「最終章一節 捨てきれなかった想い」
「龍平君、悩み事でもあるのかい。最近浮かない顔しているねぇ」
閉店時刻を迎え、閑散とした店内。一人変わらず飲み続けている神戸氏は、極めて雑談でもするかのように、僕にこう尋ねた。
「いえ、そんな風に見えますか。ははっ、仕事が忙しくて、少し疲れているだけです」
「本当か? それならいい、いや良くないか、休め……でもなんかわしには、時々思いつめているようにも見えて、どうにも気になる」
「鋭いですね、神戸さん……その眼力、一体どこで養ったんですか?」
「蒲郡の競艇場に通い詰めた男をなめてもらっては困る。まぁ、わしに話せないことなら、無理にとは言わないが」
店内は僕たちの他に、手伝いで来ている日野が外の片付けを行っているだけだ。あれから父は所用と言い繕って、時々僕にお店を任せることが増えた。その実態が代替わりのステップであることは、もはや疑うべくもない。
「りゅーへい、外の片付け終わったぞ! あれ、神戸さん、まだいるんすか? 閉店時間ですよ、ご帰宅くださーい」
店内に戻ってきた日野は、僕たちが話し込んでいるのを見て、目を丸くした。
世話になっている二人に相談するなら今か。僕は日野にこいこいと手招きをし、
「涼、お疲れさん。実はお二人に相談したいことがありまして。その……日本酒でも飲みながら、話しましょうか」
怪訝そうな表情を浮かべながらも、日野は黙って神戸氏の隣に腰を据えた。僕は二人が好んで飲む蓬莱泉をグラスに注ぐと、つまみに自家製えんどうのゴマ和えを取り出し、
「実は……先日、親父からめめだを継ぐよう打診された」
僕の言葉に、神戸氏はだろうなと苦笑いを浮かべ、日野はおめでとう! と祝いの杯を向けた。
「でも、そんなに嬉しそうじゃないな。やっぱり不安か? 大丈夫だって、俺も家の畑を継いだ時は、プレッシャーを感じたけど、働いていく内に、んなもん消えていくから」
日野の激励の語に、水を差すのは忍びなかった。ありがとう、俺頑張ってみるよ、この語が言えたらどんなにか楽か。でも彼らにはもう一つ言わなくてはいけない。
僕はグラスをぐっと飲み干すと、応援の視線を向ける二人を拒むかのように、自分でも驚く程冷たい声で、でもはっきりと、
「その数日後、知り合いからライターをやらないかと誘われたんだ。既に捨てた夢とはいえ、どうしても心が揺れ動いて……」
穏やかな空気が、一転して冷たくなるのを、自分でも直に感じた。神戸氏は見損なったとでも言いたげに、少し呆れの入った表情で、
「ははぁ、龍平君の悩みとはそのことか。気持ちはわかる……でも、書くことはもう止めたんじゃないのか。何のために地元に戻ってきて、めめだで働いているんだ?」
彼の言っていることは正論だ。僕は才能の無さに自ら筆を折り、故郷へ戻ってきた。志穂の提案に、心揺すぶられるのは、未練がましい恥ずべきことだ。それでも、それでも僕は……
「そうですね。神戸さんの言うとおり、僕は既に新しい道を歩んでいる。古き世界の誘惑は断ち切り、親父の打診を受け入れます」
鋭い神戸氏が僕の語を真実かかりそめのものか、どちらに受け取ったかはわからない。それでも彼は納得したのか、気持ちはわかるよ、わかるけどと呟き、会話は途絶えた。その間、日野は黙って僕たちの会話を見つめ、その後の雑談でも、言葉数は少なかった。
「悪かったな、こんな時間まで付き合わせちゃって。明日、朝から畑の苗植えだろ? いいよ、帰って。片付けは俺がやっておくから」
気づけば外は静寂な闇に包まれ、僕たちのいる空間が、ぽっかりと空いた特別な場所のように思えてならない。時計の針は、二二時を少し回ったところだ。
「いや、別にこれくらいの時間なら、全然平気よ。どうせ帰っても寝るだけだし。それに何より、お前の衝撃発言も聞けたしな」
帰宅した神戸氏の、飲みかけのグラスを拾うと、日野はいじわるそうに笑みを浮かべた。
「……悪かったな。もう少し早めに、お前には相談するべきだった」
その笑みさえ僕には眩しすぎて、自然と目を反らしてしまう。もしその笑みに、面と向かえる人間だとしたら、こんなことにも、悩んだりしないだろう。
「そんなこと気にするか……で、改めて話せよ。お前、また文章の世界に戻る気か。そうしたら、この店はどうするんだ!」
突然彼は柔和な表情を消すと、いまだかつてない程、冷徹な顔で僕に詰め寄った。
「おい、お前、過去の自分は捨てたんじゃないのか? 何を今更躊躇っている。未練たらたらじゃないか!」
「違う。違う、そうじゃなくて――」
「何が違う!」
頬を上気させ、一喝した日野は、僕の返答如何によっては、胸ぐらを掴んできそうな勢いであった。
わかっていた、答えは既に一本だったのだ。ただ僕は気づいてしまっただけ。この半年、捨てたと自分に言い聞かせ、それでも心の隅でこっそりと生き続けていた想い。
「ごめん、自分でもわかっているよ。選択肢は一つしか無いってことを……僕は大阪には行かない、親父のめめだを継ぐ。それは今ここで、はっきりと宣言するよ」
僕の言葉に安堵したのか、日野は頬を少し緩め、胸をなでおろす。
「でも、その一方で自覚したんだ。僕は今まで、皆に嘘をついていた」
「嘘?」
そうさ。才能有無如何によらず、僕は捨てきれなかったんだ。中学でその面白さに気づき、県の文芸コンクール受賞時も、年末の最後の執筆時も、一貫して変わらなかった思い。
文章を書くことの楽しさ。それは僕にとってのアイデンティティであり、決して捨てきれるものではないということ。
「今回の件で気づいたよ。僕は文章を書くという思いを捨てきれられないでいる、いや捨てられないんだ。僕と書く事は一心同体、それは中学の頃から培った、いわば僕の生きがいだ」
志穂から提案された際、生じた胸のわだかまりが、今すーっと解消していることに気づく。これまでのモヤモヤは進路の選択では無かった。僕が半年無意識に隠していた、書くということが、表出してきただけ。
ふっと、突然日野が鼻で笑う。それは文章を書いていた、過去の自分と同じ態度だ。気づくのがおせーよ、彼は僕にそっとどつき、
「随分久々に見たよ、お前が楽しげに思いを語るその表情。やっぱりお前は、骨の髄まで、物書きの人間なんだな。うん、俺はいつか再び、お前が文章を書き始めるって思っていたよ」
作家にはなれないだろうけど。日野はけらけらと笑うと、本音が聞けて良かったと述べ、満足そうに裏口へと向かう。
「……ありがとな、涼。お前が道しるべを示してくれなかったら、俺は自分の本当の気持ちに、辿りつけなかったかもしれない」
僕の言葉に、日野は黙ってぐっと親指を立て、出口の扉へ手をかける。直前そうそうと、随分芝居じみた声音で、
「うちの七海だけどな。先日、目標の絵本出版社に内定が決まったってさ。お前に伝えるのは酷だと思ったが、龍平先輩にも伝えてくださいって言われて」
「……そうか、良かった。後で、お祝いのLINEを入れておくよ」
日野は無言で頷くと、今度こそ外の闇へと去っていった。
一人きりになった僕は、一通り片付けを終え、自宅へと帰った。
遅かったじゃないという、母の小言もそこそこに、自室へと戻ると、押入れから愛用のパソコンを取り出す。
多少ほこりをかぶっていたが、拭き取ればその姿は昔と何ら変わらない。高鳴る気持ちを抑え、パソコンを立ち上げると、そのままwordを開く。
真っ白な紙面に、一度躊躇してしまう。それでも一度深呼吸すると、手馴れた手つきでキーボードを叩く。
『たとえ農村の食堂で暮らしても』この一四字だけ記すと、僕は満足げにパソコンを閉じた。




