いろんな人の思い
ヘリコプターが目的地に向かうに連れ、麻友はあることに気づいた。
「えっ、この方向ってもしかして」
麻友が何かを言おうとしたら、松井が口元に指を立てて、それ以上は言わないように、と伝えてくる。
(――だって、この先は)
ヘリコプターは大きな街の上を飛び続け、その中でも一番大きなビルの屋上へと向かっていく。
目的地はやっぱり、そのビルのヘリポートだった。
徐々に速度を落としながらしだいに距離を詰め、そして上空からゆっくりと降り立つ。
飛び立つ時も感じたが、降り立った時もとても優しい着地で、パイロットの技量がとても高いことが解る。
ヘリコプターはしっかり着地して、ローターの動きもしだい緩やかになっていった。
それを確認した松井は、自分と麻友のシートベルトを解いて立ち上がる。
「有り難う」
松井はパイロットにそう声をかけると、後ろを振り向いて笑顔で頷いてくれた。
「有り難うございました」
麻友もつられて頭を下げると、
「良い1日を!」
と声をかけてくれ、麻友はもう一度、頭を下げた。
降り立った場所には強い風が拭いていたが、建物の中に入ると風も音もなくなり、ようやくしっかりとした床を踏む感触に、麻友は何となくほっとする。
やはり職員用のエレベーターで一番下まで降りる。
麻友はここがどこだか解っていたが、何も話さずに松井の後について行くことにした。
エレベーターを降りてエントランスを歩き、外に出てみると一台の車が止まっていた。
松井が助手席のドアを開けて、麻友を招き入れる。
麻友も黙って中に入り、やわらかなシートに身を沈めた。
松井はドアを閉めると運転席に座り、ゆっくりと車を走らせた。
走る外の景色を眺めながら、麻友はこの車がどこへ向かっているのかを確信し始めていた。
(――だってここは……)
見知った景色。
憶えのある道順。
そして、いつもの曲がり角。
たどり着いた先は……。
「私のお家」
麻友の言葉に松井は軽く頷いて、車を止めた。
「なぜここに? なぜヘリコプターで?」
「その説明は後で。さあ降りよう」
戸惑う麻友の手を引いて、二人は車を降りた。
そして、何故か松井が家の扉を開けていく。
自分の家なのに、松井に導かれるように家の中に入る麻友。
中はすでに明かりに包まれていて、人の気配もする。
(――もしかして……)
ダイニングから足音と共に、一人の男性が玄関にやってきた。
「お父さん!」
「やあ、麻友。お帰り。待っていたよ」
待っていた、ということは、このことを圭吾も知っていた、ということか。
麻友は靴を脱いで中に上がり、そのまま二人についてダイニングに入る。
と言っても中はいつもの様子で、変わったものもなければ、誰かがいるわけでもない。
「いったい、何を……?」
麻友はあらためて尋ねる。
圭吾、松井は麻友に向かい合うように立ち、優しげな笑顔を浮かべていた。
ふっ、と松井が動き出し、冷蔵庫に向かう。
冷蔵庫の扉を開けて、中からあるものを取り出した。
それは、ホールのショートケーキだった。
しかも、ろうそくが立ち、真ん中には〈 Happy Birthday Mayu 〉の文字が。
でも……。
「あの、私の誕生日はだいぶ前に終わっているけど」
今日は別に麻友の誕生日でも何でもない。それなのに、いきなり誕生日のケーキって。
戸惑う麻友に、松井が説明してくれた。
「今日のデートをどうしたら良いか、本当に悩んだ。俺の何を見せればいいのか。麻友は何を喜ぶのか」
松井はケーキを机の上に置き、言葉を続けた。
「だが、自分の何をみせてもちっぽけな気がしたし、麻友が喜ぶことがなんなのか、俺は何も知らなかった」
いくら好きな気持が積み重なっても、二人が過ごした時間はまだまだ短い。プライベートな時間はまだ数えるほどでしか無い。知らないのは、あたり前のことだった。
「困り果てて、俺は恥をしのんでお父さんに電話をした。何をすれば麻友が喜んでくれるだろうか、と」
そこまで話すと、今度は圭吾が代わりに話し始めた。
「私は考えてこう言ったんだ。『できれば、麻友の誕生日を一緒に祝って欲しい』と」
「……何故?」
麻友の問いに、圭吾はすこし恥ずかしそうに、そして寂しそうに言葉を続けた。
「お母さんが亡くなってから、麻友の誕生日のお祝いをしたことがない。しようとしても仕事が忙しかったり、麻友が遠慮したり。いつしかしないことが当たり前のようになって、そのまま東京へ行ってしまった」
「…………」
圭吾の言うとおりだった。
母親が亡くなった年は、誕生日なんて祝う気持ちに麻友もなれなかった。
次の年は圭吾の仕事が忙しくて出来なかった。
その後も、圭吾は祝おうとしてくれたが、麻友としては無理をしてでも祝って欲しい、という気持ちにはなれなかったのだ。
お祝いの言葉はある。会ってであったり、電話であったり、メールであったり。
でも、こうしてケーキを囲んでお祝いすることはなかった。
「そのことがずっと心につかえていた。嫁いでいってしまう前に、一度でいいからお祝いをしたかったんだ」
ケーキの上にはロウソクが14本。それは、誕生日を祝わなくなった年の本数。
麻友は胸がじんっとするような苦しさを感じながら、ケーキと圭吾の顔を見た。
「誕生日おめでとう、麻友。私達のもとに産まれてきてくれて、ほんとうに有り難う」
「お父さん……」
圭吾がにっこりと微笑み、松井に目配せをする。
何かと思っていたら、松井が新たなケーキを出してきた。
ロウソクの本数が15本。
「えっ……」
驚いている麻友をよそに、圭吾と松井がどんどんとケーキを出してくる。
16本のチョコレートケーキ。
17本のクリームチーズ。
18本のティラミス。
19本のシフォンケーキ。
20本のミルフィーユ。
「…………」
机の上には、ところ狭しとケーキが並び、松井がどんどんとロウソクに火を灯し始める。
唖然としてその様子を眺める麻友に、圭吾が言葉を続けた。
「そして、これはお母さんから」
「……お母さん?」
圭吾が頷く。
「亡くなる前に、病院のベッドの上で言っていたんだ。『20歳になった麻友を見たかった』……って」
麻友の心に、病院のベッドの上で身体を起こし、微笑んで迎えてくれた母親の姿が蘇る。
いつも、いつも優しく『麻友……』と言ってくれた。
そして亡くなるその瞬間まで、残していく娘と夫のことを心配して、頭を撫で続けてくれた。
その優しい手の感触を今でも憶えている。
忘れられるわけがない。
とうとう堪えきれず、麻友の瞳から涙がこぼれる。
悲しいとは思ったけれど、寂しいとは思わずにいた。
それは我慢をしていたのかも知れないけれど、苦しいことではなかった。
でも、今は寂しい、と思う。
会いたい。
会って、今の自分を抱きしめて欲しい、と願ってしまう。
「お母さん……」
麻友は顔を上げて、母親の写真を見つめる。
優しげに見下ろす、母親の横顔。
麻友の瞳から止めどなく涙がこぼれ落ちていった。
ずっとずっと泣いていなかったような気がする。
泣くことで、心の中で固まっていた何かがゆっくりと溶けていくような、そんな気持ちがしてくる。
会いたい……な。
お母さん、大好きだよ。
松井がひとつ咳払いをする。
麻友が物憂げに振り向くと、松井が恥ずかしそうに言った。
「あー、よろしくお願いします!」
何かと思ったら、松井の言葉と共にケーキがさらに運び込まれてきた。
ケーキを作ってくれたパティシエさんとウェイターさんと思われる若い男性たちが、合計6個のケーキを手に持っている。
「……え?」
麻友が状況を判断できないままに、簡易の机が運び込まれたり、その上に真っ白なシーツが被せられたり。気づけば、お酒や飾り付けまで始まり、ダイニングは一気に誕生日パーティーの会場の雰囲気へと変わっていく。
「えーと、これは俺から。20歳から今の君へ」
麻友は松井を見上げ、そしてくすっと笑う。
「有り難う。でも、いくら何でも多すぎるわ。こんなに食べ切れない」
麻友の言葉に、松井はにやっと笑ってみせる。
「そうでもないと思う」
「……?」
麻友が首を傾げるとともに、家の呼び鈴がなった。
だれかお客さん? と麻友が不思議に思う間もなく、勝手に玄関が開けられて中に人が入ってくる物音がする。
そして、ひょっこりと顔を出したのは、誠とまどかだった。
「麻友、誕生日おめでとう!」
「まどか! まーちゃん!」
そして、それだけではなかった。
次々に、人が現れてくる。
「麻友、おめでとー!」
「桜! 美緒!」
華やかな姿の女性の他に、男性もやってくる。
「麻友ちゃん、おめでとう」
手に花束を持つ、同い年ぐらいの格好いい顔立ちの男性の姿に、麻友は信じられないという顔をした。
「まさか、かっちゃん?」
「あたり。憶えていてくれて嬉しいよ」
それは、幼稚園の時に一緒に遊んだ幼なじみの、大きくなった姿だった。
他にも、小学校の時の同級生、中学、高校。
クラブの先輩、塾での友達。
麻友はただただ、信じられない、という表情でびっくりしっぱなしだ。
両手にはもう抱えきれないほどの花束になってしまった。
「皆さん、今日は娘の誕生日にお祝いに来てくれて、本当に有り難うございます。ケーキも飲み物たくさんありますので、楽しんで下さい。そして、久しぶりに会いに来てくださった方は、ぜひ娘とゆっくりと話をしていってあげて下さい」
圭吾が部屋の中いっぱいに広がる麻友の友達に声をかけると、はーい!、と明るい返事がした。
「麻友、誕生日おめでとう!!」
松井がそう掛け声をかけると、みんなが口々に「おめでとう!」と言ってくれる。
「みんな……」
麻友は笑顔を浮かべながら、目尻にたまる涙をそっと拭った。
「有り難う。本当に、嬉しい」
わっと上げる歓声の中、いろんな笑顔が広がっていく。
楽しい時間は夕方まで続いていった。