老剣士推参
お伽噺という物が有る。それは、子供らの枕元にて語られる史実や故事、神話のお話。摩訶不思議で、友情や愛情が持てはやされる、あまりに美しく眩い物語。
それら物語は基本的にほぼ必ず正邪が存在し、大抵の物語は勧善懲悪を前面に押し出して幕を閉じる。
そして、かつてこの大陸において実在した英雄と、その対極に位置する者が在った。
英雄は聖剣の担い手で、騎士でもあった。
悪の権化たる英雄の好敵手は、魔剣の遣い手であった。
物語の終局は、正義の勝利で悪の化身は無惨に討ち滅ぼされるという物だ。
──それが、シエル王国王立図書館の歴史書に記される史実とされている。
しかし、今昨となっては魔剣や聖剣の担い手となりうる人物など、夢物語に過ぎない。まやかし物として認識されることがほとんどだ。
何故ならば、それらは全て《魔導具》に分類されている代物である為だ。《魔導具》に精通しているのならばいざ知らず、それらは到底素人の手に負える物ではないのだ。
だが、大陸の隅でまことしやかに囁かれる、実在したとされる魔剣士の噂が有った。
大抵の伝承が示す物は、眉唾ものか、多少の噂に尾ひれが付随してくるものだが、その話は違っていた。
「そいつと一戦交えた」と、そう嘯く人間達が居たのだ。
曰く、化け物。
曰く、お伽噺以上にイカれてる。
曰く、一騎当千。
曰く、伝説以上。
──等々。
彼らが話すことは常軌を逸しており、正気ではないのかと疑われた。
それにしては状況説明は克明であり、真に迫っていた。
ましてや証言者は全員、騎士または戦士として国に仕える者達だ。
戦闘、即ち荒事に関する経験をもっている。だからこそ滅多なことでは驚きもしないし、喚き立てることもない。
また、複数人が同様の幻覚を、それも一度に見ることはない。
つまり、その話には信憑性があるということだ。様々な者が同じことを、口を揃えて語るからこそ、真実味が増すのだから。
それらのことから導かれる答えはただひとつ。そんな彼らを震え上がらせ、畏怖させるだけの“何か”がいたこと。
──それだけは確かだ。
そこは林だった。鬱蒼と茂る木々の間から夕陽が微かに差し込む。木漏れ陽が僅かな明かりとなっているが、それだけだ。余程注意深く足を進めなければ足を取られかねない暗さである。
そんな場所に一人の少年と、数人の男達の姿があった。
少年は幼く年は五つか六つといったところ。紺の美しい髪はほつれ、服は無惨に裂けて肌が露出している。それが何処か痛ましげな雰囲気を放っていた。
──だが、手にした一振りの長剣が倒錯的で歪んだ雰囲気を醸す。
対して男達は武装しており、槍や刀剣に革鎧といった装いだ。
どうやら双方互いに対峙しているらしく、穏やかな雰囲気で無いことは傍目からも明らかだ。
少年は身を低くして剣を構え、突撃の姿勢を取る。
それは剣の扱いを熟知しているものとは言えなかった。
的確に言うなれば、剣を胸の高さまで持ち上げた。ただそれだけの格好だ。
少年の全身に震えが走り、鍔が鳴る。
すると、対峙している者から声があがる。
「おい、くそ餓鬼。 せっかく拾った命を捨てに来たのか?」
「子供のごっこ遊びじゃねぇんだぜ?」
男達からは下卑た、耳障りな笑いが上がる。
少年はその言葉に一言も返答しない──否、出来ない。
持ち上げた得物は、無骨ながらも業物を思わせる長剣一振り。
しかし、それは思った以上の重量であった。
それはさながら、そこに本来の重さ以上のものを担いであるかのように。
「これは人殺しの道具なのだ」
──と、そうして無言の主張をする剣は、鈍く輝きを放つ。
──だが、
「……俺は!! 俺は、仇を討つんだ!!」
彼の頭の中の大半を占めていたのはそれだけの、感情。
吠えるように叫んだ。震えを、迷いを振り払おうとしたのだ。
ついに少年は駆け出して、力任せにそれを振るう。
だが、半ば及び腰の状態であるそれが当たる訳もない。
「ははは、当たらねぇな」
「こっちだ、こっち」
男達は口々にはやし立てた。
そして決死の突撃を嘲笑うように軽快な足取りで回避する。何時までそうしていただろうか、遂に男達の一人が長剣を抜き放った。
「いい加減にしろ、鬱陶しい!!」
少年にしてみれば決死の突撃を、かわす素振りすら見せずに、男は交錯する瞬間──その手に鈍く輝くそれを突き出す。
少年は既に体力の限界だった。当然だ。剣を手にすることは生まれて初めてな上に、それを力任せに振り回したのだから。しかも、剣の心得がある男達に対しての行動だ。無意味に体力を浪費した身体は自分のものではないかのように、執念だけで動いていたのだから──
──だからこそ、回避は不可能だ。
「──しまった」
少年は辛うじてそう口にしたが、その時は既に手遅れだった。
(あぁ……死ぬんだ俺)
一瞬、そう思った。
それは諦観に近く、自身の無力を嘆く感情があった。
(……ちくしょう、俺は……俺は──!?)
彼の目に映るもの全てが緩慢に進み──目の前で嘲る男の手にする凶刃、その切っ先が少年の腹を破り、深紅の大輪を咲かす。
吐血し、瞳に浮かぶ雫が頬を伝いそして堕ちた。
寂れた様であっても、町を行き交う人々の賑わいは聞く者達をも陽気にさせている。
先程から聞こえるのは商人や宿の者の声だろうか。熱心な客引きの声が響き渡る。
小さな宿場町だが、人々は気さくで活気を感じさせる明るさを見せていた。多少口調が砕けてはいるものの、憎まれ口が飛び交うことがない様子からも、それは窺える。
そんな賑やかな広場の片隅に唯一、活気などとは縁遠い男が居た。
みすぼらしく、使い古した雑巾の様な黒いぼろの外套を纏った男だ。
袖口から覗く肌は、しわがのたくっており、手足は枯れ木と見紛う程に細く痩せている。
その顔には、整っていた顔立ちの面影が窺えるが、その眼窩は落ち窪んでいて、死神さながらの不気味さを漂わせていた。
(少しばかり賑やかよな。 昔を思い出す)
彼の周囲には誰も居らず、たまに通りすがっても居ない者とみなされている様だった。
彼自身には、もう家族は居ない。
友人も子供も、既にこの世から去っていた。
しかし、その心に悔恨はない。丸一日むせび泣いて、悲しんだ時期もあった。それすらも、今では遠く懐かしい思い出のひとつとなっている。
言い方は悪いかも知れないが、それでも良い人生だったと思うからだ。
(このまま微睡む様に終わることが出来れば……)
──と、そこまで考えた時である。
近くで怒号が響く。
「大声を出すなよ、このガキを殺すぞ!?」
「騎士団や自警団にも連絡しようとするんじゃねぇぞ!?」
一瞬訪れる静寂。
そして男達の野太い声が、賑やかだった昼下がりの広場を一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝へと変えた。こういった事件というものは基本的に何処でも起こりうる。自警団や騎士という犯罪の抑止はあるが、彼らも万能ではない。
(……静かに人生を全うすることすら叶わんのか。 ……まったく、どこの馬鹿だ!?)
恐怖に凍り付き、半狂乱となった民衆の声はいやに甲高く、男にとっては耳障りだった。内心でぼやき、気が付けば舌打ちをしていた。自然と眉根はひそめられ、眦は吊り上がる。
ゆったりと身体を起こし、目を開いて状況を確認する。
視線を巡らせた先に映ったのは、三人組の長いローブを纏った男達だった。
それぞれ肉切り包丁のような大型ナイフを携え、そのうちの一人が年端も行かない少女に凶器を突き付け、盾としている。どうやら人質は行商人の子供らしく、着ている服も相応に小綺麗な物だ。そして母親とおぼしき女性と盗賊らしい男が押し問答をしている。
「……ふむ」
男はややあって、一つ頷く。
そして傍らに立て掛けてある、布にくるまれた棒状の物を拾い上げ、外套姿の男はゆっくりと自然な動作で立ち上がる。
「あ、あぁあ……」
少女が恐怖にすくみ、言葉にならない声を挙げた。
「おい、あまり動くなよ。 下手に動くと死ぬぜ?」
それをものともせず、男は少女を恫喝する。
慣れている様だった。
それを見るや、母親とおぼしい女性が震えた声で言った。
「どうか、どうかその子だけはお助けを……」
「それなら、今すぐに金を出せ!! てめぇに出来るのはそれだけよ!!」
野盗に対して母親は懇願にも近い態度で近寄った。
「そんな……今、売上金はあまり無いのです。 どうか御慈悲を……!!」
「うるせぇ!!」
何かを殴り付けるような鈍い音がして母親が体勢を崩した。
どうやら痺れを切らした一人が女性を殴ったようだ。
女性が倒れ込み、青果売りだったであろう店の商品が辺り一面にぶちまけられた。一拍遅れて観衆から短く悲鳴が上がる。
「お若いの、どうかその子を離してはやれんか?」
何時しか外套姿の男は前に出ていた。
民衆からは野次が飛んでくる。主なものは男の行動を引き止めようとする声と、それを煽動する声だ。
彼は辟易としながらも態度に出さず、観衆に背中を向けている。
すると一人が声を低くして凄んだ。
「何だ、浮浪者のじじいか。 なんの用だ、物乞いにやる金はねえぞ?」
「なに、老婆心とでも言えば良いかの? 兎に角、割りに合わん事は止せと言っておる」
外套男がそこまで言った所で盗賊達から笑いが起こる。
「はっはっは、何を言い出すかと思えば説教か!? こりゃあ傑作だ」
「変な奴だとは思ったが、面白れぇじじいだ」
盗賊連中がひとしきり笑った後、含み笑いにも似た気配を以て口を開く。
「……さて、いい加減に笑い終わったかの? まさか刃物を抜いて、ただで済むと思ってはおるまいの?」
「…………」
外套男のその言葉によって男達の目が据わる。民衆からどよめきが消え、一触即発の空気が漂う。
小物ほど安い挑発に乗りやすい。それは今も昔も普遍のようだと思うと、溜め息が漏れた。
「舐めてるんじゃねぇぞ、じじい……」
怒り心頭の男を無視し、外套男は少女に視線を移す。
「大丈夫かね、お嬢ちゃん?」
尋ねると彼女は首を何とか縦に振った。それを確認すると男の表情が少しだけ柔らかくなる。
泣き止んだようで何より。彼はどこまでも冷静だった。
「無視するんじゃねぇ!! 殺すぞ!?」
盗賊の関心が少女から外套男へ移る。
そしてそれこそが、先制への布石であった。
瞬間、懐に忍ばせたナイフを男の腕へと投擲する。
「うおっ……いってぇ!?」
一挙動で放たれたそれは矢の様な速度で飛来し、狙い過たず男の右腕を穿ち、男は堪らず剣を取り落とす。
投擲したと同時に、彼は駆け出す。
彼我の距離はおよそ八間。その距離をほぼ一瞬にして詰める。その先には手持ちぶさたな男二人がいる。
人質を取った男が怯んだ隙に、すかさず男二人の背後に回り込み──抜刀一閃。大きく弧を描いた斬撃が男達を襲う。
それぞれの間にそれなりの距離が有り、間合いに入らないかと思われた。
有り体に言ってしまえば、彼は何も無い場所を斬り付けた。
しかし、彼の得物はそれすら厭わず。
至極当然といった様子でそれは振り抜かれ、男二人の膝の裏を切り裂いた。
血飛沫を撒き散らし、苦痛の声を上げると彼らは同時に倒れ伏した。
恐るべくは、どれも一瞬にして行われた早業ということである。
男は流れるような動作で次の獲物へ移る。
──だが、
「……っ、ごふっ!?」
次に強襲をかけようとした瞬間、彼は盛大に喀血し、膝から崩れる。
痛みで身体は軋み、足は鉛に変わったように重みを増した。
四肢は動かそうとするだけで痛みを訴える。もしかしたら、何処かの骨に皹くらい入っていても可笑しくは無いだろう。
凄まじい痛みで何処がどうなったか、彼自身がまったくもって分からない程である。
「な、なんだ? このじじい、腰でも傷めたのか? 脅かしやがって……死ね」
(……っく‼ くそっ、駄目だ……これは、相当無理をしたみたいじゃな)
盗賊は脂汗を垂らしながら喚き、得物を振りかぶった。
回避すらままならない状況に内心頭を抱える。
自らの体調と、高齢となり体力的に脆弱となった自身の体を顧みなかったことで、負荷に耐えられなくなったのだ。
外套男の手際。それは見事の一言に尽きるが、その実態は老骨に鞭を打つなどという生易しいものではない。
彼は、意図的に火事場の馬鹿力とも言うべき力を行使した。しかしそれは筋力を最大限引き出す行為だ。当然筋力にも負担が掛かる。その上高齢となればその反動は増大し、悪くすれば筋肉は断裂を起こすだろう。それだけではない。持病の件もある──それも相当質の悪い病だ。
この結末も必然と言えた。
むしろ、完全に倒れ込まないことが奇跡に近いだろう。
(こんな事になるだろうと、判断すら出来んとは耄碌したもんだ。 やりようは他にも有ったろうに……)
こんな時になって頭が働き始める。
若い頃は正面きっての戦いも不得手ではなかったが、自身の現在の体調と体力を顧みなかったのだ。
こんな時、ぼけた老人のふりをして連中の油断を誘えば、事は簡単に済んだはずなのだ。そうなれば後は気取られぬよう、不意討ちをかませばどうとでもなる。そんなことに今更気が付き、彼は自責に駆られる。
襲い掛かってくる凶刃を前に、彼は思う。
(ふん、因果応報か。 錆びた、のか……? なんにしたって、あの時とまるで変わりはしない。 儂はあの時から何も……)
諦念と慚愧の念が押し寄せる。
──その時、予想外の事が起こる。
「やめて!」
「うっ……このガキ!?」
人質の少女が男の脛を蹴り飛ばしたのだ。
予想外の攻撃に、野盗は一瞬固まる。
その一瞬の隙を彼は逃さなかった。思いもよらぬ千載一遇の好機を、逃す手はない。これを逃せば、哀れな少女は死に、己もまた犬死にとなりかねないのだ。
全身の筋力を総動員し、強引に体勢を立て直す。
「……っ! がぁあぁああ!!」
痛む身体に尚も鞭を打ち、歯を食い縛り怒声をあげる。
残り僅かな生を全て籠めたような気迫に、その場の全員が呑まれた。
得物は陽光に照らし出され、滑らかな反りを持った細身の刀身は靭やかな肉食獣を思わせる。
次の瞬間、ナイフはその美しい得物──刀に斬り飛ばされた。
その速さたるや、最早振り切った姿すら認めさせぬ、まさしく神速の一斬。
そして、呆気に取られた盗賊は次の瞬間、自身の身体を"微風が撫でた"ように知覚した。
彼が鞘へと得物を戻すと、糸の切れた人形のように男は倒れ、地に伏した。
それを見るや一斉に歓声が挙がった。
彼の行動を野次っていた時の雰囲気はどこへやらである。
しかし、民衆が歓喜している間に老人と少女は何処かへと消えていた。彼らは人の波に紛れて抜け出したのだろう。
熱に浮かされた民衆が我に返った時には、その姿はとうになく、先程とは違ったざわめきが起きる。
──そんな衆人環視のその横。
得物を斬り飛ばされた男が倒れた場所で、何かが滑り落ちる様な生々しい音が発せられる。
それは民衆達の声に掻き消され、誰一人として聞くものは無かった。