笑って蹴飛ばす
昨夜、この町に猛威を振るった台風は深い傷跡を残していった。
私はそのことをお母さんから聞いた。鏡とにらめっこをし、慣れない手つきでつけまつげをつけているときだ。
「小学校のメタセコイヤの木倒れたらしいわよ」
「え、なんていったの?」私はぎょっとして聞き返した。
お母さんは同じことを繰り返す。これはもうつけまつげどころではなかった。私はダウンを着込み、ジャージのまま小学校に向かった。寝癖も多少あった気もする。
「わーすごい」私は倒れたメタセコイヤを見ると、こんなことを口にした。まるで興味のないことに対する感想のようだったが、人は心から驚くと気が抜けるらしい。私は小学校の柵のそとからそれを見た。私の記憶では、メタセコイヤは、東京スカイツリーに負けず劣らずの堂々さで、悠然と立っていたはずだ。小学校のときには、それはまるでジャックの豆の木のように見え、上れば天にまで昇れそうと思ったほどだ。それくらいメタセコイヤはのっぽで、あこがれの的だった。そんなメタセコイヤは、いまや眠ったように伏せていた。
不幸中の幸いは、メタセコイヤが校舎側に倒れず、運上側に倒れたことだろう。おかげで小学校は目立った損傷はないようだった。メタセコイヤは運上を半分に分割するように倒れていた。まるで棒トリ合戦でもするようにも見える。私は無神経だと思いながらも、くすくすと笑った。
「なに笑ってんの?」私ははっとして口を閉じた。申し訳なさそうに後ろをふりかえると、見知った顔がいた。
「なんだよ伊藤かよ」
「なんだよはないだろ」
「だって伊藤だろ?」
「そうだよ、伊藤だよ」私たちは若者らしく、きゃぴきゃぴと笑った。
「これ、すげーよな」
「ああ、すげーよ」
しばらく沈黙が降りた。お互いになんらかの感慨に浸っているようだった。
「なあ、知っているか。このメタセコイヤ、昔から病気だったんだってさ。あちこち膨れ上がって、中身はカスカスだったらしいぜ。撤去するかどうかも時間の問題だったらしい」
「私たちのときから?」
「ああ、ずっと前から」
私は驚いて、もういちど横たわったメタセコイヤに目を移した。それはもはや天までのびるジャックの豆の木ではなく、衰弱しきったがん患者のように見えた。それでも、私のノスタルジックな感情は胸の中で渦巻き続けていた。もしかしたら私はメタセコイヤの病気も含めて、シンボル的なものとして崇めていたのかもしれない。しかし、それはもはや形を失い、二十四時間後には灰になっているのだろう。私はすこし悲しくなった。
「それよりさ、さっきからずっと気になってるんだけど」伊藤はにたにたとしながら言う。「どうして片方だけつけまつげ付けてんの?」
私はあせって顔をこすった。見ると、手にはブラシのような黒いものがへばりついていた。私は顔を赤らめた。
「どうして早く言ってくれなかったのよ」
「だって言うタイミングなかったじゃんか」
私はそれでも伊藤に小言を言いながら、もう一度顔をこする。
「はじめてみたよ。佐藤がつけまつげつけているとこ」
「ど、どうだった? 片方だけだけど、両方つけたらかわいくみえるかな?」
「うーんどうだろう。俺にはわかんねえや」
伊藤は最後にわはは、哄笑した。私もそれにつられ、楽しくなっていた。
メタセコイヤは小学校の、いやこの町においても、シンボル的な樹木だった。それを失った、この町ははたして人間が年老いていくように寂れていくのだろうか。そんなことは私にはわからないし、伊藤は笑って蹴飛ばすだろう。もうメタセコイヤはこの町にはない。
家へ帰ると、私は余ったつけまつげを捨てた。