆっくり花を愛でるだなんて、いつぶりだろう。
心が浮き足だって、口元が綻ぶのを感じていた。
裏庭をゆっくりと散策し、花を眺めている間に霧が少し薄くなってきたようだった。肌寒ささえ感じる程にひんやりしていた空気が、少し温かくなってきた気がする。
ついつい長居をしてしまった。イルゼさん達のお手伝いをしようと思っていたのに。
そう思って踵を返した瞬間──わたしの頭に何か布のようなものが掛けられた。驚きに声を上げる間もなく、わたしの足は宙に浮き、抱き上げられていた。
「馬鹿か、お前は」
聞こえてきた悪態は、フェルザー将軍の声だった。
下ろされたわたしは、掛けられていた布を取る。どうやらそれはガウンだったようで、フェルザー将軍のパルファムがふわりと香った。
「呪いの存在を忘れたわけじゃないだろう」
「霧が掛かっておりましたので、大丈夫かと……」
「皇都の霧はあっという間に晴れる。外に出るなとは言わんが、日傘を忘れるな」
フェルザー将軍にガウンを返している間に、言う通りになってしまった。見る間に霧はさあっと引いていき、力強い熱量を放つ太陽が空に鎮座しているのが見える。
「……ありがとうございます。危うく焼かれてしまうところでした」
今更ながら身の危険を感じて、心臓が落ち着かなくなる。幾度となく肌を焼かれたあの痛みを思い返しながらフェルザー将軍へと目を向けた。
寝着姿なのだろうか、前合わせのゆったりとした衣服を腰辺りで幅広の布で留めている。黒い寝着に、明度様々な青色で織られたガウンがとてもよく似合っていた。
髪がまだ乱れているのは、起きたばかりだからかもしれない
「フェルザー将軍は、まだお休みに──」
「リアムでいい」
「ですが……」
「お前は俺の部下じゃないだろうが」
確かにそれはそうなのだが。閣下と、それとも爵位で呼ぶ方がいいのだろうか。
そんなわたしの考えを感じ取ったのか、片手をひらりと振りながら、彼は欠伸を噛み殺している。
「いいから言われた通りに呼んでおけ」
「……リアム様」
それでいいとばかりに頷くと、リアム様はわたしに背を向けてから肩越しに振り返った。
「支度をしてくる。食事にしよう」
「はい。ではわたしはお手伝いをして参ります」
「手伝う事もないと思うけどな」
頭を下げてリアム様を見送って、それからわたしはキッチンまでの道を急いだ。
少し時間が経ち過ぎてしまった。明日からはもっと早く起きて、お手伝いにいかなければ。
早く起きれば太陽が上る前に、裏庭を散策出来るかもしれないと、そんな期待も胸に抱きながら。