「第三章四節 岐路」
常緑樹に覆われたベンチは、通路から外れており、行き交う職員の姿も少なかった。僕は来客用のネックストラップを外すと、デミグラス塗れのハンバーグを淡々とかっこむ。
その間彼女は一言も発せず、ただじっと前庭を見つめ続けていた。真っ赤に咲き乱れたツツジの花。そういやツツジの花言葉は、「節度」だったっけ。
「いやまさか、この前はあの場で、あんな姿を見られるなんてねー」
沈黙を嫌ったのか、何かを腹に据えたのか、極めて雑談でも話すかのように、彼女は先日の一件について、重たい口を開けた。
「久々にこっちに戻ってきて、でも仕事のことや家のことがうまくいかなくてね。まるで過去の世界が今の私を拒んでいるように思えちゃって。昔と変わらず、今の私を受け入れてくれる場所ってあるかなって、その時思い浮かんだのが、ダム地の桜」
あの日、満開の桜の下で、杉中志穂は泣いていた。なぜ彼女は泣いていたのか、あの光景が以降僕の脳裏を、まるで古びたシールのように、こびりついて剥がせなかった。
今日折に触れ、彼女の姿を追い求めていたのも、ひょっとすると無意識に、真相を彼女の口から、聞き明かしたかったからではないか。
「そっか。俺も故郷に戻り、四ヶ月が経つけど、いまだに仕事や家のことで悩んでいるよ。この間だって、仕事で大きな壁に直面したから、桜に示唆を与えてもらおうと――」
「ねぇ、龍平」
不意に彼女がこちらを直視する。幼い頃によく浮かべた無邪気な笑みは消え、代わりにその表情には不安と諦めが入り混じっていた。
「あなたはこの街、或いはこの街の人々が好き?」
「私は嫌い……自分の父親も含めて、本当にね」
彼女はぼそっと呟くと、僕の返答を待つことなく、急いで舎屋へと去っていった。
彼女の座っていたベンチ上には、いつの間にやら一枚の紙が置かれている。
『来週金曜の一八時、竹林の桜前に来るように』
書類紙の裏に、こう書きなぐられた文字は、彼女がそこで、何か意思を、或いは決断、をするような気がしてならなかった。
綺麗と思っていた前庭のツツジは、今は原色の奇抜な集合体にしか見えなかった。
配達から帰宅すると、両親が既に遅い昼食を終えていた。洗い物をしている母は僕に気づくと、遅かったじゃないと半ば詰り、
「帰ってきた直後で申し訳ないけど、残りの洗い物済ませておいてくれない。そろそろおじいちゃんの、定期検診のお迎えだから」
「全然構わんよー了解、気をつけて行ってらっしゃい」
僕の言葉に母は安堵の表情を浮かべると、時計を気にしながら急いで部屋を去っていった。
「どうだった、富竹さん、何か言っていたか」
それまで黙って新聞を読んでいた父が、やおら重々しい口調で尋ねる。
「いや、実はこの時期忙しいらしくて、ろくに会話は出来なかったよ」
「そうか、それにしては遅い帰宅だったな、何か別の用でもあったのか」
「うん、まぁ」
さすがに志穂のことは話せず、曖昧に取り繕った笑みを浮かべた。
幸い父は、興味は特に無いとばかりに追求を止め、再び気まずい沈黙が室内に漂う。
「それじゃ、また後で。親父、湯呑だけは、自分で洗っておいてくれよ」
洗い物を終え、部屋へ戻ろうとする僕、刹那父は、おいと声色を変え、
「龍平……実はお前に少し、話しておきたいことがある」
「はい? 一体どうしたの」
僕は少し体をこわばらせ、渋々自席に腰を下ろす。
「実はな、めめだについてなんだが……この際、正式にお前に代替わりしたいと思う」
新聞を折り畳んだ父は、僕の目線を捉え、決意に満ちた表情でこう告げた。
「……いや、そんないきなり」
突然の衝撃発言に、文字通り唖然と言葉を失う。
いや、まさか。最近とみに気力を失ってきたとはいえ、彼の生きがいであるめめだを、僕に譲るなんて。
だが父の表情からは、冗談や躊躇いの色は全く見えなかった。彼は冷え切った新茶をずっと啜ると、
「お前がこっちに来て四ヶ月。少し早い気もするが、俺も気づけば体に支障を来す身になってしまった。思い立ったら吉日とも言う、どうだ龍平、引き受けてくれないか」
「……ごめん。少し、考える時間がほしい。それだけの大きな決断、今ここでは即決出来ないよ」
父の視線に飲み込まれそうになり、半ば目を逸らして返答すると、やれやれと父は肩をすくめ、
「わかった、それじゃ来月の俺の五五の誕生日までに、決めておいてほしい。今年は常連を集めささやかな会を催し、その時に今後についても話す予定だから……三週間も時間があれば、十分だろ」
彼の問いかけに僕は無言で、卓上のテーブルクロスを眺める。父はこれで話は終わりとばかりに、湯呑をそのままに、腰を上げた。
「よろしく頼むぞ」
去り際、父は僕の肩にそっと手を置き、小声で祈るように呟いた。
めったに無い父のスキンシップ、哀願に似た言葉は僕の胸を締め付けた。
肩に伝わった、父の生暖かい手は、死んだ獣に触れたように、暫く不気味に残り続けた。
それから一週間、父と志穂の語に苦悩されながらも、お店は通常通り務めていった。
そして志穂と約束の金曜、その日は夜の営業に少し遅れると母に言い残し(父は出かけていた)、竹林のある寺院へと向かった。
既に一七時は過ぎているにもかかわらず、空は変わらず青いままだ。出荷にこぎつけなかった畑のキャベツの残骸を眺めながら、僕は季節の移ろいを感じた。
(東京で父の卒倒を聞いてから、もうすぐで一年になるか)
夕方の寺院には、墓参りをする老夫婦が何組かいた。彼らの姿に半ば畏怖と恐怖を感じながらも、竹林の道へ入っていく。
青々と茂りわたっている竹林と対照的に、お目当ての桜大樹にたどり着くと、老木は既に今年の役目を終え、枯れた枝を躊躇いもなく露にしていた。
「今日は俺の方が早かったか」
桜にもたれこみながら、寺院前の自販機で買ったメロンソーダを飲み干す。ペットボトルから透けて見える緑の海に、暫く現実を忘れ胸高鳴る別世界を妄想する。
「お待たせ。ごめん、仕事に少し手間取っちゃって!」
僕の夢想世界は、白のブラウスに、チェックのロングスカートに身を包んだ志穂の掛け声で、瞬く間に崩壊した。
現実世界に戻された僕は、その発起人を凝視する。随分大人な雰囲気をまとった彼女は、以前職場で見た懊悩の空気とは全く無縁の存在に見えた。
「いや、別に……それより、何だ。この場に呼び出して、その話したいこととは?」
「うん、実はね、ってか、その前に一つ聞いておきたいことがあるんだけど」
彼女は一つ深呼吸すると、僕に幼い頃によく見せたいたずらっぽい笑みを浮かべ、
「龍平ってまだ、作家になる夢、捨ててはいないの?」
「え?」
一瞬僕は彼女が何を言っているのか、即座に理解出来なかった。
「昔の話よ。十数年前、丁度この場所で、あなた作家になるって豪語したの。私今でも覚えている……結局あの後、すぐに離れ離れになってしまったけど、私、ずっと成就を願っていた」
当時を回顧するように、彼女は大樹を仰ぎ見る。確かに中学三年の夏休み、補修の帰路時にこの竹林で、僕は彼女に自分の夢を打ち明けはした。
(そんなのなれるわけないじゃない!)
だが結とは違い、彼女は笑って僕の繊細な夢を否定した。打ちひしがれた僕は、以降彼女に一度も夢の続きを語ることは無かった。そして暫く経ち、彼女は、親の都合で隣の市へと引っ越していった。
「あぁ、それは覚えている」
僕はなんとか肯定の語を搾り出す。なぜ夢を諦めたことを伝えない。
作家の夢は諦め、家業に全てを注ぎますと。だがどうしてもその語を、彼女には発せ得なかった。
彼女は黙って続きの語を待っていたが、僕に返答の意思が無いことを読み取ると、ふっと息を吐き、
「まぁ、いいわ。今日呼び出したのは、私の話……私、やっぱり大阪に戻ろうと思うんだ」
「えっ、どうして」
自分でもびっくりするくらい、素の驚きの声を上げてしまう。僕の問いかけに、彼女は確信を持った嬉しそうな笑みを浮かべ、
「うん、こっちに越してまだ二ヶ月だけど、やっぱり田舎の地に慣れない……っていうか、大阪の雑踏がどうしても恋しい」
思い出の地で、別の世界を恋しがる彼女に、急に隔たりを感じてしまう。それでも彼女は日頃の思いを吐き出すかのように、
「実は私、前職の看護の仕事、結構充実していたんだ。父の定年ライフに合わせて、辞めざるを得なかっただけで。一応父は大阪に残るって、選択肢も与えてくれたけど……でも今はその選択を行使しなかったこと、本当後悔してる」
彼女は失敗したとばかりに、天然の茶系のショートヘアに手を添える。
「……確かに慣れない生活には苦労するだろうけど、それでもかつて暮らした、土地じゃないか。住めば都、もう少し我慢しても悪くないんじゃないかな」
僕の言葉に、彼女の瞳がゆらいだ。だがそれは一瞬のことで、すぐに毅然とした表情に戻り、
「そうね、確かにこの地の人々は優しいし、美しい自然は満ち溢れている。でも既に龍平には判別出来なくなっているのね。彼らは外から来た私には随分排他的で、この地がどんなに、時間がゆったり動いているのかを」
「別に龍平の地元を悪く言うつもりなんて、毛頭無いわ。ただ私は数ヶ月過ごして、やっぱりどうしても耐えられない」
僕は志穂の言葉を聞き、彼女が既にこの地の人間では無いことに、心底がっかりした。
幼い頃の彼女は僕と同じ、この地の恵みを受け、育っていった。しかしこの地を離れ、大阪で過ごした時間、そちらの方が彼女には影響が大きかったのだ。良し悪しの問題ではない、ただそれだけである。
僕はかけるべき声を持ち合わせていなかった。沈黙する僕に彼女は、その上でもう一つ、今度は頼みがあると言い、
「私の看護師仲間が、前職の補充を求めていて。それで大阪に戻ろうって魂胆なんだけど……実は彼女のお兄さん、在阪の出版社に務めていてね。文章のかける文芸ライターを探しているんだって。どう、もし昔の夢、潰えていなかったら、私と一緒に大阪行かない?」
衝撃の一句に、僕は文字通り開いた口が塞がらなかった。熱心に誘う彼女の目は、東京にいた人々と似たような、燦然とした輝きに満ち満ちていた。
桜の前で語った夢が、歪ながら一〇数年越しに実現しようとする。文芸ライター、捨てたはずの僕の創作の感情が、今新たに芽吹きつつあるのを、恥ずかしながら感じずにはいられなかった。




