「第三章三節 父のいない夜」
執筆再開です。またぼちぼち書き進め、投稿していきます。
エネルギーをチャージするはずが、厄介の種が生まれてしまい、憂鬱な状態のまま、僕は山を下りた。
それでも港へと戻ってきた頃には、さすがに気持ちを切り替えていた。再び蘇る緊張感。
「よし、夜の部も気合いいれていくか!」
自宅に戻ると、着替えを済ませ、お店へと舞い戻る。途中祖父の寝室を横切る際、大きないびき音が聞こえた。久々の店捌きが応えたのだろう。さすがに夜の手伝いは、望むべくもない。
厨房に入ると、大将の証である父の割烹着を身に付け、再び夜の準備へと取り掛かる。
夜に売れる一品料理の準備をし、酒屋から届いた、地元の銘酒「蓬莱泉」を補充する。
一八時半、開店の暖簾を掲げると、例の如く常連が店内へとなだれ込む。だが驚くべきは、その数である。通常は数組の来客が、今日はいきなり五~六組。しかもその客は皆、口を揃えて日替わりを注文する。
「龍平君、あんた凄い料理作ったんだってぇ」
開店数十分後、いつものカウンターに神戸氏が腰掛けると、彼はニヤニヤと僕を見つめた。
「どっから仕入れた情報なんですか。ってか何すか、その凄い料理って」
「ほれ、そこの大きな釜。日替わりの炊き込みのことだよ。お昼に食べた客が、喧伝してたらしいぞ。今日の日替わりは、類まれなメニューだって」
なるほど、噂が噂を呼び、この人ってわけか。料理人冥利に尽きるが、正直そこまでの具材が用意出来ていないという事実。何より、この客の量、くそっ、じいちゃんを起こすべきか。
初めは神戸氏の軽口に付き合う余裕もあったが、続々と訪れるお客に、いつしか目先のことのみしか集中出来なくなっていた。
「……おい、龍ちゃん。わしも手伝おうか、さすがに一人でこの人数は捌けぬ」
血眼になっていた僕に、神戸氏は哀れみ、手を差し伸べる。だが僕は、妙なプライドが邪魔をし、丁重に断りを入れた。
すると彼は悲しそうに目を背け、
「そうか、それならせめてもの手助けに、今日は退店することにしよう。無理しすぎてはならんぞ、人間一人が出来ることなんて、限られておるんじゃから」
彼は千円を卓上に置いていくと、目立たぬように表を去っていった。だが僕が彼の真意を穿つ暇など無かった。
「おーい、兄さん! こっち日替わり、まだ来んのか!」
「はーい、この後向かいます!」
揚げ上がったコロッケを皿に載せ、先にミックスフライ定食を頼んだ卓へと向かう。しかし待ち受けていた客は、訝しげにメニューを見つめ、
「いや、俺ミックスフライ頼んでないっす、確か鮭の塩焼きを」
「申し訳ありません、早急にお作り致します!」
「おーい、ミックスフライはこっち! 俺の方があの人より遅かったけど、出来ているなら頂戴よ」
「何! おい、順番ならこっちのが先だぞ! 早く日替わりくれよ! どんだけ、客を待たせてんねん」
瞬間、頭がパニックになる。大丈夫、少しミスをしただけ。決して一人で捌けぬ客量ではない。そう言い聞かせ、厨房へと向かうも、心が思いに追いついてくれない。
そう、まるであの時、報われない結果と予期しながら、抗うように文字を書き続けていたあの頃のように……
「大変お待たせしました、鮭の塩焼き定食になります」
先ほど間違えたことを伏して侘び、メニューを渡すと、部活帰りらしいバスケ部君は特に気にすることもなく、メニューを受け取った。
ふと横目に日替わりの客を見やると、彼は露骨に僕を睨んでいた。蛇に睨まれた蛙、いけない早く炊き込みをよそわなくては、はやる思いに、体が一歩でも早く厨房へと向かう。
刹那、僕はホールと厨房の境目で、思い切り転んでしまった。ステーンという擬音がうってつけの、随分派手な転び方。幸い体に損傷は無かったが、客に自身の限界が伝わるには十分だった。
厨房近くの、客席の男性が驚いた表情で、駆け寄る。僕は彼に大丈夫とばかりに、手を上げるが、足は小刻みに震えが止まらない。
「すいません、ご迷惑おかけしました! 少し足がもつれてしまい……大丈夫ですので、ご心配無く!」
お客様に安心してもらおうとホールに出るが、視線の先には呆れと心配が入り混じった人の目。耐えられずに、厨房へと逃げ込む。頭の中は恥と混乱の渦、とても仕事を再開する余裕を取り戻せない。
「くそっ、一人は無理があったか……」
ガラララッ
新たな客の訪問音が店内に流れる。
「いらっしゃ――」
聞こえるべくもない、絞り出す声。だが訪問客は顔なじみなのか、つかつかとこちらへと向かう。
「よっ、神戸の爺さんから聞いたぜ! お前、今日一人で店の切り盛りだってな」
「さすがにこれだけの客相手に、一人は無茶だ。たまたま俺らも休みだったし、助太刀するぜ」
ひょっこり顔を見せた、日野と下田は、この場の空気を読み取ったのか、苦笑いを浮かべた。
僕は負い目で一杯だった。だが目先のプライドに構ってなど、いられない。
「お前ら、ありがとう……そして早速ですまないが、二人は接客とレジを頼む。あそこにほら、予備の割烹着があるから、手を洗って」
いきなりの指令にもかかわらず、二人は合点とばかりに、洗い場へと向かう。
二人に依頼してからは、切り替えが早かった。僕は二人が抜けた隙に、ぐっと涙を拭き取ると、中断していた料理の制作に取り掛かった。
足の震えはいつしか止んでいた。
時計の針は、二〇時を少し回っていた。気だるげな空気に覆われた店内。重い腰を上げ兼ねる客がまばらにいるが、僕は気にせず、溜まった洗い物に取り掛かる。
「龍平、これは捨てちゃっていいのか」
下田が、大鍋に残された味噌汁を、指し示す。僕は明日の朝、家の朝食にするからと返答し、油まみれの揚げ皿に洗剤を注ぐ。
「たーてのいとーは、あーなたー!」
「よー……そこのわけぇっの!」
カウンターの一角には、父の飲み仲間と日野がほろ酔い気分で、季節はずれの歌合戦を繰り広げていた。
閉店と同時に、彼らを退店させるよう、指示したはずが、どうやら彼らにうまく丸め込まれたらしい。
「日野、すっかり出来上がっちまったな。ったく、言い出しっぺのあいつが、飲まされるとか本末転倒だぞ」
厨房の片付けを一通り終えた下田が、呆れ顔で彼らを見つめていた。その表情は、まんざらでもなさそうだった。
「あぁ。でも、今日は本当にありがとう。お前らが来てくれたおかげで、後半の一時間を乗り切れたよ。本当感謝しても感謝しきれない」
泡に塗れた割烹着を外し、再度感謝の意を伝えると、彼はむず痒そうに、首をかしげ、
「いや、俺に言うなら、日野……いや、神戸のじいさんに伝えろよ。鉢合わせした日野に頼みこんだらしく、それで日野が俺に」
「へぇ、神戸氏がそこまで気にして」
きっかけを作った神戸氏には当然感謝するべきだが、それよりも二人がこうして駆けつけてくれたことが、何より嬉しかった。
彼らとは、地元の仲の良い同級生、という認識しか持ち合わせていなかった。時々会って遊ぶ、利害関係のある付き合い。
だが今回の一件で、困った時には助けてくれる、そう、キザな言い方だが、強い絆を確かめずにはいられなかった。
困った時には無償で協力する、果たして矢島さんなら、割烹を着用してくれただろうか。この時僕の心に初めて、田舎の人の素直さが、温かく染み渡った。
二人の来訪が無ければ、あのまま営業は停止していただろう。炒めた左足首をそっと撫でる。
「龍平、明史、お前らも一杯付き合えよ。ほら、無事仕事を終えられました記念」
頬を染めている日野に手招きされ、僕らは顔を見合わす。
「片付けがまだ終わってねぇんだよ、ったく。一杯だけな」
今日の礼も兼ねて、卓上へと向かうと、四人で改めて乾杯を捧げた。
「かんぱーい、きみはいまっ!」
結局一杯だけのはずが、杯を重ね全員酔いどれ、片付けは翌朝二日酔いのまま進めたことだけ付記しておく。
こうして母が帰ってくるまでの三日間、日中は祖父、夜は日野の力を借りて、お店の切り盛りをどうにかやり遂げた。
父が退院し、現場に復帰したのは一〇日も後のことであった。病気が再発したわけではないが、父は以前よりさらに気力を失っていた。
確かに僕が一人でお店を切り盛りしたことに、父は大層喜んでくれた。だがそれ自体が、僕にはなんとも不気味であった。
父が復帰して一週間後の月曜、僕は弁当配達のため、市役所へと向かった。
「龍平、富竹さんに、よろしくと言っておいてくれ」
弁当の配達は、父と懇意の市役所生活課、富竹課長の図らいによるものだ。僕がこちらに来てからは、毎回母が担当していた。だが今回父は、僕に声をかけた。
「了解、んじゃ行ってくる。お店、よろしく」
神戸氏や既に親しくなった父の常連に見送られながら、ワゴンを走らせた。
昭和の面影を残したショップ街を越え、坂を登ると市役所の庁舎が姿を現す。赤レンガの在り来りな建物。館内では、その世界に何ら疑問を抱かない職員が、あくせくと仕事に精を出している。
「こんにちは、めめだです。弁当の配達にやってまいりました」
受付で手続きを済ませると、お目当ての生活課へと案内される。
春の陽、差し込む館内を、一昔前の淡いピンク制服の職員に案内される。給湯室、ボックス電話、紙コップ自販機。幼い頃に社会科見学で来た時と、何ら変わりはない。この建物には、変化の空気は二酸化炭素並みに希薄なのかもしれない。
「こんにちは、お弁当の配達です!」
生活課の扉を開けると、パソコンやスマホに目を走らせる職員がいて、なんとなく安心した。だが古びた庁舎に囲まれ、デジタル機器を使いこなす職員は、幾分奇異に感じてならなかった。
「あー、龍平君! 今日は君が来たんだね! 丁度今、新生活の忙しい時期で……申し訳ないけど、弁当そこへ置いておいてくれないか?」
文字通り書類の山に目を走らせる富竹課長は、申し訳なさげに僕に頭を下げると、再び書類へと目先を戻した。
「わかりました! こちらに、置いておきますね」
空いている応接カウンターに、人数分の弁当を積むと、邪魔にならないよう、ひっそりと課を後にした。
軽くなった腕を伸ばし、出口の階段へと向かうと、視線の端に「福祉課」の横看板が見えた。
「そういや、志穂がいるのは、福祉課だったっけ」
一瞬ちらっと、様子だけでも覗いてみようか。そんな邪な気持ちが芽生え、開け放たれた窓から中を伺う。
しかし期待虚しく、中はもぬけの殻だった。
「ここの部署は、昼は外か」
別段どうってこともないはずが、心底損した、ある種宝物を取り逃がしたような、そんな気分に陥った。
途端に今いる空間が、陳腐で大層つまらないものに感じられ、僕は駆け足で階を降りた。
「ん?」
階段の踊り場、ふと室内を明るく照らす大窓に目を向けると、中庭で憩いのひと時を過ごす職員がちらほら見えた。その向かって左端、木陰に隠れたベンチの右脇に志穂の姿が見えた。
先輩か、隣にいたべっ甲メガネの女性に頭を下げると、彼女は一人こちらへと向かってくる。
僕は周りの職員に訝しがられないよう気を配りつつ、急いで階を降りた。好都合にも階下は中庭の通路へと繋がっており、彼女よりも先に庭の入口へ辿り着く。
向かってくる彼女は僕に気づかず、熱心にスマホを見つめている。
「よう、中庭でのんびりお昼休憩か。いいな、気分転換にもなりそうで」
恐ろしく心臓が波打つ。それでもなるべく平静を装い、僕は彼女に言葉を投げかけた。
スマホから目を話した彼女は、一瞬きょとんと僕を見つめたが、即座に事態を理解し、狼狽の色を浮かべる。
「えっ……なんで、龍平がここにいるの!?」
「これ、福祉課の人たちに、うちのハンバーグをお届け」
なるべく自然体に、携えた余りの弁当をゆすると、彼女はうなずき返したが、秘密を暴かれたような、バツの悪そうな表情は変わらなかった。
「丁度帰るところだったんだけど、たまたま志穂の姿が見えてね。もうお昼食べたんだっけ? 一緒にお弁当食べない?」
警戒の色を変えない彼女は、そのまま走り去っても何らおかしくはなかった。随分長く感じた黙考時間。ふぅと彼女は息を吐き、
「わかった。お昼はもう食べちゃったけど、そこのベンチに座りましょ。休憩はまだ二〇分程あるから」
先ほど座っていたベンチに、苦笑混じりに僕を促した。




