「第一章三節 2018年7月~8月 愛知→東京」
お店を出ると外の熱気が、冷えた体を温め妙に心地よかった。遅れて出てきた日野は、割と飲んだにも拘わらず平然としており、酔い心地の七海ちゃんに肩を貸している。
お店で一通り出版社について話し合った僕らだが、その後はそれぞれの近況や昔話について、のんびり語った。
出版社の話では、ノートを持ち出し、しきりにメモを取っていた七海ちゃんも、中高時代の話になると、
「龍平先輩、覚えてますか? 一度お兄ちゃんが、結ちゃんに告白したこと。あの時、お兄ちゃんもそうでしたけど、先輩も相当落ち込んでいましたよね」
不敵な笑みで、僕らに臆することなく饒舌に語り始めた。
「うわ、懐かしいなぁ。でもまさか、結が振るとは思わなかったから。涼なら結とうまく付き合えると思ったし」
「あんとき振られた俺より、お前の方がこの世の終わりのような表情してたぞ。振った結がお前のことを心配して、俺は一体誰に慰めてもらえればと思ったぞ」
結局あの時は、日野が一週間後に別の女性と付き合い、僕の悩みは取り越し苦労に終わったことを記憶している。
今となっては、笑いのネタにすぎない話も、あの頃の僕たちは真剣だった。だが今は思い出話になるほど、長い年月が経過してしまった。
「本当はもう少し飲みたかったけど、思いの外七海が、出来上がっちゃったから。今日はここまでだな」
「私酔っぱらってません! でも、そうですね。お店も賑わってきましたし、そろそろ次の人に席を譲った方がよろしいですね」
かく言う七海ちゃんの顔は真っ赤にほてっていた。時刻は二一時過ぎ、普段なら二軒目といきたいところだが、生憎歩いていける料理屋は無く、七海ちゃんを深夜まで出歩かせるのは、子供思いの御家族を心配させるだろう。
「それじゃ、今日はお開きにしますか」
日野の掛け声で、僕らは席を立ち、賑わうお店を片目に、お会計を済ませた。
「龍平はどのくらい、こっちにいるんだ?」
アクアにもたれかかった日野は、相も変わらず電子煙草を吹かし、僕に視線を据えた。
「あと三日くらいかな。休みは一週間貰っているけど、あまり留守にすると仕事に支障をきたすし」
「ふーん、俺には詳しいことはわからんんけど、東京の仕事は大変そうなんだな。そう考えると、地元でのんびり農家をやっている俺は、幸せってもんか」
「なんだよ。お前だって、太陽の出ない内から、畑で出荷準備だろ。自分だってきついこと、隠さなくったっていいんだぜ」
日野は痛いところを突かれたとばかりに、反論することなく押し黙った。こいつには、決して負けたくない。だから今日は黙っている。
自分が今出版の仕事を辞め、親父の店継ぎに逡巡しているということを。
「ところで七海ちゃんは、どこにいるんだ。さっきまで、そこでスマホいじっていたけど、いつの間にかいないぞ」
「ん、あれ? 七海……って、あっ! あいつ助手席で眠ってやがる」
彼女はいつの間にか、車の助手席に移動し、気持ちよさそうに眠りについている。疲れていたのだろう。だが生憎車の持ち主は、絶賛酒気帯び中で、彼女を夢見心地のまま家へ送っていくことはできない。
「帰りは歩きっていったのに。全く世話のやけるやつだ」
さすがに車の中で一夜置いておくわけにはいかないだろう。彼は車に乗り込むと、ゆっくりと彼女を起こし、肩を貸しつつ助手席から降ろして、帰りの方角へ向かわせた。
「それじゃ、また。今日はありがとな。こいつに細かな、進路のアドバイスをしてくれて」
「いや、俺は大したこと言ってないよ……なぁ、涼」
「あん?」
振り向いた彼の前で、青信号が点滅する。信号はそのまま赤に変わり、動きを失っていた車が、のろのろと国道へと踊り出る。
「ひょっとすると、これからお前には厄介になるかもしれない」
「は? それってど……」
「七海ちゃんにも、改めて今日は楽しかったよって伝えておいて」
僕は気づけば、走っていた。後ろで日野が何かを叫んでいたが、僕は気にしない。わずが数歩でアルコールの入った体が悲鳴を上げる。
だが僕は歩みを止めたら死といわんばかりに、足を前に出し続けた。人通りの途絶えた田舎の夜道を、僕は狂わんばかりに走った。
道中いつもの通り道を避け、少し遠回りになる海沿いの道を選んだ。
既に先程から走るのを止め、思いと裏腹の足は、ふらふら歩き続ける。酔っぱらった千鳥足とは、まさにこの状態を指すのだろう。
それでも五感は冴え渡っており、海から吹く風が僕の鼻腔をくすぐる。
磯の香りは懐かしの香りとは言うが、この海の匂いはあまりに強烈すぎて、子供の頃から一貫して嫌いだ。でも同様に強烈な海風は、この時ばかりは酔いを覚ましてくれ、徐々に冷静さを取り戻してくれた。
真っ暗な海上の向こう岸には、別の港町の灯りが燦燦と煌めきたっていた。幼い頃は遥か彼方の世界と色めき立っていたが、今は車で二時間もかからない蒲郡市のあの辺りだと、未知への興奮は微塵も無かった。
そういえば最近、知らないことへの探求心も減ったな。そんなことを絡め合わせ考えていた時、向かいの堤を、歩く人影がおぼろげに見えた。
近所の子供だろうか、それにしちゃ遅すぎる。だが近づいてくるにつれ、その姿は少年少女とは明らかに背丈が違うことに気づかされる。そう、それは一般的な、青年女性の姿。
「あっ」
先に気付いたのは、彼女の方からであった。
彼女はすとんと堤から降りると、遠慮なく僕に近づき、
「もしかして龍平? わっ、めっちゃ久しぶりじゃん! えっ、なしてこんなとこ歩いてるの」
僕は彼女の実家がこの近くであることを、当然ながら知っていた。
「しほ……ひさし、ぶり」
それでも一〇年ぶりの再会には、正直驚かざるを得なかった。
酔いが一気に覚める。遠くから聞こえる、夏虫の音色。
彼女は、小中と幼馴染でありながら、別の高校を機に疎遠となった、僕の過去の想い人、杉中志穂であった。
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「北原君、これも追加でリスト更新しておいて!」
「北原! ここの写真、素材が間違ってる!」
五日間の休暇から戻った翌日の社内。閑散期とはいえ、五日の休みは大きく、その間に溜まっていた仕事を、昼休み・定時帰り返上でただひたすら消化し続けた。
それでも次の日の夕刻には遅れを取り戻せ、なんとか今日は定時には帰れそうだった。
一九時過ぎ、満員の中央線に乗車し家路に向かう。またいつもの日常のスタートだ。
繁忙期は少ない残業代で、深夜まで業務をこなし、そうでない時は、家に帰って作品を書き続ける。
駅中のスーパーで夕食の材料を買い、家路に向かう。道中尻にしまったスマホの通知が鳴る。画面を開くと、七海ちゃんからLINEが届いていた。
『龍平先輩、お疲れ様です。連絡が遅くなってしまい、申し訳ありません。先日は就活の御相談ありがとうございました。先輩の経験を参考に、改めて児童教育に重きを置いた出版社に、インターンしてみようと思います。来年の解禁に向けて、動いていこうと思います! 東京に訪れる際は、是非またお会いしたいです!』
所々に絵文字が入りながらも、丁寧な長文はいかにも彼女らしいと、口元がほころんだ。
三年前は、自分も大学のOBに就活の相談を申し込んだっけ。教えられる側から、今度は教える側になったことに、言いようのない嬉しさがこみ上げてくる。
耳元で川のせせらぎが聞こえる。この小さな川を渡ると、閑静な住宅街が徐々に広がっていく。活気に満ち溢れた商店街と、人々の営みの地の境目。それを緩やかに分断するように、川の水はただゆったりと流れていく。
『とんでもないよ、インターン通るといいね! 頑張ってね!』
そう送信すると、すぐに返信が来た。それから家に着くまで(実を言えば着いた後も暫く)、彼女とやり取りを続けた。
楽しい会話だった。だが彼女の東京での
再会の連絡は、結局返答しなかった。
来年の春には東京にいるかも、わからない。その可能性から、逃避するように僕は言及を避けたのだ。だが暫くは、この生活が続く。出版社で働き、家に帰って次の投稿作品を執筆する生活。僕が二年間続けてきた、お決まりのルーティーン。しかしその崩壊は、あっけなく訪れた。
きっかけは、それから二週間後。七月ながら、日中気温四〇度を超す、暑い日だった。昼前に外回りから戻ってきた、営業担当は滝のような汗を流していた。
対する僕は、外の気温も関係なく、社内で延々とお店のリスト更新業務を続けていた。二年が経っても、一からの企画や新規開拓提案もさせてもらえない(そもそも編集部なので、営業回りはありえないが)。
与えられた仕事をこなしていくだけ。それは契約社員の身としては、悲しい性である。
昼休み、矢島さんからランチに行こうと誘われた。正直リスト作成もまだまだで、炎天下に外へ出たくなかったが、どうしても話したいことがあると言われ、渋々承諾した。
仕事の区切りをつけ、階下に降りると、彼は丁度、電話の応対をしていた。くだけた会話ではあるが、しきりにある場所を強調している。僕が彼をまじまじ見てると、話がまとまったのか、彼は電話を切り疲れ切った表情で、
「カメラマンの坂口さん。機材の故障で、明日の撮影難しそうだってさ。他の機材なら対応できるみたいだけど、さてどうすっかな」
「坂口さん……あぁ、あのカイゼル髭」
一度彼の撮影に立ち会ったことがあるが、随分独特のキャラだったのを覚えている。突然この商品には、水滴を付けた方がいいと言われ、片道二〇分のホームセンターに霧吹きを買いに行ったものだ。
矢島さんは暫く苦虫を噛み潰したような、顔をしていたが、
「まぁ、いいや……飯は無難に、来雷軒でいいか。この灼熱の陽光。少しでも屋外にいたら、ひからびらぁ」
「実は俺来月末で、会社を辞めることにした」
冷房の効いた、中華料理屋の座敷席。テレビ下の、隣に中国雑貨の置かれた卓は、既に僕らの特等席である。
もう何度、この座布団に腰を据えたのか。矢島さんは運ばれてきたお冷を一飲みすると、たんたんと告げた。
「えっ……一体、どうして」
それはまさに、寝耳に水のことであった。彼は一瞬哀愁の表情を浮かべたが、すぐに冷静な顔を取り戻し、
「うちの会社に未来を感じなくなったんだよ。散々業界で取り沙汰されている出版不況。娯楽はスマホの一強で、雑誌や漫画は全く売れない。うちも長年培ったお得意様に、情報誌を売り込んでいるが、それだって限界はある。なのに上司は、地域情報アプリの導入やSNSのメイン宣伝に難色を示している。『そんなことは、会長や古老のお得意様が許さない』と。何が許さないだ! 旧態依然の人らは無視して、若者を取り込まなければ、うちに未来はない! そう散々言い合ったさ。そうしたら、結局これだ」
彼はポロシャツの胸ポケットから、綺麗に畳まれた一枚の紙を取り出した。そこには異動通知と記され、矢島さんが編集部から管理部へ移動と、無機質な文体で記されていた。
「つまるところ、島流しってわけさ。俺のこの会社での夢は絶たれた。あのろくでなしがのさばっている限り、この社に未来はないよ」
僕は黙って、彼の言葉を聞いていた。彼が部長と談判していたのは、度々自分も見たことがある。だがこっちに戻ってからは、彼らの関係は良好で、すっかり仲は修復されたと信じ切っていた。でも実際は既に自分が実家に帰省している間、関係は破綻をきたしていたということか。
「そうですか。ちなみに次の転職先は決まっているのですか?」
僕の問いに、彼はふふっと笑みを浮かべて、
「腐っても首都圏の地域情報誌では、老舗だけあるさ。先日生活情報をWebで展開するベンチャー企業の、中途採用に行ってきたよ。
面接で開口一番、『華仁社』の方なんですねって。たまたま街歩きが趣味の面接官で、割と懇意にしてくれ、おかげで無事採用してくれることになった」
チャイナ服姿の店員が、ランチを運んでくる。一応日替わりと銘打っているが、そのほとんどが過去のメニューの、いくつかの組み合わせであることを、僕らは知っている。
それにしても、いつから会社を辞めることを決意したのだろうか。せめて決断する前に一言相談してくれても、良かったのに。
自分が矢島さんには、心を開き、何度も相談を持ち掛けていた分、なんだか裏切られた気持ちで釈然としない。
不満な表情があからさまに出ていたのか、彼はなだめるように声を和らげ、
「悪かったな、北原。一言も相談せずに、進めてしまって。本当は先月の飲みの時でも、話そうかと思ったんだけど。お前が深刻そうにしている手前、余計に心配かけたくなくて妙に切り出せなくて」
作家になれないことを諭したあの夜、実家の手伝いをするため帰省することを告げたいつかの昼休み、彼はその時既に、自身が別の道へ歩むことを決断していたというわけだ。
その時、俺も会社を辞めるからと打ち明けていたら、どうなっただろうか。結局決断するのは自分である。矢島さんが辞めるなら、僕も。安易に会社を辞める選択肢に誘導しないよう、彼はあえて黙っていたのか。
矢島さんを直視出来ずに、顔を背けると柱時計は一三時四〇分を指し示していた。しまったもうこんな時間か。割と長話になってしまったことに気付いた僕らは、急いでランチを腹へ流し込んだ。
「結局、お父さんの具合はどうだったんだ」
帰り際、陽炎の立つ交差点で、彼は少し含みをもった声音で尋ねた。彼の隣には暑さをものともせず、話に花を咲かせる男子学生がいた。小麦色に焼けた肌に、何か細長い棒を担いでいる、明治大学の運動部だろうか。
「悪くはなかったですよ、ただリハビリに時間がかかるみたいで、その間お店は閉店です」
「そうか……」
それだけ呟き、彼は暑そうに額にハンカチを添える。その後、僕らは黙ったまま、冷房の効いた社内へと急いだ。
八月、テレビの戦争特集を片目に、菓子パンを平らげると、そのままデスクのパソコンへ向かった。
盆休み初日の、既に陽光が照り付ける朝、僕は実家に帰らず、自宅で缶詰をする選択肢を選んだ。
秋の文芸賞投稿に向け、少しでも執筆を進めていこう。プロットは出来ている。後はただ書いていくだけだ。
創作の世界に没頭すること二時間、ふいに手が止まり、現実世界へ戻される。
「ここから先、どう展開させよう」
一〇分程休憩して、再考しようか。僕は大きく伸びをすると、デスク横の古びた張り紙に目を向けた。
『優秀賞、北原龍平様……』
それは高校時代に受賞した、県の文芸コンクールの、賞状である。初めて公に認められた自分の作品。当時は、家族はもちろん知人からも、作家の才能があると随分もてはやされた。
それは中学からこっそり物を書き、ネットに投稿していた自分として、日陰から表舞台へ躍り出た、まさに絶頂の瞬間であった。
だがそれは一瞬の儚さ。以降受験期や大学の四年間に、文芸賞に投稿しても、最終選考漏れが関の山であった。
安定した職に就き、小説は趣味で書いていけばいい。就活の際、そんな思いも頭をよぎった。
だがやはり作家の夢は諦めきれなかった。結局大学四年次も、就活の時間を執筆に当て、なんとか卒業は出来たものの、作家への道は開かれず、今の会社で契約社員の身に甘んじている。
冷え切ったコーヒーを飲み干し、再度パソコンに向き合う。
「これが最後、これが最後だ」
この文芸賞に落選したら、作家の夢は諦め、地元に戻ろう。矢島さんや父親の言葉を思い出し、死に物狂いで再び文章を書き始めた時、
プルルルルルッ
研ぎ澄まされた集中力を切らす、無機質な着信音が後ろのローテーブルから鳴り響いた。
「しまった……スマホの電源切り忘れていた」
なおも鳴り響く着信音に、渋々席を立ち、スマホを拾い上げると、
「矢島さん……?」
プライベートではめったにない彼からの連絡に、緊張した手で応答ボタンを押す。
はたして彼自身も、少し声がうわずっていた。休み中悪いと前置きした上で、
「さっき休憩室で、常務と相談役が話していたのを、小耳に挟んだんだが、下期から大幅に人員整理をするらしい。前に言っていた会社の赤字を、労務費削減でカバーするんだと。談笑程度の話だったが、一応お前には伝えておこうと思って」
普段とは異なる、真剣な声音に、話半分とはとても思えなかった。
労務費削減、それは会社の最下層である僕にとっては、まさに身も蓋もないことであった。良くて減給、悪くてリストラ、僕の心を読み取ったのか、
「下期まで、後一月半。さすがに解雇までは、しないだろう。だがもし事が運べば、確実にお前は影響を受けるだろう」
「どうだ、新しい会社にお前も来ないか?」
ためらいがちに、矢島さんは提案した。普段は頼りがいのあるくせに、いざという時は割と怖気づいてしまう。
不器用だが、僕にとっては尊敬すべき先輩だ。一瞬の沈黙、遠くで蝉の声が聞こえる。久々に彼の声を聞いた。今月の部署移動以降、暫く顔を合わせていなかった。
「ありがとうございます……でも今のところ、そのつもりはないですね」
予期せぬ事態ではあったが、僕の思いは変わらなかった。彼はそうかと呟くと、
「まぁ、あくまで噂だ。実際どうなるか、わからない。でも、もしお前が何かあって、うちの会社に来たい時は、いつでも口利きをしてやる。だから北原、心配するな」
「はい、ありがとうございます。その時はよろしくです。矢島さん」
僕の返答に満足したのか、彼はそのまま電話を切った。そして僕も何事なかったかのように、再び執筆を始めた。盆休み、思いの他小説は進んだ。
そして盆明けの社内、社長から案の定、社の現状とそれに伴う経費削減の一環で、契約社員の減給を通達された。
僕はそれを淡々と受理した。八月三一日、矢島さんが『華仁社』を去って行った。だが僕は会社も矢島さんも、既にどうでも良かった。
日中割の合わぬ仕事を粛々と進め、その他の時間を、全身全霊で最後の執筆作品へ注いだ。