序章
第二部になります。
暖かな光景が広がる。
それは日だまりのように優しく、触れれば溶ける儚さを想起させた。
目に映ったのは、侘び寂びを体現した緑豊かな庭園だ。鶇がさえずり、池には鯉が回遊している。
何故か心の休まる雰囲気だ。
正午だろうか、日差しが眩しい。空は晴れて雲ひとつない快晴だ。
──違う。
赤雷はそう思った。
何時だってそばにあったのは、汗と泥、そして血に塗れた修行の上に成り立つ日陰の生活なのだ。それが全てだ。
だが、それは違うとも思われた。
(果たして本当にそうなのか……)
その疑問は、庭園で戯れる女性と、少女を目にして発せられた。
二人は赤銅色の着物に身を包み、池の一角で鯉の餌付けに興じている。交わされる談笑に一拍おいて、笑顔が咲く。
これまでは本当に、空しいだけの時間だったのか。それとも、幸せな時間があって、今までのこと全てが幻なのか。
考えれば考えるほど判然としない、浮遊感にも似た感覚だ。
初めて他人と触れた、或いは初めて人を斬った感触。
夢ではない。
経験は、幻想ではない。それは全て、覚えているものなのだから。
思索に耽っていると、女性が赤雷に手招きをはじめた。どうやら、赤雷が居ることに気付いたらしい。
近寄って行くと、奇妙なことに思い至る。
女性と少女は、一様に目を細めて楽しげに笑っている。
しかし、肝心の話していることは分からない。口が動いているのは分かるのだが、内容はひどく朧気で頭に入っては来ないのだ。
赤雷は今、自分が視ているものに対して理解する。
──ああ、これは夢なんだ。
導き出すのも忌まわしい答えだった。
現に今、この時にしたってそうだ。
夢であると思い否定しつつも、それを甘受している自分がいる。反吐が出るほどに嫌気がさした。
──現であって欲しい。夢ならば、醒めてくれるな。
そんな救いようのない心算があったことには相違ない。
幸せなはずのそれは、もはや責め苦にも似たものに見えた。
──それならばいっそ、覚ましてしまえ。
急速に意識が鮮明になっていく。
修行の成果でもある。勿論、それは戦士としての心構えのひとつである。赤雷とて完全に寝入ってしまっていては、寝首を掻かれかねないからだ。
眠りが浅いのはあるが、仕方のないことだ。そうして割り切ろうとした刹那──
ふと、覚醒の間際にみた妻の顔は、どこか寂しげな顔だった気がする。
夢が完全に醒めるその瞬間に、赤雷はありもしない胸の痛みを覚えると、胸に手を添えた。
「──っ!?」
そして、赤雷は目を覚ました。
見渡して目に映るものは、庭園ではなく古びて寂れた家屋の中だ。部屋の片隅には蜘蛛の巣が張られており、そこかしこには細かな亀裂が走っている。
先ほどとは打って変わって退廃的な光景である。
ここは王都より南へ五十里に位置する貧民街──デポトワールと呼称される町──であり、赤雷にとっては見慣れた風景が建ち並ぶ。
それは、塗料が剥がれて割れた白亜の外壁であったり、掘っ建て小屋のような外観の住処などが軒を連ねている景観だ。
通りへ視線を寄越せば、ローブを目深に被る者や強面の破落戸などが往来している。良識なぞ持ち合わせぬ類の人種だろうことは明々白々だと、空気が物語っていた。
そこまで意識して気付く。
座り込むようにして寝ていたせいか、膝に立て掛けた得物の柄がずれ込んで赤雷の顔に当たっていた。
嘆息し、静かにそれを持ち上げると窓の縁へと腰掛ける。
同室のシガールが悲痛な声色で喚いていたが、今の赤雷には届かない。
水袋へと手を伸ばし、それを一息に呷る。
──月か……久しぶりに見たな。
胸が疼くと同時、大きく息を吐く。
見上げる月は、見事な三日月だ。けして細くなく、美しさを損なうことのない絶妙な大きさで淡く夜道を照らしている。微風が涼やかに肌を撫でていく。
それすらも、風流とは思わない──否、思えない。
(あの時も、こんな夜だったか……。 今夜は、もう眠れそうにねえな)
──奇しくも赤雷の妻が、娘が死んだ日も三日月の綺麗な夜だったからだ。
そこでふと、夢の中で見た妻子の顔が浮かぶ。それは自身を責めていることに因るものか、この先を憂いているからなのか。答えの出ない問答を繰り返し、彼は朝を迎えた。




