ずっと一緒だよ いつまでも、どこまでも
友人があっちに行ってから、何日経つのだろう。
数えるのは、途中でやめた。数えれば数えるほど、その事実だけがはっきりしてしまう気がしたからだ。
友人とは、いつも女の子同士で登下校を共にする仲だった。幼い頃からずっと一緒で、ここらは田舎で人が少なかったから、学校のクラスもずっと一緒だった。わたしが十五の頃、事故で両親を亡くした時も、たびたび家に訪れては、遊びや家事の手伝いをしに来てくれた。ずっと、一緒だと思っていた。
でも、とある日を境に、彼女はいなくなってしまった。
『じゃあね、また会おう』
それがわたしが最後に聞いた彼女の言葉だった。思い返せば、あの別れの時、もう少し話しておけば良かった。他愛もない話でもいいから、もっと、彼女と言葉を交わしておけば良かった。
そんなことを平日の朝から思い続けていたから、なんだか学校に行く気力も消えてしまって、気づけばわたしは、学校をサボっていた。初めてだったからいまいちサボり方が分からなかったが、とりあえず、辺りを散歩してみることにした。
みんなは学校に行っているのに、自分は何をしているのだろうか、そんな大きな罪悪感に襲われて、すごく悪いことをしている気分になった。
赤いアーチ状の橋に足を踏み入れると、涙がじわっと湧いて出てきた。この橋は彼女と登下校する際にいつも通る橋だった。今は彼女のことを思い出したくないのに、無意識的にここに来てしまっていた。
わたしは周りをきょろきょろと見渡すと、端っこにあるフェンスに体重をかけ、両腕をだらんと外に垂らし、下に流れている大きな川を見つめていた。優しい風と水の流れる音が妙に心地よく、心を空っぽにしてボーッとしていたら、自然と涙も収まった。
「こんなところでなにしてるんだい?」
ぼんやりと水面を眺めていると、不意に、背後からそんな声がした。
わたしはゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、さらりとしたボブヘアを分け揃えた少女だった。垂れた瞳で少しだるそうな表情だったが、大人びた綺麗な少女だった。
わたしがこんなにも驚いたのは、何を隠そう、あっちに行ってしまった友人とは、彼女のことだったからだ。
「嘘……玲葉? なんで、いるの……?」
困惑混じりにそう言うと、玲葉はフッと笑った。ああ、そうだ、この笑い方だ。彼女はいつもこうやって笑ったのだ。
「なんでって、絵真に会いたくなったんだ」
まるで、昨日も会っていたみたいな口ぶりだった。
でも、ありえない、来れるはずがない。だって玲葉は――
「で、質問の続きだけど」
彼女はわたしの思考を遮るように言うと、橋の上を軽く見渡してから、わたしに視線を戻す。
「君はここでなにしてたの?」
「……もう、全部めんどくさくなっちゃったの」
玲葉はわたしのぶっきらぼうな言葉を聞くと、一瞬だけ黙って、またフッと笑った。
「そうかい。じゃ、二人でちょっと歩かない?」
「……うん」
わたしは小さく頷いて、玲葉と肩を並べる。
彼女と一緒に歩いているうちに、わたしは沈んだ表情から、いつの間にか、にこやかな笑顔に変わっていた。玲葉が帰ってきたのだ。わたしの玲葉が帰ってきたのだ。そんなことを思っている内に、彼女がどうやって帰ってきたのとかは、考えないことにした。考えたら、真実を知ってしまう気がしたからだ。
変わらない田園風景の中を歩いていると、目の前に駄菓子屋が見えてきた。こぢんまりとした、相沢商店という店だった。そういえば最近は行ってなかったけれど、よく学校終わりに、ここでお菓子を買って、二人で食べていたものだ。
「入ろう」
玲葉はそう言うと、店の中に入っていったので、わたしも彼女の後に続いた。
わたしはソーダ味のアイスを、玲葉はみたらし味のアイスを選んだ。レジで購入を終えると、わたしたちは外のベンチに座って、アイスの袋を開けた。
「ねえ」
「なに?」
「今日は、それ選んだんだ」
わたしがこんなことを言ったのは、彼女はいつもソーダ味のアイスを買っていたからで、別の味を選ぶところなんて、見たことがなかったからだった。
「ああ。たまには別の味に挑戦してみるのもいいかなと思ってね」
わたしは「そう」と返し、ぺろりとアイスを舐めた。ひんやりとした優しい甘さが、なんだか懐かしく感じられた。
わたしは横目に玲葉を見てみると、彼女は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべていた。
「変なことすんじゃなかった。クソ不味いよ、これ」
玲葉はそう不満を漏らしながらも、リスのように高速でアイスを食べていた。わたしはその姿に、思わず吹き出してしまった。
玲葉がアイスを食べ切ると、今度はわたしのアイスを指差した。
「それ、ひとくちくれない? 口直ししたいんだ」
玲葉はがめついから、よくこうやってわたしの分を求めてきて、それをわたしが嫌々了承するのがセットだった。でも、今のわたしに嫌々という気持ちはなかった。こうして、玲葉が戻ってきてくれたのだから、むしろ喜んで渡したいぐらいだった。
「いいよ」
そう言うと、玲葉は遠慮もなくわたしの手を包み込むように握った。彼女の手はいつものように柔らかく、そして冷たくて、思わず胸が跳ねた。彼女は手を握ったまま口元へ近づけ、そのままアイスを大口でパクりと食べた。
「そうそう、やっぱこれじゃなきゃ」
玲葉が満足げに笑った。
わたしがアイスを食べ終わると、玲葉が突然立ち上がった。
「さて、絵真、行くよ」
「行くって……どこに?」
玲葉は腕時計を見ながら答えた。
「もう九時四十九分だ。次の電車まで、あと少ししかない。それを逃したら、一時間も待たなくちゃいけない。今日はあまり時間がないんだ」
その曖昧な返答に少し困惑していると、座るわたしの手を玲葉が取った。
「急ぐよ」
玲葉はそう言って、わたしの手を引いて駅に向けて走った。わたしも彼女に身を任せて走った。走って走って走って、静かな村に、二つの足音だけが響いていた。前を走る百五十七センチの背中が、いつもより大きく感じられた。
駅に着くと急いで切符を買って、長い連絡通路をまた走った。プラットホームに丁度電車が止まっていたので、わたしたちは早足で乗車して、二人で隣り合って座った。平日の朝で田舎だったため、この車両はわたしたちだけで独占してしまえた。
やがて電車が動き出して、窓際から見える馴染み深い景色がどんどん遠ざかっていった。がたんごとんと、規則正しい音だけが車内に響く。
「ねえ、この電車、どこ行くの?」
そう聞いた瞬間、車窓に映った自分の顔の隣に、玲葉の姿が映っていないことに気づいた。
思わず振り向くと、彼女はちゃんと隣に座っている。なのに、ガラスには、わたししかいなかった。でも、どうせ気のせいだろうと思った。
「都会というやつだ。ほら、この前行くって言ったじゃん」
その言葉で、玲葉がいなくなる当日に、都会に遊びに行く約束をしていたことを思い出した。
都会までの道のりは複雑で、電車を何回も乗り換えなくてはならなくて、わたしにはさっぱりだったが、玲葉が先導してくれたおかげで、迷うことなく目的地に着いた。
駅から出ると、辺りに近代的な光景が広がった。写真やテレビで何回も見ていたというのに、立ち並ぶ高層ビルや、道を埋め尽くす人々の雑踏は新鮮で、わたしは童心に帰ったように周りの風景を見つめていた。
「すごい……」
自然に漏れたその言葉に、玲葉は「そうだね」と笑って返した。
電車移動ですっかりお腹が空いていたため、わたしたちはまず近くのレストランで昼食を取ることにした。わたしは無難なハンバーグを頼み、玲葉はパスタを頼んだ。料理が運ばれてくると、玲葉が物欲しそうにわたしのハンバーグを見つめていた。
「絵真」
「わかってる。欲しいんでしょ」
わたしはそう言って、鉄板の上にあるポテトをフォークで刺して、玲葉に差し出した。
「よくポテトだってわかったね。普通ハンバーグって思うでしょ」
「だって、いつも一緒にいたじゃん」
わたしがそう言うと、玲葉は少し照れくさく笑って、差し出しされたポテトを食べた。
「次は、どこ行くの?」
「プール」
その単語に、わたしは少しだけ顔を顰めた。
「嫌だよ。泳げないもん」
「大丈夫さ」
「でも」
わたしは下を向いて沈黙してしまった。そんなわたしの手を、玲葉がそっと握った。
「とりあえず、行ってみよ。楽しくなかったら、すぐに出ればいい」
「……わかったよ」
市民プールに着くと、水着と八百円の入場券を買って、中に入った。玲葉はそそくさと水の中に入ったが、わたしは手すりに掴まりながらゆっくりと入った。
「ねえ、やっぱり無理だよ。もう出ようよ」
わたしは俯きながらそう言った。単純に泳げないからというのもあるが、昔に海で溺れたから、わたしは水の中に入るのはあまり好きではなかった。
「やっぱり、変わってないな、絵真は。昔っから臆病なんだ。身長はデカいのに」
馬鹿にしている口調ではなかったが、わたしはなんだかムキになって、プールから出ようとしていた踵を返した。
「無理なんじゃなかったのかい?」
「別に……嘘だし」
泳げないと言っても、泳ぎ方が分からないわけではない。水泳の筆記テストで、高得点だって取ったことがある。わたしはそう強がって、水面に顔を沈ませる。壁を蹴って、精一杯フラッターキックを行うと、ゆっくりだけど前に進むことができた。でも、息継ぎをしようと顔を水面から出したときに、鼻の中に水が入ってしまった。溺れたあの日の記憶が蘇る。確かあのときも、水が鼻に入ってパニックになったのだ。わたしがそうやって、手足をばたばたさせてひどく焦燥していたとき、その身体を何かが支えてくれた。
「まったく。やっぱり無理じゃん」
玲葉だった。わたしの腰に手を回して、優しく支えてくれていた。彼女の顔を見ると、わたしの焦りは嘘だったかのように落ち着いていった。そして、彼女に自分の醜態を晒したことを、ひどく恥ずかしがっていた。
「無理じゃ、ないし……」
そう言って、玲葉に抱きつくようにして身を寄せた。彼女の冷たい体温が、心地よかった。そういえば、溺れたあの日も、こうやって助けてもらったっけ。
「……そろそろ離れてくれない?」
玲葉のその言葉で、随分と長い間抱きついていたことに気がついた。
でも、玲葉と離れたくなかった。離れたら、また行ってしまう、わたしはそう思った。
「やだ」
自分でも驚くくらい、強い声だった。
「どうして?」
「もう、一人は、嫌なの……」
玲葉は少しの間だけ真顔になると、にかっと笑った。
「そうかい。じゃ、一緒に泳ごっか」
わたしは小さく頷いた。
玲葉はわたしの顔が水に浸からないよう、しっかりと持ち上げてくれていた。彼女の整った顔立ちと、水気を含んだ艶やかな髪に、わたしはついどきどきしてしまっていた。初めて、プールが楽しいと思った。
一通り泳いだ後に、玲葉が急かすように口を開いた。
「そろそろ出よう。思ったより時間が経っていた」
玲葉の指した時計は、既に三の時刻を示していた。
プールを出ると、玲葉が遊園地に行こうと言い出した。遊園地なんて、懐かしい。両親によく行きたいとせがんでも、『絵真には早いよ』と言われて、結局行かせてもらえなかったのだ。
遊園地は、平日だというのにそこそこ賑わっていた。色とりどりの風船や、子どもたちのはしゃぐ声。どこか現実味が薄くて、まるで夢の中にいるみたいだった。
わたしたちは券売機で何枚か券を買うと、早速アトラクションに向かった。
ジェットコースターやお化け屋敷は怖かったけれど、玲葉がずっと手を握っていてくれたから、案外楽しむことができた。メリーゴーラウンドでは、わたしは装飾の凝った木馬ではなく、それと比べれば少し地味な、ベンチを選んだ。
「それでいいの?」と玲葉が聞いてきたが、わたしが「玲葉と一緒がいいの」と答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
観覧車に着くと、「これで最後にしよう」と玲葉が言った。空を見てみると、もう黒色に染まっていた。
ゴンドラに乗り込むと、がこんと音を鳴らして、ゆっくりと上昇していった。半分くらい昇ると、遊園地の全体がくっきりと見えてきた。田舎では見られない、ビルや照明で彩れた夜景に、わたしは見惚れていた。
沈黙が、続いている。だが、その沈黙が、好きだった。
頂上まで昇ると、玲葉が口を開いた。
「なあ絵真。観覧車は好きかい?」
「うん、好き。玲葉は?」
「私も、好きだよ。でも――」
玲葉が、わたしの頬に触れた。
「絵真の方が、もっと好き」
顔を赤くするわたしを、玲葉は優しく押し倒した。
「ここなら、誰にも見えないね」
玲葉は目を瞑るわたしの顎を、そっと持ち上げて、わたしにキスをした。初めてのキスは不思議なもので、唇に今まで感じたことのない、柔らかい感触が伝わった。でも、やっぱり彼女の唇は、冷たかった。
玲葉が唇を離す。
「たりない」
わたしはただ一言そう言って、彼女の頭を、また口元に寄せた。また、優しく甘く、そして冷たいキスをした。
観覧車を降りて、遊園地を出て、駅に着いて、そして電車に乗った。また、二人で隣り合って座った。でも今度は、二人で手を繋いでいた。もう外の景色には、都会とは程遠い、のどかな田園風景が広がっていて、車内もまた、二人だけだった。窓にもやっぱり、わたししかいなかった。
「今日は楽しかった?」
「うん、すっごく」
わたしは玲葉の肩に頭を置きながら答えた。
「そうかい。それはよかった。私も、約束を果たせてよかったよ」
やがて、聞き慣れた駅のアナウンスが流れた。電車が減速していった。窓の外に見えていた田園風景が、少しずつ夜の色に溶けていく。扉が開くと、やはり見慣れたプラットホームが現れた。
「降り、ないの……?」
一向に動く気配を見せない玲葉に、わたしがそう言った。
「うん、もう行かなきゃ。時間がないから」
ああ、わかっていた、わかっていたんだ。玲葉が、本当に戻ってきたわけじゃないって、玲葉の体温が異常に冷たかったのも、玲葉がやけに時間を気にしていたのも、玲葉の姿が窓に映らなかったのも、全部、全部わかっていたんだ。でも、その真実を、受け止めたくなかったんだ。
「嫌だよ……!」
声が裏返る。
「行かないでよ……! わたしを、一人にしないでよぉ……!!」
泣きじゃくるわたしの頭を、玲葉が優しく撫でてくれた。わたしは、玲葉に抱きついた。強く強く、抱きしめた。それでも、泣き止むことができなかった。
「もう、絵真は泣き虫だなぁ」
玲葉はそう言うと、わたしの手に、何かを手渡した。それは、黒色の切符だった。
「もし絵真が、辛くて、苦しくて、どうしても耐えられないって言うなら、これを使って、次に来る電車に乗るといい。そうすれば、また会えるから」
「……本当に、会えるの……?」
「うん。でもきっと、もうここには戻ってこれない。その覚悟ができてるのなら、使うといい」
玲葉は下を見つめながら言った。
「私としては、使ってほしくないけどね」
そうして、わたしは電車を降りた。扉が閉まって出発した後も、玲葉は手を振り続けていてくれた。
やがて電車の姿が見えなくなった。わたしは、その場に膝から崩れそうになりながら、手の中の切符を見た。
――これを使えば、また会える。
でもそれはきっと、悪いことだ。絶対に、やってはいけないことだ。
「……ごめんなさい」
思わずそんな言葉が漏れ出た。それは、誰に向けた言葉なのだろう。お母さんか、お父さんか、玲葉か。いやきっと、みんなに向けての言葉だ。
わたしは、綺麗には生きられない。この一人だけの世界で、前を向ける自信がないんだ。
ごめん、ごめんなさい。
空色に彩られた美しい世界で、わたしは駆け出した。ばしゃばしゃと、足元の水を弾かせながら、涼しく心地の良い風を一身に浴びながら、その百五十七センチの背中に近づいていった。手を大きく広げて、ぎゅっと抱きしめた。
「玲葉」
「そっか、来ちゃったんだ」
玲葉のその声は、すごく悲しそうだった。
「ここに来るとき、苦しかったでしょ」
「うん。でも、玲葉も苦しかったんでしょ?」
「……そうだよ」
玲葉は小さくそう言って、黙りこくってしまった。
しばらく沈黙が続いたけれど、わたしから口を開いた。
「ねえ玲葉」
「なんだい?」
「わたしのこと、好きだよね?」
「そうだね」
「もう、いなくなったり、しないよね?」
「そうだね」
「ずっと、一緒だよね?」
「そうだね。ずっと一緒だよ。いつまでも、どこまでも」
玲葉が当たり前のように言ったその言葉に、すごく安心した。
わたしは、その後もずっと抱きしめていた。大好きな彼女を。誰にも不幸とは言わせない。誰がなんと言おうと、わたしは間違いなく、幸せだった。




