膝枕
夕食を早々に切り上げて、二人はタクシーに乗って松井の部屋へ向かった。
会社からそう遠くない高層マンションで、都内だというのに敷地内には木々や芝生などの緑が広がっていた。
玄関の前でタクシーを降りると、松井について麻友も歩き出す。落ち着いた明かりに照らされたエントランスホールには女性のコンシェルジュまでいて、松井が通ると頭を下げてくれる。
麻友も軽く頭を下げて、松井の後を追った。
エレベーターに乗ると、どの階のボタンを押すかと見てみれば、当然のように松井は最上階のボタンを押した。
最上階の部屋の値段は、おそらく億を下らない。下手をしたら2億とか、3億とかするのかも知れない。
さすがに麻友も、わぁ、凄いなぁ……と、どこか他人ごとのように心の中で呟いた。
タクシーに乗ってから、松井は何も喋らない。
エレベーターに乗って二人きりになっても無言のままだった。
どんな気持ちで無言なのかは、麻友には解らなかった。ただ、嫌な雰囲気ではなかった。
エレベーターの扉が開くと、夜のホテルを思わせるような落ち着いた間接照明の廊下が続き、その中の一室にたどり着くと松井は鍵を開けて中に入った。
「お邪魔します」
中には誰もいないことは解っていたが、麻友はそう言って中に入り靴を脱いだ。
ついつい自分の靴と一緒に松井の靴も揃えてしまったが、染み付いてしまった行為なので仕方がない。
奥の部屋へと消えてしまった松井を追って、麻友も歩き出した。
奥の部屋はリビングとなっていて、20畳ぐらいの広い空間にソファーと机とテレビが置いてあるだけの、豪華だけれど簡素な空間だった。
そして壁は視界いっぱいに広がるガラスで、漆黒の空間に星と月と、ビルの灯りが見えていた。
「綺麗……」
麻友の素直な感想だった。
ゆっくりと窓まで歩き、静かに外の景色を見つめた。
そう言えば忙しい仕事の毎日で、こうして美しい景色を眺めながら、ゆっくりとした時を感じることを忘れていたような気がする。
麻友は飽きることなく、外の景色を見つめ続けた。
キッチンに立っていた松井が、冷蔵庫を開きながら聞いてきた。
「何か飲むか? と言っても、ビールか水しか無いけれど」
松井の言葉にちょっと微笑みながら、麻友は「水で」と答えた。
冷蔵庫からふたつミネラルウォーターのボトルを取り出すと、麻友のところまで歩いてきて渡してくれた。
「ほら」
「有り難うございます」
松井はキャップを開けると、ボトルを口にしてゴクゴクと一気に飲み干した。それを見つめながら、麻友は少しだけ口に含んで飲み込んだ。
ふーっ、と大きな息をついてから、松井が言った。
「俺はシャワーを浴びるが、一緒に入るか?」
「業務の範囲外です」
「……お前の業務範囲は解らないよ」
麻友の答えに、松井は面白そうに笑った。
初めからそれ以上のことは期待していなかったようで、松井はシャワー室へと歩き出し、扉の奥へ消えてしまった。
しばらくすると、微かなシャワーの音が聞こえてきた。
体や頭を洗っているのかな、とちょっとだけ想像しながら、麻友はあたりを見渡した。
驚くほど何もない。
生活感がないとは言わないが、まるで寝に帰っているだけのような空間だった。
キッチンを見ると、コーヒーとお酒と何かのツマミを食べたような食器が、片付けられずに残れされていた。
せっかくの豪華で広い空間なのに、どこか空虚な雰囲気が漂っていた。
麻友は再び、外に視線を移した。
この景色を見ながら、松井は何を感じて夜を過ごしているのか。
そんなことを、麻友はしばらく考えていた。
扉の開く音の後に、松井の足音が続いた。
どうやらシャワーが終わったらしい。
「お待たせ。こっちに来てくれ」
廊下の方で、松井が手招きをしていた。
ガウンを羽織っていたが、まるで見せるように胸元が開いていて、たくましい胸筋が間から見えている。
麻友が思わずジト目で見つめると、松井は笑って謝罪した。
「いや、寝ている時は本当に裸で寝ているんだ。意味はない。許してくれ」
「信じましょう。似合っているので」
「有り難う」
松井に連れられて寝室へ入った。
リビングが凄ければ、寝室だってやっぱり凄い。
壁一面の夜景に、キングサイズのベッドがひとつ。
きっとシモンズとか高級なベッドやマットレスに、ふっかふかの枕や羽毛布団を使っているに違いない。
適度に整えられた空調に、落ち着いた照明。
ーーー ちょっと寝てみたいぞ。
そんな様子は見せず、麻友は心の中だけで呟いた。
「見ていてもいいが、ガウンを脱がせてもらう」
松井がにやっと笑いながら、ガウンに手をかけていた。
「目をつぶっています」
麻友は表情も変えずに目をつぶると、松井のガウンを脱ぎ捨てる音が耳に響いた。
ベッドのスプリングの音の後に、布団の中に入る気配がする。
「もういいぞ」
麻友が目を開くと、松井は気持ちよさそうにベッドに横たわっていた。
ただし、布団はお腹辺りまでしか掛かっていなかった。
ーーー ナルシストですか。それとも、誘っているつもり?
軽いため息をつきつつ、麻友もベッドサイドに立ち、そのままベッドに乗る。
きしっ、と軽くベッドが鳴った。
「何だ、ストッキングは脱いでくれないのか」
麻友の今日の姿はスカートにストッキング。当たり前だが、生足ではない。
「枕にカバーは掛けますか?」
「当たり前だろう」
「生足にストッキングも当たり前です」
麻友の返答に、松井は苦笑した。
「涎が垂れてもしらないぞ」
「子供みたいな事を言わないで下さい。その場合は、新しいのを買ってもらいます」
麻友は松井の頭の上あたりに座り、足を揃えた。
「さあ、どうぞ」
「膝枕なんて、久しぶりだ…………おっ、これは意外にいい」
「あまり頭を動かさないでください」
「感じるのか?」
「ゴツゴツして痛いです」
「……ちっ」
松井の子供みたいな表情を見て、麻友は小さく笑った。
こんなに大きくて、年上なのに、何となく子供みたいだ。
麻友はゆっくりと松井の髪を撫でた。
「いつもと反対だ」
「そうですね。いつもは撫でられてばかりなので」
「しばらく、そうしてくれるか」
「いいですよ」
「あっ、そうだ」
松井は急に身体を起こして、ベッドサイドの財布を取り、中から一万円札を抜き出して麻友に渡した。
「泊まってもらってもいいんだが、タクシーで帰るんだろ」
「はい」
「帰りのタクシー代だ」
「いいですよ……と言っても駄目でしょうね」
「当たり前だ。残りも髪を撫でてくれたお駄賃だと思ってくれればいい」
麻友は小さく笑って、そのお金を受け取った。
「寝付くまでいなくてもいいからな。無理するなよ」
「大丈夫ですよ」
松井は再び麻友の膝枕に頭を乗せ、髪を撫でてもらった。
「落ち着く。……まさかセックスするよりも、心地いいとは思わなかった……」
松井の言葉に、麻友は軽く吹き出す。
「心地よくて、良かったです」
「良かったけれど、病みつきになりそうだ。困ったな……」
松井は目を閉じて、何か小さくぶつぶつと呟いている。
ただその表情は本当に困っていると言うよりは、予想外のことに喜んでいるようにも見えた。
ずっと一人でいたくせに、誰かが側にいることに嬉しさと安堵を憶えているらしい。
本当に順序が逆だ。
まだ好きと言ったり言われていもいないのに、膝枕の上で松井の顔から緊張がとれていくのが解かる。
ーーー お疲れ様。
ゆっくりと髪を撫でている麻友の手の下で、いつしか松井はゆっくりと長い寝息をたて始めていた。