「第三章二節 桜の樹の下にて」
それから二時間、初の一人切り盛りは、どうにかこうにか昼の部を無事、終えられた。
課題は多くあった。来店したお客のほとんどは常連で、父がいないことを知ると落胆し、中には退店していく客も少なくはなかった。
父の影響力をまざまざと実感させられた。また通常メニューでも「いつもと味が劣る」と何回かお叱りの言葉を受けた。
「龍平、ホールの方は、片を付けたぞ」
「あぁ、ありがと、じっちゃん。本当に、今日は助かった」
客の入りは少なかったものの、昼のピークはさすがに、一人大忙しであった。そのタイミングで一平が、ひょっこり厨房に顔を覗かせた。血走った表情の僕を見つけると、以降現役時代を彷彿とさせる動きで、手助けしてくれた。
「なんの、これしき。どうせなら夜も、手伝おうかの! そのために体力温存じゃ、わしゃ少し一寝入りする」
一方的にこう告げると、僕の返事を聞かず、祖父はきびきびとした足取りで、裏口から去っていった。
「……やれやれ」
祖父の使ったふきんを消毒液に漬けると、その隣にある、大釜の炊飯器を見やった。
昼の部、日替わり定食は、通常の倍程の売れ行きであった。注文した客は軒並み高評価で、祖父の提案とはいえ、自分の手がけた料理。心の底からいいようのない、達成感が沸々と湧いてきた。
ブッブッ!
不意に尻のポケットからスマホのバイブ音が響く。取り出すと、案の定、母からの着信だ。
「……もしもし」
「どうだった、何かやらかした?」
「開口一番、その言葉かよ。大丈夫、じいちゃんも手伝ってくれたりして、滞りなく終えられたよ」
「そっ、なら良かった。こっちも、お父さん、今小康状態。ただ今日は病院で夜を過ごしそう。お店、夜もやるんだよね」
「もちろん、そのつもりだけど」
僕の返答に母は暫く言葉を渋っていた。やがて絞り出すように一言、
「あんた、気付いてないかもだけど、随分成長したね」
こう呟くと、電話は切られた。成長した、この僕が? まさか、僕は親への償いと、新たな唯一の生きがいである「めめだ」を守り抜こうとしている、ただそれだけではないか。
成長などと進展しているのではなく、現状を失わまいと、必死に食らいついている。そう思いながらも一方、母の褒め言葉は純粋に嬉しく励みになった。
後片付けを終え、簡単なまかない飯で昼を済ませると、僕はそのまま外へと繰り出した。
普段なら夜の準備まで、家でだらだら過ごしているが、今日はとてもそういう気は起きなかった。
春の麗らかな陽気に包まれた、海街の昼下がり。漁港には、穏やかな波に揺られ、役目を終えた漁船が上下運動を繰り返している。
さて小一時間、どこをほっつき歩こうか。
堤防に腰を下ろした僕に、ピンと閃く場所があった。
(そうだ、この時期、あそこはきっと)
それまでの行き先を変えると、僕は南へと歩を転じた。そういえばこの時期は、ずっとこっちにいなかったもんな。
学生時代(一応春限定だが)、迷いの生じた時に、その道標を示してくれた、思い出の場所。たぶん今でもその場を知っているのは、僕たちだけのはずだ。
静まり返った海辺に、ウミネコがのんきにミャアミャアと鳴いている。
国道を過ぎると、そこを境界とするかのように、潮の香りは消え失せ、代わりに農作業に従事する人が多く目立つようになる。
それまで一人、変哲もない世界に取り残されたように感じた身として、どこか少しほっとする。
彼等は春キャベツの出荷に勤しむ傍ら、ブロッコリーやトマトの収穫にも精を出している。
「おっ、龍平君! お店の調子は順調かい?」
突然畑から、大声で自分の名を呼ばれ、面食らう。声の先を見つめると、父と懇意の取引農家が、笑顔で手を振っていた。
「今のところ、順調です! またお時間のある際、是非いらしてくださーい!」
僕が大声で返答すると、彼は両手で丸を表現し、再び農作業へと取り掛かった。
町の外れの寺院を抜けると、地元の山頂へと繋がる、山道がある。僕は暫く歩くと、それまでの道のりから逸れ、小さな裏道へと入る。
幼少期、春休みの山登り行事で、僕たちがこっそり、見つけた場所だ。
あれから僕は、春になると一回は、必ずここを訪れていた。一人になっても、自分の夢を叶えるべく、東京へと進学するまで。
竹林から優しい木漏れ日が差し込むが、地面はぬかるみ、うまく進めない。不意にバランスを崩し、転倒する。
「っ、あぶねぇ。こりゃシューズを履き替えておくべきだったか……ん?」
地面を見た僕は、そこに真新しい靴跡があることに気付く。
既に先客がいることに、若干苦虫を噛み潰した気分になる。裏道とはいっても、ほんの歩いて数分。僕たちだけの秘密の場所とは、今ではとても考えられない。
それでも今日は、一人で堪能したかった。
ふいに視界が開け、ダム地に辿り着く。その脇にそびえ立つ、満開のしだれ桜。
「あっ」
その桜の樹の下で、まるで魅惑に憑りつかれたかのように、微動だにしない先客がいた。
僕は苦笑いせずにはいられなかった。ここまでくると偶然ではなく、何か因果めいたものを感じてしまう。
「昔と変わってないな、ここの桜は」
僕の掛け声に、彼女はびくんと肩を震わせ、恐る恐るこちらを振り返る。
その表情に、今度はこちらがぎょっとしてしまう。彼女、杉中志穂の目からは涙があふれていた。そう、まるで彼女の幸福を桜に奪われ、その代償として不幸を一身に背負ってしまったかのように。
僕が怯んだその隙に、彼女は右袖でぐっと涙をぬぐうと、一目散に元来た道へと駆け出してしまう。
「あっ、おい、志穂!」
気づけば、僕は無意識に叫んでいた。だがそれを追おうとはしない。それは彼女への憐憫の情なのか。幼馴染を助けたいという正義感なのか。
だが彼女は立ち止まらなかった。変わらぬ歩調で、やがてその視界から消える。
僕は茫然と立ち尽くすしかなかった。その後ろで満開の桜は、妖艶な彩りを浮かべている。
その姿は、かつて僕に示唆を与えた母子的存在からは程遠い、余所者に破滅をもたらす
負の精霊にしか見えなかった。




