記憶の扉が開く場所。
足元を、白い霧が流れていく。
煙にも似たそれは、ゆるやかに揺れながら足首へ纏わりついていた。
踏み込んでいる感覚はある。
けれど、そこに“重さ”がない。地面の感触ではなく、空へ浮かぶ薄膜の上へ立っているみたいだった。
視線を上げる。
遠景。
崩れ落ちた街並みが、視界の奥に沈んでいた。
倒壊した建物。裂けた道路。傾き、沈み込む塔。
そこは、世界が終わった後の残骸。
そんな言葉が、自然と頭に浮かぶ。
静かだった。
風の音すら薄い。
なのに、妙な圧迫感だけが、この空間には満ちている。
二度目。
黒猫のダンジョンを攻略した時。あの時も、戦いのあとでここへ飛ばされた。
現実とも違う。夢とも違う。記憶の中へ落ちたような、曖昧な場所。
それでも今回は、少しだけ冷静だった。
この空間へ。
“来る”感覚を、知っていたから。
視線を巡らせる。
そして、視界の端、プラチナブロンドの色が掠めた。
灰色に崩れた世界の中で、そこだけが__”その子だけ”が、異様なほど鮮明だった。
少女。
白にも見える金髪が、微かな風に揺れている。
あの時と同じ。
”寂しそうな目”。
感情を押し殺したような、静かな瞳。
その瞳を向けられると、何故か、記憶を刺激してくる。
昔の__。
大切だった場所。好きだった場所。温かみを与えてくれていた筈の場所。
それが、渦を巻く炎に呑まれていく。全てを巻き込み。全てを燃やし尽くす炎。
その光を映していた、“諦めたような瞳”。
今じゃあ、思い出すことすらできない。
輪郭は曖昧で、記憶の彼方にある出来事。
何一つ掴めない。
ただ。
そこへ囚われたような瞳だけが、脳裏に焼き付いていた。
それと同じ色をした瞳を知っている。それと、同じ色をした瞳が目の間にある。
けれど、その目は今、こちらを見ている。
前よりも近く。ちゃんと、こちらを見つめていた。
「__ありがとう。」
「………え?」
ゆっくりと、少女の唇が動いていた。
そこから零れたのは、感謝の言葉だった。
が、いきなりの感謝に、虚を突かれたような感覚になる。
何でいきなり感謝された?この子に何かしたっけ?
無い記憶力を振り絞って、導き出そうとするが、特に思い出せない。
強いて言えば、自己紹介だ。自己紹介ぐらいで、感謝するとは変な子だな。
さては、友達いないんだな。俺と一緒だ。
……おっと、目じりから水球が。
「__ちがう。そっちじゃない。」
否定されてしまった。
と言うか、ナチュラルに心を読まれたな。ビックリした。
「__かおに、かいてる。」
サイですか。
どうやら、面が悪いらしい。ポーカーフェイスに努めねば。
そうなると、ますます感謝の理由がわからない。この子と会話した時間なんて、ほとんどない。
呼び出されたかと思えば、いきなり落とされたし。
気分としては、RPGの王様との謁見だった。『魔王を倒して』とか言われそうな空気だったし。
……言われてないけど。
そういえば、「来て」とか何とか言われてたっけ。
いや、「上ってきて」だったか?
……登ってはないな。まあ、来たからいいのか?
思考を巡らせている。その瞬間。
頭にある気配が、ふっと消える。
黒い影が、少女の元にテクテクと歩いていく。
少女は、近づいてきた黒猫__閏尾を、自然な手つきで撫でる。
「__あなたは、いばしょ、みつけたのね。」
__ナーォ。
気持ちよさそうな鳴き声。
撫でられている閏尾を見て、少し羨ましくなる。
……いいな。俺、まだ撫でさせてもらえてないんだよな。撫でようとすると、普通に手を引っぱたかれるし。
視線を細めながら、考える。
閏尾。いや、黒猫。
《輪廻を巡る十二象》の最後のボス。
「………鬼か。」
視線が向けられる。正解だと言わんばかりに。
やっぱり。鬼も、黒猫と同じ存在だったのか。
けれど、なら、なおさらわからない。
「言っちゃあなんだが、鬼は黒い塔の守護者的な立場だったんだろ。どっちかと言うと怒られそうな感じがするんだが。」
ふるふる。と首を振り、淡い金色が揺れる。
「__ふねは、ぼうそうしていた。」
小さな声。けれど。
どこか、悲しそうだった。
「__だから、とめてくれて、ありがとう。」
素直な感謝の言葉に、少し照れてくる。
「まあ、欲しいアイテム手に入れたかっただけなんだけど。」
誤魔化すように言ってから。
「………どういたしまして。」
純粋に嬉しいもんだ。やりたいことをやった結果だが、感謝されるのは悪い気がしない。
それに、気になることも聞こえた。
…………船、ね。
黒い塔のことを”船”って呼んでるな。突っ込んでもいいのかどうか。例え、質問したところでまた落とされそうな気がするな。
確か、黒い塔の名前って、
ええと、何だっけ?思い出せー。
必死に記憶を掘り返す。
十二支ダンジョンへ入る前。表示されていた文字。
………………………{
|「黒の塔」アーク・オブ・リコレクションへようこそ
|ダンジョン「輪廻を巡る十二象」
|
|ソロダンジョンを開始しますか?
|・YES・NO
}………………………
「……アーク・オブ・リコレクション。」
アーク。
ARC……いや、ARKか。直訳だと、”箱舟、方舟、箱船”。
リコレクションだと、記憶や追憶か。”思い出”かもな。
そこまで考えて。ふと、少女を見る。
「そういや、聞いてなかったけど。」
静かな空間の中で、声が響く。
「ここって何処なの?」
だいぶ、ぶっこんだ質問。これで、落とされても仕方がないほど。
けど、こちらが考えてるよりあっさりと答えてくる。
「__ここは、わたしの、きおく。」
閏尾の撫でる手が強くなる。
「__おもいでの、ばしょ。」
ぽつり、と。静かに落ちる言葉。
この崩壊した世界が。
この空間が、誰かの“思い出”を再現したもの。
そう言われた瞬間。
空気が、急に冷たくなった気がした。
少女の唇が、再びゆっくり動く。
「__なまえは、____。」




