「第二章二節 10年越しの再会」
厨房を出ると、新たに何組かの客が増えていて、母が熱心に注文をとっていた。
「お待たせいたしました、から揚げ定食になります」
僕は不愛想にスポーツ新聞を読んでいる、神戸氏の横に立ち、熱々のから揚げ定食を差し出した。
「ん、ありがと」
彼は新聞を隅に置くと、真っ先にから揚げにかぶりついた。食欲を掻き立てる肉汁の弾ける音。
しかしその瞬間、神戸さんの顔がゆがむのを僕は見逃さなかった。だが彼はすかさず表情をかき消し、
「うん、上手にできてる。いいんじゃない」
僕に向き合いこう述べると、再び食事を続けた。
「あの、もしや……」
何か料理のへまをしたのではないだろうか。表面上は、気を遣って美味しいと言ってくれたが、一口目の表情は明らかな、不満のそれである。僕は詰め寄りぎみに、真相を尋ねようとした。
「龍平、いつまで表に出続けているんだ! はや厨房に戻ってこんか!」
問い質そうとするも、父の一喝で、僕はカウンターを後にせざるをえなかった。
「がんばんなさい」
背後で神戸氏が、ぽつんと呟いた。それはお店の切り盛りのことだろうか。しかし僕にはこの励ましが、別の何かに聞こえてならなかった。
一時間半、僕は文字通り、がむしゃらに働いた。最後のお客様を見届け、お店の後片付けをすると、僕は疲労困憊のまま、居間のソファへ倒れ込んだ。
「お疲れ様、鰤の竜田揚げ作ったから、たらふくお食べなさい」
キッチンでは一足先に上がった母が、遅い昼飯を作っていた。正直料理を見るのは、もううんざりだが、悲しいかな腹の音は鳴る。僕は気だるげに起きると、のそのそと椅子へ腰かけた。
「あれ、そういや親父は」
向かいの卓上、父の食器が無いことに気づく。母はあぁと応え、
「今日は月一の定期検査で、さっき病院へと行ったよ。夕方には戻ってくるはずだし、特に心配はしなくていいから」
「ふぅん」
僕は相槌を打つと、黙々とご飯をかっ込む。脳裏に浮かぶ、今朝の父の怯え切った表情、震える手。開店中、時々父の表情を伺ったが、
別段何ら異変は無かった。今朝の出来事は、些末なことにすぎない。今ではそう感じてしまう。
「どうよ『めめだ』初日は、これからやっていけそう?」
母が心配げに尋ねてきた。僕は番茶をすするとそっけなく、
「どうも、こうも。僕にはやっていくしか道は無いから」
自身の本音を吐き捨てた。正直めまぐるしい調理と、慣れない接客で、心身共に衰滅しかけている。それでもやっていかなければ、それはお店の繁栄のため、そして親への孝行のため。
母が、曖昧な笑みを浮かべる。僕は「よし!」と声を絞り出すと、
「ごちそうさん! 夕方まで少し仮眠するから、よろしく! もし一六時過ぎても、起きてこなかったら、思いっきり叩き起こして」
この場から逃げるように、食器を流しに置く。
「龍平」
ドアノブを手にしたところで、母が呟く。
「あなたがもし、何か別のやりがいを見つけたら、いつでもお店から離れていいからね。
お父さんは、お店を継いでほしいみたいだけど、私は龍平の気持ちが第一だから」
「……ありがとう」
僕は小さく呟くと、一つ頷きキッチンを後にした。
僕のやりがい、唯一の希望をつい最近失った身としては、随分考えたくない単語であった。今はそう、ひたすらお店に打ち込むだけ。
夜の『めめだ』の、開業時間は一八時~二〇時の二時間。かつて二二時まで(時には客との盛り上がりで、深夜まで)、開いていたことを知っている身として、随分短くなったと思わざるをえない。
それでもそれは、内部を知らない外からの見方。今の僕は、
「刺身一、日替一、大吟醸二つ!」
「とんかつ上がった! 日替まだ出来んのか! 順番そっちの方が先だろ!」
「お母ちゃーん、こっちおつまみ追加で!」
めまぐるしい厨房、絶え間ない注文、ただただ戦場である。簡単なオーダーを任されながらも、父とのスピードは比べるべくもない。配膳の滞りに、罵倒されながらも、必死に調理を続ける。
それでもピークを過ぎれば、残るのは酒を片手にちびちびやっている客と父母懇意の常連だけ。神戸氏の姿は見当たらず、彼の特等席には、僕の知らない別の叔父さんが、父との会話に花を咲かせていた。
ガラガラッ
「いらっしゃいませー」
閉店三〇分前、もう客は来ないと、明日の仕込みを進めていた僕は、敷居の音に顔を上げる。
そこには黒のチェスターコートを纏い、この場にふさわしくない紳士然とした、男性が、やや緊張した顔つきで立っていた。
どこかで見た顔だな、そう疑問に感じたのも束の間、
「あれっ、もしかして翔さん? いや、翔さんじゃないですか! これは、懐かしい! 一体どうされたんですか!」
親父の一言で、記憶のピースが一挙に集結する。と同時に焦りに似た疑念が生じる。なぜ彼がこの場にいるのか、もう二度と再会するはずは無かったのでは。
その時、夏の防波堤での記憶がフラッシュバックする。いやまさか、そんなはずは。
「覚えていて下さいましたか、こちらこそご無沙汰で。もう一〇年近くなりますかな、変わらずお店を続けているようで、安心しました」
「昔はうちの娘が、お宅の龍平君にお世話になりました。実はこの春から、再びこちらに戻ってくることになりました。今日はその挨拶も兼ねて、ご飯を食べに来ました」
杉中志穂の父親翔は、悠然と椅子に腰かける。そして僕の動揺する思いもよそに、柔らかな微笑を称えると、鰤大根を注文した。
後で父親に聞いた話によれば、翔さんはこの春から、勤めていた大阪の会社を辞め、こちらで悠々自適の生活を送るらしい。
「やはり、田舎の血が根にあるのか、齢を経るにつれ、中之島のオフィスが煩わしくなりましてね。定年まで後五年ですが、娘がこちらに転職するタイミングで、僕たちもこちらへ戻るのを決めたんですよ」
彼の家は、この近くの海沿いの小さな住宅街にあった。しかし一〇年程前か、翔さんの転勤に伴い、杉中家は総出で大阪へと旅立って行った。
接客の際、僕は少しだけ翔さんと会話した。彼は、てっきり僕がお店を継いで随分と感じたらしく、
「いやぁ、龍平君大きくなったねぇ。中学以降会っていないから、かれこれ一〇年以上か。昔はよく家に遊びに来てくれてたよね、ほらバトミントンの羽根が屋根に乗った時、それを取りにいったら転んで地面に落ちかけたの、今でも覚えているよ」
翔さんは僕と会うと、急に懐かしみがこみ上げてきたのか、流暢な口ぶりで思い出話を語りかけてきた。
「ははは、そんなこともありましったっけ。ところで志穂さんは、どちらに転職されたんですか」
僕は愛想笑いを浮かべると、特に考えもせず話のネタを投げかける。瞬間しまったと心の中で舌打ちする。翔さんは特に気にすることなく、
「娘は市役所の福祉課だよ。前職が看護だったから、経験を生かせそうで、良かったよ」
ほっと胸をなでおろす。やはり子供の進路は、親にとっては大きな懸念材料なのだろう。その意味で公務員の就職は、親にとってはとりあえず、一安心なのか。
市役所、ふと脳裏にある業務が思い至った。確か週一、いや今はやっていないのか。もし続けているなら、彼女に。
「まぁ、龍平君も、もし良ければ、この春から再び娘と仲良くやってくれないか。彼女も一〇年ぶりの田舎で、随分不安なはずだし。君が彼女をサポートしてくれるなら、叔父さんは非常に嬉しいよ」
こう投げかける翔さんの目には、期待の色が浮かんでいた。やめてくれ、そんな視線は。僕は落ちぶれ者、とても期待すべき存在ではない。第一僕も今日お店に立ったばかり、助けを必要としているのは、むしろ僕の方である。
反発の思いが頭を埋め尽くしたが、さすがに言葉に出すのはためらわれ、苦笑まじりに翔さんを見つめる。
だが彼はその表情を肯定と受け取ったのか、
「よろしく頼むよ……さて、料理が冷めてしまったか。閉店間際に長話悪かったね、急いで食べて帰るから、僕のことはもう気にしないでくれ」
そう呟くと、黙々と料理を食べ始めた。
その間、父は変わらず常連と話し続け、母は既に店を後にしていた。
僕はぺこりと頭を下げると、厨房に戻り仕込みを続けた。
閉店時刻が過ぎ、最後の常連が帰っていくと、父は翔さんの卓へと近づいた。彼も既に食事は終えていたようだが、父と会話すべく
待っていたのだろう。
二人は、最初は久々の対面にややぎこちない表情であったが、昔を思い出すにつれ、次第に盛り上がりを見せていた。
後片付けを済ませると、僕はそっと厨房を後にした。
裏口から外へ出ると、冷たい風が吹き荒れ、僕を即座に縮こませる。
早く風呂に入って、寝よう。急いで家の玄関へ向かうべく、顔を上げると夜空を照らす満月が視界に映った。
そういえば夏に彼女と会った時も、街の夜景が綺麗だったな。もう会うべくもないと思っていた幼馴染が戻ってくる。これは喜ぶべきことなのだろうか、いや僕には関係の無いことか。
在りし日の彼女との記憶が、まざまざと蘇る。随分昔のことだ、今となってはもう関係無いこと。そう言い聞かせるも、なぜかこの日は、疲れきってベッドに潜り込んでも、一向に寝付かれなかった。
一週間、僕は店の切り盛りを上達するべく、がむしゃらに働いた。はたして今の自分を、無理に肯定しようとしてないか、田舎暮らしで本当に良いのか、志穂と今後関わっていくのか。
時々脳裏に、そんな雑念が生じることもあったが、その度に僕は、自ら仕事を求め、否が応でも考えないようにした。
店では相変わらず、親父に指導され、母は心配し、神戸氏に労いの笑みを浮かべられる。
年末程では無いものの、やはり精神的には結構ストレスになっていた。それでもそれを軽減せしめてくれ始めたのが、
「へぇ、君が清顕さんの息子さんかぁ」
「新たにめめだを継ぐんだってね、頑張ってよ」
「へへへっ、また来ましたぜ!」
一週間で僕を認識してくれた、父の常連等であった。彼らの軽口に、僕は気の利いた返しも出来ず、ぎこちない笑みを浮かべるだけであった。
それでも常連は、全く気にせず、次に会った時も変わらず、冗長に僕に接してくれた。
それはやはり嬉しいものである。自分の存在意義を認めてくれたこと。決してこのお店は父だけのものではないと理解したこと。