デートの始まり
まるで何事もなかったかのように、毎日が過ぎた。
仕事も慌ただしく、松井もデートについて一言も語らずにいる。
ようやく諦めてくれたのかなと思うほどに、今までと変わらない時間が過ぎていくことに、少しだけ麻友の心が苛立つ。
なぜ苛立ったしまうのか麻友も解っていたが、それは小さな思いだったのでそれほど心配もしていない。
時が過ぎれば、きっと流れて行ってしまう程度のこと。
でも、今は、少しだけ。
少しだけ、苛立つ。
それは、突然やって来た。
「麻友、今週の日曜日を空けといてくれ」
今までは御庄と呼んでいた松井が、急に下の名前で伝えてきた。
麻友は小さな動悸を感じながらも平静を装い、それとなく尋ねた。
「今週の日曜日、何があるんですか?」
「決まっている。デートだ」
熱の入った視線で見つめられ、麻友は鼓動が早くなるのを感じた。
「どこでなにを?」
「当日を楽しみに、だな」
「秘密なんですね」
「まあね」
自信があるのか松井はにやっとだけ笑う。
何を考えたのかは解らないけれど、本当に1日のデートで心を動かせるものなのだろうか。
麻友は不思議に思いつつ、頷いてみせる。
「解りました。時間と場所ぐらいは教えて下さいね」
「家まで迎えに行く。午前9時までに出られるように用意しておいてくれ」
「……はい」
そうして、将来を決めることになる、たった1日のデートは始まりを告げた。
どんな格好をすべきか、麻友は前日から悩んでしまった。
ラフな格好がいいのか、動きやすい方がいいのか、それとも正装がいいのか。
自分が喜びそうなこと、松井が考えそうなことを想像してみるが、今ひとつ解らない。
ため息をつきつつ、あまり間違いのないきちっとした服を着ることにした。
化粧は丁寧に。派手すぎず。
バックは軽めに。
何があるか解らない不安もあるけれど、松井の考えることだから、きっと楽しいに違いない。
久しぶりの高揚感に、いくらか夜が眠れなかった。
こんなことは久しぶりだな、と思いつつ、麻友は窓から外を眺めた。
空は雲ひとつ無い晴れ。
いい1日になるといいな、と思いつつ、麻友はお迎えが来る時間を待った。
時間少し前に部屋を出ると、松井はすでに外で待っていた。その傍らには、彼の自家用車が止まっている。
「お待たせしました」
「確かに」
「え?」
時間前に出てきたはずだと首を傾げた麻友に、松井はそっと手を伸ばして頬を撫でてきた。
「この日が来るのを、ずっと待っていた」
恥ずかしくなるようなくさいセリフと思ったものの、力のこもった視線にあてられて、麻友は一気に顔を赤くしてしまった。
「取締役。いつもと違います」
「当たり前だ。それに、今日は博仁と呼べ」
「博仁……さん」
初めて呼んだ名前に、松井はにやっと笑う。ようやく呼んだな、とその顔が言っていた。
麻友は何となく恥ずかしくなって、視線を外す。
「まあ、デートですから」
「そうだな。俺も麻友と呼ばせてもらうからな」
「お好きなように」
「麻友……隣に座って」
松井は助手席のドアを開けて、麻友を招き入れた。
こうしてデートの一日が始まった。