優しい上司はSでした
夜10時過ぎ。
松井はその日の仕事をようやく終え、椅子の上で大きく身体を伸ばした。
「ふう……10時か」
取締役となると時間の拘束はない。早く帰れることもあれば、遅くなることもある。
ゴルフをしてそのまま帰ることもあるが、こうして会社で事務的な仕事に忙殺されることも少なくない。
接待で遅くなることも考えれば、松井にとって10時は遅い時間ではなかった。
荷物をカバンに詰めて上着を羽織り、どこかで夕食をとろうと部屋を出ることにした。
部屋を出ると、いつもは暗いはずの秘書室に明かりが見える。
「誰か残っているのか?」
通り際に中を覗くと、ひとりの姿が見えた。
あの娘は確か……。
「御庄」
今日紹介された自分の秘書。下の名前までは松井も忘れてしまっていた。
松井の声に気づいて、麻友が振り向いた。
「取締役。お帰りですか?」
「ああ。まだ残っていたのか」
「はい。憶えることが多いので」
松井は中に入り、麻友の隣まで歩いて行き、手元の資料を覗き込む。
「……ああ、いま抱えているプロジェクトの資料か」
「明日の仕事に関わると思ったので」
確かに、明日はこのことに関わる会議と打ち合わせがあった。ただ、秘書がいきなり全てのことを理解している必要はない。
麻友が仕事に熱心なことは関心したが、遅い帰宅時間を心配して松井は声をかけた。
「仕事を頑張るのはいいが、女の子には遅い時間だ。もう帰ったほうがいい」
麻友はにっこりと微笑んで頭を下げた。
「有り難うございます。もう少ししたら区切りをつけて帰ります」
「そうするといい。夕食は大丈夫か? 家まで送ろうか」
「お気遣い有り難うございます。夕食は取りましたし、遅くはなりませんので大丈夫です」
「そうか……」
松井がこうして女性に声をかけることは滅多に無い。
だから断られたことを何となく残念に思ったが、一生懸命頑張っている姿は松井にも微笑ましく映った。
松井が麻友を見下ろすと、頭のてっぺんにかわいいつむじが見える。
無意識に、松井は手を伸ばした。
かさっ……。
松井の大きな手が、麻友の小さな頭の上に乗せられた。
突然の感触に、麻友は思わず松井を見上げた。
「あまり無理するな」
「……はい」
松井は何事もなかったように乗せていた手を離し、そのまま出口へ歩き出した。
「お帰り、お気をつけ下さい」
「有り難う」
松井が振り返りもせず、手だけ振って出て行ってしまうと、秘書室はまた元の静けさを取り戻していった。
麻友は自分の頭を撫でてみた。
ーーー 小さいせいか、頭を撫でられやすいのよね。それにしても、大きな手。
頭を撫でられることは嫌いではない。
松井の手も温かくて、気持ちいいものでもあった。
最初に会った時は、その緊張感をまとったオーラから仕事に厳しい人というイメージが強かった。
でも今のは、心遣いのできる優しい上司の態度だった。
どれが本当の彼の姿なのだろうか。麻友はぼんやりとそんなことを考えていた。
「さて、もうひと踏ん張りしますか」
考えていてもしょうがない。これからはずっと顔を突き合わせるのだから、すぐに解るだろう。
麻友は大きな深呼吸をして、もう一度資料とのにらめっこを再開した。
松井の仕事は思った以上に過酷だった。
スケジュールが分単位に刻まれていて、朝から晩までぎっしり詰まっている。しかも、それがしょっちゅう変更される。
会議が長引くのは当たり前。ちょっとした思いつきで行動を始めたりするのに、残りの仕事もこなそうとするので、その時間をやりくりするのには思っていた以上の苦労をする。
残念ながら、最初はどうしたら良いか解らず、室長に何度も相談したり、手伝ってもらうしか無かった。くやしいが、今は学ぶしかない。
次に行く最短の経路を考えたり、間違えずに安全運転するだけでも一苦労で、会議の内容を理解したり、人の名前を憶えるのは麻友もしばらくの時間を要した。
意外に悩みになるのがお昼ご飯だった。
会社には社食があるが、そこで食べることができるのは週の半分ぐらい。残りは外で食べることになる。
しかし、時間が押せば押すほど、調整は昼の休憩を潰すしか無い。近い店で早く済ませるのでは、食事のバランスも何もあったものじゃない。コンビニのおにぎりを車の中で食べることも少なくなかった。
サプリメントを水と一緒に飲み、これでいいとばかりに松井は頓着した様子はないが、麻友としては気になって仕方がない。
ある昼は本当に時間がなかった。
松井を車に乗せたはいいが、すでに昼は過ぎていてご飯を食べる時間もなければ、買いに行く時間もない。
しかも、次の用事は夕方までびっしり予定が詰まっている。
松井も車の中で一休みをしようとお昼のことを考えてもいない様子だが、麻友はとうとう我慢が出来ず、自分のお弁当を松井に差し出した。
「? なんだ?」
「私のお弁当です。時間が無いのでこれを食べて下さい」
麻友の言葉に、松井が首をかしげた。
「それを食べたら、君の分が無くなる」
「いいんです。私は取締役を送り届けたら時間ができます。その時間に何か食べますから」
「……そうか」
断わられるかと思ったが、意外にあっさりと松井が弁当を受けてくれた。やっぱりお腹は空いていたのだろう。
後ろの座席で、弁当を開けるカチャカチャした音に続いて、遠慮なくご飯を口に運ぶ音が聞こえてきた。
「ん、うまい」
「有り難うございます」
「料理、上手だな」
「一人暮らしが長いので」
「私も一人暮らしは長いが、料理はさっぱりだ」
松井の言葉に、麻友は小さく笑った。
美味しそうに食べる音を聞いているだけでも、麻友としては気分が良かった。
やっぱり渡して良かった……と思ったのはこの時までだった。
「美味しかった……しかし、足りない」
「はい?」
「明日から私の分の弁当も作ってくれ」
お願いでもなければ、選択でもない。
松井の言葉は命令だった。しかも。
「量はこの3倍で」
「さっ、3倍?」
麻友の声が思わず裏返った。
「身体の大きさで考えろ。これじゃあ、少なすぎる」
「はあ……」
「解ったな? 3倍だ。明日から宜しく」
どうやら麻友に拒否権はないらしい。
唖然とする麻友を残して、目的地にたどり着いた松井はさっさと車を降りて出て行ってしまった。
座席を見ると、また元のように丁寧に袋に詰められ、空になったお弁当箱が置いてあった。
優しいかなと思っていた上司の化けの皮がだんだんと剥がれてきたようだ。
ーーー Sだ。ドSに違いない……。
麻友はハンドルを握りながら、これからの自分の境遇を想像して、深いため息をついた。
可哀想なんて思うんじゃなかった。
この日から、ただでさえ少なくなっていた麻友の睡眠時間は、さらに30分減少した。