さむけ
寒気に襲われ、目が覚めた。
どうやら、今夜も始まったようだ。
部屋の隅を見ると、背を向けた看護婦が立っている。
「あの、どうかしたんですか?」
声をかける。
もう、このやり取りも何度繰り返したかわからない。
いつから、この女は現れるようになったのか。さっぱり思い出せない。
「あの……」
この看護婦は、ずっと背を向けたままだ。
声に反応すらしない。
手を掛けようにも、身体が動かない。
最初、金縛りとはこういうものかと思った。
そして、部屋の隅――視界の端に、女が立っているのに気付いた。
まあ動けたところで、吊り上げた足を降ろすのに時間がかかるんだが。
「おい」
この部屋には、ベッドが四つある。
一つは空いていて、一つには爺さん、一つには腰を痛めたおっさんが寝ている。
女が現れると、俺はいつも声を発してみるのだが、周りの人間は一向に起きない。
まるで、俺とこの看護婦だけが切り離された空間にいるようだ。
「今日も返事無しかよ」
まったく、出てくるんなら反応しろってんだ。
正直、初めは怖かった。
でも、いつの間にか眠って朝になってるし、別に何かしてくる訳でもない。人は慣れるもんで、最近じゃ、この無害な幽霊とコミュニケーションしようと思っているのだ。
「寒いんだけど」
そう、一つ気になることと言えば、寒気だ。
女が現れると、猛烈な寒気に襲われる。
風邪を引いてないのに、布団の中で身体がぶるぶる震えてしまう。
「なあ」
と、言ったところで、手に温もりを感じた。
あれ? あったかい。
そこで、首の筋肉が強張った。
手が触れているものに気付き、のけ反ろうとしたからだ。
――これ、手だ。
布団の中で、誰かに手を握られている。
「起きてください」
「うわっ!」
飛び起きると、朝になっていた。
「大丈夫ですか?」
看護婦が顔を覗いてくる。
視界がぼやけていた。
ひどい汗だ。
まるでプールにでも浸かってきたかのように、全身ずぶ濡れだった。
「あ、あれ? 夢?」
「え? 怖い夢でも見たんですか?」
起こしてくれた看護婦を無視して、自分の腕を見た。
身体でめくれた布団から、小刻みに揺れている自分の手が見える。
当然ながら、他に手なんか並んでない。
「すいません、ちょっとトイレ」
「朝食置いて行きますから、戻ったら食べてくださいね」
トイレで必死に手を洗い、パジャマで手と額の汗を拭った。
触感が消えない。
まだ手が震えている。
気にするな。
あれは夢だ。
あの看護婦だって夢なんだ。
廊下に出ると、小さい女の子が立っていた。
まるで俺を待っていたかのように、入口からこちらを見ている。
そういや同室の爺さんが、最近小児科から子どもが移ってきたって言ってたな。
松葉杖で、たどたどしく近寄った。
小学校高学年に見える。髪は長めで、可愛らしい少女だった。頭に包帯を巻いている。
「兄ちゃん、大丈夫?」
もしかして、さっき慌てながら入ってくとこ見られた?
「大丈夫だよ。少し寒気がするだけさ」
笑顔を作って答える。
まだ震えてるのは、汗が乾いてないから少し寒いんだ。
こんな子にまで心配されるなんて、しっかりしなきゃな。
「さかむけ?」
「さむけ」
「さかむけ?」
「ちがうちがう、寒気だって」
「兄ちゃん、何号室?」
「え? そこの〇号室だけど」
「おとなりさんやね。遊び行ってもいい?」
「い、いいよ」
少女が来ると、部屋は盛り上がった。
おっさんも爺さんも子ども好きなのか、いっぱい甘やかして、いっぱい話を聞いてあげてた。何より、男ばかりの部屋に華が出た。俺は毎日見舞いに来るような親しい奴はいないし、他の二人も同じようなもんだったからだ。
「しかし、何で君はこっちに来たんだ?」
爺さんが聞くと、女の子は少し顔を下げて呟く。
「あっち怖いねん。だから逃げてきた」
「あっちって、小児科?」
「怖い先生でもいるのか?」
「ちゃうの。あっちな、こっちよりもっと怖いのおるん」
「うん?」
「ああ、ごめん。うちおかん来るから、もうもどらな」
「あ、ああ」
「兄ちゃん、またな」
「おう」
夜になり、布団をずり上げる。
「いっつ……!」
痛みに驚いて手を見ると、ささくれが出来ていた。
あちゃー。
こりゃ、明日にでも絆創膏もらうか。
まただ。
気付くと、部屋の隅に女が立っていた。
相変わらず背を向けている。
昨日のことが頭をよぎり、目を閉じた。
早く消えろ。
もう消えてくれ。
そこで、女の後ろ姿が真っ暗な瞼に浮かんだ。
あれ?
さっき、前より近付いてなかった?
よく考えたら、女は直立じゃなかった。
手を前で交差しているのか、肘から先が見えない。
もしかして。
不意に、手に温かい感触が灯った。
まさぐるように、別の手が布団の中でうねっている。
――この手、あの女の手か?
「兄ちゃん!」
「わっ!」
気が付くと、目の前に少女の顔があった。
「大丈夫?」
「あ? ああ……」
朝だ。
いつの間にか眠ってしまったのか。
布団の中で手を握った。
感触が残っている。
あれは夢じゃない。
「なあ、兄ちゃん大丈夫?」
「ああ、もう大丈夫」
「ほんま?」
「ほんまほんま」
「じゃあ、手ぇ見せてみ?」
「手?」
手を出して驚いた。
「やっぱり、兄ちゃん」
肌が荒れ、手がボロボロになっていた。
「さかむけさん、来とぉよ」
「さ、さかむけ?」
「さかむけ、あったやろ?」
指先までボロボロで、ささくれが無数に走っている。
「もしかして、ささくれ?」
「ささくれ言うん? うちらはさかむけ言うとった」
「あ、ありがとう。看護婦さんに知らせなきゃね」
「あかん」
「何で?」
「それ、ただのさけむけちゃう。さかむけさんが近づいとるしょうこや」
「さかむけさんって、なに?」
「前に聞いた。さかむけさんに手ぇさわられると、死ぬんやって」
「し、死ぬって」
死ぬ死なないの話をしていると、爺さんとおっさんまでベッドを覗いてきた。
「に、兄ちゃんどうした!」
「手がひどいことなってるじゃないか!」
すぐ爺さんがナースコールを押す。
「ああ、もう! じいちゃん! お医者さんやないって!」
「いやいや嬢ちゃん。まず医者だろう」
軽く検査を行い、部屋に戻された。
「兄ちゃんもどってきた!」
「おお!」
「どうだった!」
「それが、一晩でこうなるのは珍しいからって、アレルギーとか疑ってるみたいです」
「それは在り得るな」
「だから、ちゃうんやって!」
「ああ、さっきの続き?」
「わしらも話聞いてたんだけどな」
「さかむけさんな」
「関西の方じゃ、ささくれのことを『逆剥け』と言うらしい」
「さかむけに触られると、死ぬとは?」
「指先には、栄養失調とか身体の不調が出やすいしな。比喩じゃないか?」
「……いや、それが……」
「なんだ兄ちゃん」
俺は、ここ数日の夜について話した。
「ほらぁ、さわるんやって!」
「で、その『さかむけさん』ってのはどんななんだ?」
「さかむけさんは、寒いんやって」
「……さむい?」
「寒いから、着るもんほしいんやって」
あの寒気も、もしかしてその『さかむけ』って奴が起こしてんのか?
「さかむけさんが来るんは、じょうけんあるんやって」
「条件?」
「それはな――」
看護婦がいない。
代わりに、布団の中でもぞもぞと何かが動いている。
奴が、いる。
身体が動かない。
ひどく寒い。
なのに、全身から汗が噴き出ている。
逃げなきゃ。
動け。
動いてくれ。
「だ、だれ……か……」
爺さんもおっさんも起きない。
布団が、ゆっくりと盛り上がっていく。
「だ……」
布を跳ね上げ、そいつが姿を現した。
「さ、さむいぃぃぃぃぃぃぃ」
「うわあぁぁぁぁぁぁ!」
看護婦じゃなかった。
むしろ、人でもなかった。
そいつは、全身の皮が無かった。
「おまえのかわくれえええええ」
そいつは腕を持ち、ぐちゃぐちゃと手をしごいている。
「や、止め……!」
そこで、べろりと指先がめくれた。
逆剥け――こいつ、皮膚を剥いでやがる!
ささくれは兆候だったのか!
「だいじょうぶだぁ、おれがおまえをきて、おまえになってやるからぁ」
「な!」
「おれもそうだったんだぁ。おれもかわ、とられたんだぁ」
腕は、もう肘まで皮が剥がれていた。
「い、いや……」
「止めろ」
いきなり、目の前から化け物が消えた。
「え……」
いつもの看護婦が、背を向けて『それ』を締め上げている。
「張っていて正解だった。こんな掟破りは放っておけん」
拳を振り上げる。
「疾く、去ね」
頭に振り下ろすと、異形が霧散した。
「あ……あ……?」
背を向けたまま立ち上がり、言葉を発する。
「これは夢だ」
「そ、そんなわけ……」
「そうしておけ」
気が付くと、朝になっていた。
「あ、れ……?」
腕を見ると、元に戻っている。
本当に、夢だったのか?
「あ、兄ちゃん起きてる!」
少女が走ってきた。
「大丈夫?」
「それが、大丈夫だったみたい。ほら」
手を見せる。
「良かった……やっぱり、あのかんごふさん、ええ人なんやね」
「え? もしかして、君も会ったことあるの?」
「前いたとこで」
「小児科?」
二人で話していると、おっさんと爺さんも起きてきた。
「もう大丈夫なのか?」
「ええ、この通り」
昨日の出来事を話すと、二人は首を捻った。
「どうしたんです?」
「それなんだが……」
「気になってることがあってな」
「何ですか?」
「お前、何でここに来たんだ?」
「え?」
「両親はどうした?」
「見たとこ、まだ高校生だろう? どうして親が世話に来ないんだ?」
「ああ、そんなことですか……」
逆剥けさんは、同じ目に遭った人の元にやって来る。
「俺、両親死んだんですよ。一家心中ってやつです」
三人は目を丸くした。
「正確には、殺されそうになったんですけど。最近、親父の様子がおかしかったんです。で、ある日自分の部屋にいたら、血だらけで包丁持って入って来て……二階から飛び降りたんですよ。だから足が折れたんです。警察の人に聞いたら、母親を殺してて、俺を殺そうとしたんですけど、痛がってる姿を見て我に返って、救急車呼んだみたいなんです。でも、来る前に自殺しちゃったらしくて……今は、叔父さんが養子の手続きをしてくれてるところです」
「そりゃあ……」
「……きっと、あいつも、生き残ったんでしょうね。でも、逆剥けさんがやって来て……ああ、でも、そこじゃないのかも」
「そこじゃない、とは?」
「別に、そんな重い理由じゃなくてもいいのかもしれませんよ? 『同じ目』なんて、いくらでもあるじゃないですか」
「そうだが、その逆剥け、とやらは消えたんだろう?」
「ちゃうよ?」
「え?」
「うわさなってるくらいやもん。きっと一人やないよ」
しかし、一体何人が……。
ささくれを持ってから、入れ替わられたんだろう。
それは、本人にしかわからないんだろうな。