おかえりなさい
買い物が終わって自宅に戻ると、麻友はさっそく夕食作りに取り掛かる。やることのない松井は、相変わらずそんな麻友の様子を眺め続けていた。
そう言えば、食事を作るのを見るのは初めてかも知れない。母親が亡くなる頃からやっているのだろう、麻友の手つきはとても手馴れていて不安を感じさせない。
本人は気づいていないのかも知れないが、時折鼻歌をしていて、どこか楽しんでいるように見える。その姿はやっぱり、どこか自分の母親の姿と重なって見えた。
何故、胸が温かくなるのか。
そして何故、胸が苦しくなるのか。
ただ麻友が料理をつくる様子を、松井は見つめ続けていた。
何やら外で物音がしたと思ったら、玄関からガチャガチャと鍵の開ける音がした。
「あっ、おかえりなさーい」
麻友の声で、松井は我に返った。忘れかけていたがここは麻友の実家で、父親の帰りを待って食事を作っているのだった。
松井は慌てて麻友の後について、玄関へ歩いて行く。
広い玄関の土間には麻友の父親と思われる、白髪の混じるグレーの髪をした長身の男性が立っていた。一言でいえば優しそうな、やわらかな雰囲気をまとっているが、その強い眼差しは優しいだけではないことが解る。
麻友の言っていた「誠実で優しいのに、芯があって尊敬できる人」という言葉が、ちょうど似合いそうな男性だった。
二人の視線が不意に合う。
松井は慌てた様子を見せず、なるべく丁重に挨拶をした。
「突然お邪魔をしてしまい、申し訳ありません。上司をしています松井博仁と言います」
「娘がいつもお世話になっています。父親の御庄圭吾です」
松井が深く頭を下げると、圭吾も軽く頭を下げた。
「一人暮らしの寂しい身です。来てくださって嬉しいくらいです。どうぞ、ゆっくりしていって下さい」
圭吾はやわらかな笑顔で、そう言ってくれた。
「有り難うございます」
松井の口からも思わず心からの感謝の気持ちが出た。
何しろ、麻友とは「お付き合いしている」とも言い難い、なぜここにいるのか問い詰められたらうまく答えられないというのが実情といえば、松井の実情だった。
それなのに、圭吾は何も聞かずにその存在のまま温かく受け入れてくれた。松井としては感謝するほかなかった。
「夕食、できてるよ」
「ああ、有り難う。着替えてくるよ」
圭吾はそう言って、二階へ上がっていってしまった。
それを目で追う松井を、麻友はニヤニヤしながら見ている。
「なんだ?」
松井は思わず麻友に聞く。
「緊張していましたね。がらになく」
「くっ……まあな。でも優しそうな人だな」
「それはもう。誰かさんとは違ってね」
麻友の言葉に、松井は何となくイラッとした。それがヤキモチに近い妬みであることは解ってはいた。
「君の父親だって、仕事では厳しかろう」
「取締役はプライベートでは優しいですか?」
流し目で見上げる麻友の顔に、松井はそっと手を伸ばした。
柔らかな頬に、松井の指先が触れる。
「優しいさ。お前にはいつだって、そうありたい」
思わぬ松井の行動に、麻友はすこしだけ恥ずかしがりながら、
「約束ですよ。忘れないで下さいね」
と言って、その手からするっと逃げ出し、そのまま台所へ行ってしまった。
松井は、少しだけ触れた手をぐっと握りしめる。微かなぬくもりがまだ指先に残っているような気がして、その指先をそっと唇につけた。
もっと触れたいと思う、その気持ちを今は心の中に押し込めるしかない。もっと知ってから、決めてからしか動くことが許されない今の自分の立場に苛立ちつつも、どこかで久しぶりの高揚感を楽しんでいた。
松井は小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとダイニングに戻ることにした。