眼下の星空
仕事を早めに切り上げ、ふたりはタクシーで店に向かった。
いつも大切な接待をする時に利用している店で、今では名前を告げるだけで部屋も料理も決めて待っていてくれる。松井にとっては慣れた店だった。
東京でも有数の高層ビルの、その最上階を全て使ったイタリアンレストランで、広い店内なのにいつもお客さんで賑わっていた。
二人はビルのエレベーターに乗り、長い浮遊感を感じた後に、目的の階にたどり着いた。
チンという音と共に扉が開くと、レストランの入口とその奥の一面のガラスが見える。そのガラスからは、満天の星空と勘違いしそうな東京の夜景が広がっていた。
「お待ちしておりました。いつもの部屋を用意してあります」
「有り難う」
店のマネージャーがわざわざ出てきて、二人を案内してくれた。
正面の入口とは別の目立たない扉を開けて中に入ると、細長い廊下が続いている。足音も吸収してくれるような落ち着いた色合いの絨毯の上を歩いて行くと、その突き当たりの部屋にたどり着いた。
「どうぞ」
案内に従って中に入ると、角部屋の二方向が一面の窓ガラスになっていて、先ほど見えた夜景が眼下に広がっていた。
それはため息が出るほどの美しさで、静まり返った部屋の時が不意に止まってしまったような錯覚に陥ってしまう。
中に入った麻友は、その光景に思わず立ち止まって見入った。
松井に手を引かれ、6人ぐらいは座れそうな大きな机の窓ガラス近くの席に、二人は向かい合わせて座った。
松井は慣れた席だが、麻友は中に入り座るのは初めてだ。それでも、麻友に緊張した様子は見られない。むしろ、どこかこの雰囲気を楽しんでいるようにも見えた。
松井が麻友のことを見つめると、麻友はいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
その笑顔を、松井は思わず見つめ続けてしまった。
しばらく静寂が続いたが、その沈黙を破ったのは松井の方だった。
「何故」
麻友は何を聞かれるのか何となく予想をしていたが、小首を傾げつつ話の続きを待った。
「一緒に夕食を食べようと言ってくれたんだ?」
松井は引き締まった腕を組み、いつもの澄んだ瞳をこちらに向ける。それは、嘘や偽りは許されない視線で、どこか緊張感もはらんでいた。
麻友は静かに答えた。
「今のままでは今後の業務に差し障りが出る、と考えましたので」
「……つまり、これも業務内と?」
「はい」
麻友がにっこりと微笑むと、松井は小さく笑った。
「もう少し、期待させるような返答が欲しいな。こんな時ぐらいは」
どうだ? と松井が目だけで問いかけてくる。どうやら松井もこの言葉のやり取りを楽しんでいるようだった。
それに対して、麻友もここは正攻法で行くことにした。
「取締役は、私のことが好きなんですか?」
麻友の問いかけに、松井は少しだけ目を開き、すっと細めて麻友をじっと見つめた。
それは松井にとっても難しい問題だったようだ。答えるにはしばらくの沈黙を必要としたが、松井は正直に答えてくれた。
「まだ解らない……。こんな見てくれと、立場だ。今まで付き合いと言えば、割り切った関係だけにしてきた」
「遊んできたらしいですね」
「男だからね。嫌いじゃない」
静かなノックの後にお酒と料理が運ばれてきたため、二人の会話も一時中断した。
お酒はシャンパンで、スタッフの人の手で丁寧に栓が抜かれると、ぽんっと空気の抜ける音が部屋に響いた。
よく冷えているためか、ビンからは柔らかな白い煙がこぼれていた。
細長いグラスにゆっくりと注がれると、小さな泡が立ち上っていく。
注ぎ終えたビンを氷の中に挿し込むと、スタッフは一礼して部屋を出ていった。
松井はグラスを手に取ると、麻友の前に差し出した。
「乾杯」
麻友もグラスを手に取り、静かに松井のグラスに当てる。
ガラスとガラスが触れ合う、高い音が部屋に響いた。
松井は一息で飲み干し、麻友はゆっくりと味わって飲んだ。
「私は、好きな気持ちにも応えませんし、割り切った付き合いもするつもりはありません」
麻友が視線も合わせずにつぶやくと、松井は麻友をあらためて見つめてきた。
「相変わらず頑なだな。……以前に嫌な恋をしたとか?」
「すべて円満な恋愛と別れです。ただ、次にお付き合いする方とは結婚を考えています。面倒な女なんです」
多くの男は、付き合いよりも先に結婚をちらつかされると引いてしまう。麻友はそれを逆手にとってそう言うことにした。
それを聞いて、松井は声を出して笑った。
「なるほどね。誤解があるようだけれど、私も同じだ。もう遊びをする歳でもない。次は結婚を考えている」
「本当とは思えませんね」
「……言ってくれるな」
互いに視線をあわせて、静かに笑った。
多分、本当のことを互いに言っている。でも、気持ちはどう動くかなんて本人にも解らない。今は相手の気持ちと、そして自分の気持を、互いに確かめ合っているようなものだった。